『Lady Macbeth』

  • 2017/11/13 05:32
  • Category: 映画
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タイトルは『Lady Macbeth』だが、この映画、ご本家の『マクベス』とは何の関係もない。
お話も似ていない。しいて言うなら、主人公のキャサリンが義父、夫、夫の子ども、と次々に殺していくところだけは、夫を叱咤して次々と邪魔者を始末させるマクベス夫人と似ていなくもないが、後はまったく別物だ。

たとえば、マクベス夫人は夫を焚きつけて人を殺させるが、キャサリンの方は自ら手を下すし、殺した後で良心の呵責に悩まされ、「洗っても洗っても、手の血が落ちない」などと気の弱いことを言うマクベス夫人と違い、キャサリンの方は平気の平左、何食わぬ顔で日常を送り、殺人がバレそうになると無実の召使に罪をなすりつける等、あくまで気丈にして冷酷非情である。

おまけにキャサリンが義父や夫を殺すのは、マクベス夫人のように権力欲、出世欲に駆られてのことではなく、夫の留守中に恋仲になった馬丁とよろしくやりたいためであるので、これじゃあ『レイディ・マクベス』というより『レイディ・チャタレイ』じゃないの?と、茶々を入れたくなるくらいである。

そもそもキャサリンは、体面と後継ぎ確保のため、義父が金で買って息子にあてがった嫁である。若くて、そこそこの容貌であるが、夫は元より彼女に関心はなく、新婚の彼女をほっぽって、さっさとどこか(後に愛人のところとわかる)へ行ってしまう。ヒース生い茂る田舎の館に一人残されたキャサリンは、召使にかしづかれてすることもなく、話し相手になる友人もなく、無聊を持て余す。そこに登場するのが若い馬丁。黒白混血で、たくましく、エネルギッシュで傍若無人。主人を主人とも思わず、キャサリンに挑みかかる。

で、お定まりの展開になって、「彼と一緒にいるためには、あいつらが邪魔だわ」ということになり、まず口うるさい義父を毒キノコで殺し、次いでキャサリンと馬丁との評判を聞いて帰ってきた夫を撲殺し、夫がいなくなってから突如現れた夫の隠し子(この子も黒白混血)を殺し、と次々片付けていくわけだが、私に言わせればこれはそもそも義父が嫁選びを間違えたのがいけないのである。

家の体面を保ち、後継ぎが欲しいというだけなら、若くて朗らかで、しかし頭の方はどこかすこーし足りないのでは?と思われるような、健康にはちきれんばかりの田舎娘を選ぶか、あるいは同様に若くて健康だが、気弱にして羊のように従順、義父や夫に逆らうことなど夢にも思わないような、おどおどした娘を選べばよかったのである。

それを若いのと健康なのはいいとして、性格の方は羊どころか猪突猛進のイノシシ並み、好奇心が強くて活力にあふれ、何かをやりたくてうずうずしているような娘を選ぶから、そしてそんな若い獣のような娘を、何にもない田舎の屋敷に閉じ込めたりするから、ちょっとしたきっかけで内にくすぶっていた熱情にぼっと火が付き、大きく燃え上がって屋敷全部真っ黒焦げ、ということになるのである。義父殿、どうせ金で嫁を買うのなら、もう少し人選に慎重であるべきであった。親族は選べなくても、姻族は選べるのだから。

それにしても、ほどほどに面白く思っただけで、惚れ込んだわけではない映画、本について書くのは簡単だ。思い入れがない分、お気楽に感想を書ける。これが気に入ってしまった映画、その中に引き込まれ、どっぷり浸ってしまった映画は、思うところがありすぎて、なかなか文章になってくれない。たとえば最近見た中では『Le fils de Joseph』が印象に残っているが、感想はいまだに書けないでいる。せいぜい Mathieu Amalric が出ている映画にはハズレが少ないとか、冒頭の主人公ヴァンサンとその友人との会話は、まるで『初級フランス語会話』に出てくるやり取りみたいだとか、埒もないことばかりである。
年の終わりには、「今年印象に残った映画 トップ10」みたいなのを書きたいと思っているのだが、こんな体たらくではタイトルの羅列と一行感想だけに終わる可能性なきにしも・・・


Mathieu Amalric 氏 
一度見たら、まず間違いなく記憶に残る強烈なお顔立ち


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やっと読了

  • 2017/11/07 21:54
  • Category:
先月末、例の「Le cas Sneijder」を読み終わった。
読み始めたのが5月末だから、たかだか200ページちょっとの本にまるまる5か月かかったわけで、カメよりのろい、ナマケモノ並みの漫歩さ加減だが、あまたの新出単語をひとつひとつ調べつつ音読しているのだから仕方がない。

それでもこの本は、最後まで実に実に楽しかった。
作者である Jean-Paul Dubois 氏のシニカルに冷めたものの見方と、その裏に微かに漂う皮肉っぽいユーモア。嫌味なほどの(しかし私にはこの上ない御馳走で、興奮の軽電流が背筋を流れるような)ペダンチズム。魅力的な人物を淡彩画のようにさらりと描き出す筆力。(主人公のPaulも悪くはないが、常に物静かで、しかしすべてを見通す眼差しを持つ博識の弁護士 Wagner-Leblond や Paulの娘Marieの生き生きと弾む精神はさらに魅力的だ)
活字中毒者として、今までそれこそ数えきれないほどの小説を読んできたが、ここまで私の好みのツボにぴたりはまる文章を書いてくれる人は珍しい。

ただし勉強中のフランス語で読んだので、読み取れていない部分が多々あることは間違いないし、誤読した部分もそこかしこにあると思う。それでも、たとえ手探り状態の言語であっても、その内容や文章のスタイルが好みか好みでないかは、自ずとわかる。母語でない言語で読む場合、作者によって選ばれ、使われた言葉のひとつ、ひとつ、その語が持つイメージ、その語から一瞬にして想起されるあらゆる、ほとんど無限の連想、あるいはまた発音された時の音、その響き、そしていっそ手ざわりといっていいような、その語に接したときの感触、そうした、一つの言葉が内包する情報の一切を瞬間的に脳裏に浮かべて、それを舐めるが如くに味わうような読み方はまずできないが、(読んでいる言語が外国語で、新出単語の連続では、“語の持つイメージ”などありようがないし、当然、連想もない。音? 知らんがな・・・)
が、それでも、たとえ盲人が象を撫でるような読み方でも、その撫でている象が大きいか小さいか、触っている皮膚が硬いか柔らかいかくらいはわかるし、死んでいるか生きているかも、(たぶん)わかる。

で、つまり今回わたしが撫でた象は、その触った手の向こう、皮膚の後ろに暖かい血肉、しっかりした骨組みや筋肉の弾力が感じられる象で、しかもその手ざわりは、象とは思えないほど滑らかで心地よく、私の手をうっとりとさせたのだ。

と、ここまで惚れ込むと、これはもう次も引き続き彼の作品を読みたいところだが、幸か不幸か、先ごろ叔母さんの一人が「とっても面白かったから、ぜひ読んでみて」と、300ページもある分厚い小説を貸してくれたので、まずはそちらを読まねばならない。この小説「L’amant japonais」というタイトルで、作者はIsabel Allende。もとはスペイン語だが、叔母さんが貸してくれたのは、もちろん仏訳版である。

せっかくの叔母さんの好意を無にするわけにはいかないので、Dubois氏を読み終わった翌日から勤勉に読み進めてはいるが、とりあえず30ページ、第2章まで読んでの感想は「うーん、味が薄い」
オハナシの展開はそれなりに面白そうではあるが、陰影に富み、皮肉の利いたJean-Paul Dubois氏の文章を読んだ後では、Allende氏の文章はあっけらかんと平明過ぎるというか、クリシェというか、なんだかハーレクイン・ロマンスを読んでいるようで、古い居酒屋であん肝か何かで一杯やっていたのが、急に白い蛍光灯も眩しいファミレスに連れて来られてペスカトーレの大皿をどんとあてがわれた気分。

まずくはないし、たぶん海鮮たっぷりのペスカトーレの方が、あん肝より栄養もありそうで、健康によさそうだが、舌の喜びという点では・・・、やはりあん肝に一票か。

チャイブ・ペスト

私はペスト(pesto alla genovese:パスタなどに絡める例の緑のソース)は
バジリコと松の実、パルミジャーノ、オリーブオイルで作るものだと思い込んでいたが
この夏お邪魔したジョゼ&ブライアンの家で、バジリコではないペストをご馳走になり
それが大変においしかった。
聞けば、チャイブとカシューナッツで作ったのだそうである。
バジリコでなくても、松の実でなくても、ペストが作れると知ったのはこの時である。

もっとも味はバジリコ&松の実のものとは、少々異なる。
材料が違うのだから当然である。
しかし同じくらい美味しいし、ピタなどにハモスと共につけて食べるなら
むしろ本来のバジリコ・バージョンより、癖が少ない感じで飽きずに食べられる。
バジリコ・ペストにはあまり興味を示さない雪だるまも、
このチャイブ・ペストは大いに気に入ったようで、ぱくぱくとよく食べていた。

ジョゼによれば、彼女の庭にはチャイブがたくさん生えていて
毎年それをいかに無駄なく消費するかに頭を悩ませ
かつては炒め物にしたり、餃子の中に入れてみたりしていたのだが
このチャイブ・ペストのレシピを見つけてからは、もうチャイブの始末に困ることはなくなった。
作り方は簡単だし、一度にたくさん消費できるし、密閉容器に入れておけば結構長く
保存できるし、「実に便利」だそうである。

前置きが長くなったが、作り方は以下のとおり。

荒く刻んだチャイブ       1/2カップ(ぎっしりめに詰めて計ること)
にんにく              1かけ
ナッツ               大さじ2
パルミジャーノチーズ     小さじ2
オリーブオイル         60cc

1. フードプロセッサーにチャイブ、にんにく、ナッツ、パルミジャーノ、塩、コショウを入れる
2. ゆっくりとオリーブオイルを加えながら、すべての材料をやや粒々の残るペースト状になるまで
  プロセッサにかける。硬すぎるようなら、さらにオリーブオイルを加える。以上、終わり。

レシピによれば、これでだいたい1/3カップ(80㏄)くらいのペストができるそうだが、
ジョゼも私もこの量では作りづらいので、だいたい2倍~4倍の量で作っている。
プロセッサが大きめなので、レシピの量では底にへばりついたようになってしまい
うまくペースト状にならないのである。
したがってお手持ちのプロセッサが小型なら、あるいは小型のすり鉢をお持ちなら
上記の量で十分いけると思う。

またナッツは、アーモンドでもカシューナッツでもなんでもよい。
ジョゼはカシューで作り、私はアーモンドで作ったが、どちらもおいしかった。
たぶんマカデミアナッツとか、ブラジルナッツでもいいのだろうが、
価格の点と、入手しづらさの点で、まだ試したことはない。
逆にピーナツはこのあたりで最も手に入れやすく、かつ安価なので
いつか試してみたいと思っているが、ピーナツは厳密にはナッツではないし、
味もかなり違うので、成功するかどうかはわからない。

ちなみにチャイブも他のネギ系の野菜で代用可能である。
実は昨日はこのあたりでグリーン・オニオン(スカリオン)といっている野菜、
日本の長ネギをアサツキくらいに小型化したような野菜で作ってみたが
けっこうイケた。味はチャイブよりさらにネギ臭さが抜けた感じで、かなりマイルド。
パスタに絡めるには味が穏やか過ぎて間が抜けてしまうかもしれないが
ピタにつけて食べるにはちょうどよい。

このグリーン・オニオンでもペストを作れると知ったのは収穫だった。
だってウチの場合、畑にチャイブが青々しているのは夏の間だけ。
冬はチャイブは雪の下で枯れている。
その点、グリーン・オニオンならスーパーで1年中手に入る。
手軽なうえに安価。言うことなし。

「眠られる」

  • 2017/10/16 21:21
  • Category: 言葉
先日、岡本綺堂の『三浦老人昔話』を聞いていたら
老人が語る言葉の中に「その当時、よく眠られない癖がつきまして・・・」
という言い回しが出てきて、「おや・・・」と少し耳にひっかかった。

岡本綺堂さんという作家は、明治末から大正、昭和初期にかけて活躍された作家だから
当然、言い回しは古い。
私が好んで聞いている彼の代表作のひとつ『半七捕物帳』にも、
今ではもう使われない言葉や、今とは違う使い方をする言葉が結構出てくる。
古いとは言っても、たかだか100年くらい前でしかないから
平安時代のお話のように意味がわからないようなことはないが、
「へえ、昔はこういう言い方をしたんだ」と思いながら聞いていると、
祖父の時代にタイムスリップしたような気がして、なかなか面白い。

で、その「眠られない」だが、私はふつうこうは言わない。
動詞「眠る」を可能のかたちで言いたい時は、「眠れる」
それを否定の形にしたい時は「眠れない」で、「眠“ら”れない」とは言わない。

国文法のサイトなどを見ると、「読める」とか「話せる」など
「~できる」(可能)という意味を表す可能動詞は
元の五段活用の動詞「読む」「話す」の未然形に、可能の助動詞「れる」がついて
「読む→読まれる」「話す→話される」となったのが、
のち転じて「読める」「話せる」となったもので、
したがって、それぞれの可能動詞には、それに対応する五段活用の動詞がある
のだそうである。
(逆に言えば、元の動詞が五段活用でない場合は、未然形に「れる」をつけるのは間違いで
だから上一段活用の動詞「着る」の可能動詞は「着られる」。「着れる」とするのは誤りと
なっている)

つまり現代の国文法では、「眠る」(ら行五段活用)の可能動詞は「眠れる」でよい、
ということになるが、しかし明治、大正時代は「眠られる」と言っていたのかと思うと
昭和人間の私が、さらりと「眠れる」などと言ってのけるのは、
明治の人間から見ると、忌まわしき「ら抜き言葉」に聞こえるのかしらん、とも思えて
なかなか面白い。

私は言葉遣いに関しては保守的で、自分で書いたり話したりする時は
新しい言い方よりも古い言い方、いかにも当世風な流行の表現よりも昔ながらの言い回し
の方を好むが、といって別に今の人たちの言葉遣い、話し方を一概に否定する気もない。
ら抜きの「着れる」「食べれる」が多数派に転じたのなら、それはそれで結構。
声高に「それは間違いだ!」と主張する気はない。
「歌は世に連れ・・・」ではないが、言葉だって世に連れ、人に連れ、変化していくのである。
文法学者が何と言おうと、言葉の世界では多数派が常に正しい。
大多数の人たちが使う使い方、そうと考えている意味が
今のその語の使い方、その語の意味なのである。
昔から言葉はそうやって変化してきたのだから。
その変化を止めようとしたり、逆行させようとしたりするのは無駄な努力。
川は海に向かって流れるし、雪崩は上から下に落ちてくる。
まあもっとも私自身は、死ぬまで「着れる」とは言わないと思うけれど。

運動

  • 2017/10/11 03:15
  • Category: 雑記
新しいジムに通うようになって、車でないと行けないとか、
マシンの使い勝手が今一つだとか、いろいろ不自由な点もあるが、
逆にいいところもある。

まず、車で行くので寒くない。
毎年、雪が降るまでは自転車でジムに行っていたのだが
朝の、顔が痺れるような冷気の中、寒風に立ち向かい
自転車をきこきここいでジムに行くのは、寒がりの私には結構きつかった。
耳あてをつけ、帽子を被り、ダウンにスノーパンツをはいていても
顔は無防備。頬と鼻がキーンと冷たくて、一二、一二とペダルを踏みつつ
「さぶいよー、なんでこんなにさぶいんだー?」と不平たらたらだったものだ。

それが今年は車でぬくぬく。
耳あても、帽子も、スノーパンツもなしで、ジムに行ける。
もちろん真冬になれば、ダウンとスノーブーツは必須になるが
それでも雪の中、30分かけて歩いてジムに行くのに比べれば
ヒーターの入った車での15分なんて、たとえ外は零下20度だろうと
30度だろうと、平気の平左。
極楽、極楽。
ガソリン燃やして車で行くのは地球環境にはあまりよろしくないだろうが、
寒がりの年寄りには有難い移動方法である。

そしてもうひとつ、車で行って車で帰って来るので
当然、行きも帰りも雪だるまと一緒。
今までは私は自分の運動プログラムが終わると、さっさと一人で家に帰っていたのだが
車ではそうはいかない。雪だるまの運動が終わるまで待たねばならない。
ジムの入り口にはベンチや休憩用の椅子が置いてあるが
せっかくジムにいるのに座って待っているのも馬鹿馬鹿しいので
自然、何か運動しながら待つことになる。
おかげで1回の運動量が増えた。

たとえば昨日は、暇に任せてミリタリー・エアロビクスというのをやってみた。
エコノにはグループエクササイズ用の部屋があって、
だいたい30分刻みで、ヨガやらエアロビクスやらのクラスが組まれ、
自由に参加できるようになっている。
ただしインストラクターはバーチャル。
生身の人間ではなく、前面に設置された大型スクリーンにインストラクターが現れて
こちらにああしろ、こうしろと指示を出す。
なるほど、これなら1回ビデオを作ってしまえば、どこでも、何回でも使えるわけで
生身のインストラクターより、ずっとお手軽、安上がり。
さすが、エコノ!というところか。
ただ、みなさん、バーチャルなインストラクターでは面白くないのか
利用者はほとんどいない。昨日も部屋には私だけだった。
だから下手くそでも、インストラクターの動きについていけなくても、
全く気にせず、お気楽にバタバタやっていられたのだが
動きそのものは“ミリタリー”というだけあって、なかなかきつかった。
おかげでいまだに脚が痛い。

ついでにストレッチも毎回するようになった。
たとえ年寄りでも毎回やっていれば柔軟性は向上するようで
以前より身体が楽に曲がるようになった。
うまくいけば、そのうちお相撲さん並みに、開脚前屈(股割りですね)が
できるようになるかもしれない。
筋力と柔軟性を維持して、寝たきり老人にならないよう頑張らねば。


土俵の上で股割りを披露するお相撲さんたち。
いや、見事なものです。

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紅葉と朝顔

先日、異常に暖かい日が続いていると書いたが、
その暖かさは先週水曜で終わり、木曜からは最高気温15~18度という
この時期の通常気温に戻った。
水曜は28度だったのだから一気に10度下がったわけで
毛布を出したり、フリースを出したり、なかなか忙しいことであった。

が、気温の急降下にも関わらず、花々はいまだに元気で
朝顔など今朝はたったの6度だったに5つも花をつけていて
「君、君は真夏の花ではなかったのかね?」と、問い質したくなるくらい。
おかげで色づき始めた赤い楓を背景に、青い朝顔が咲くという
俳句なら季重ね、いや紅葉と朝顔という異なる季節の季語が重なっているのだから季違いか、
のような有様となった。
まったく、何が何だかよくわからない今年のケベックである。


朝顔の葉っぱは緑ですが、後ろの楓はすでに紅色

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ちなみにコスモスも咲いております。
昨年のこぼれ種で生えたコスモスなので今頃咲いていますが
ふつうケベックでは、コスモスは夏の花です。


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8月が9月で9月が8月

ここ2週間ばかり、異常に暖かい日が続いている。
昨日、今日など「暖かい」を通り越して真夏並みに暑く、
午後には気温が30度を超えた。

今年は冷夏で7月、8月は「暑い」と感じる日が数えるほどしかなく
一年草は花をつけるのが遅く、トマトもエンドウも不作だったのに
9月の半ば前後から急に暑くなり、しかもぴかぴかの青空続きなので
例年ならそろそろ寒さで枯れ始めるペチュニアがいまだに花を咲かせて
むしろ8月より元気なくらいだし、朝顔もまた、いったん終わりかけたのが
また花をつけ始めて、昨日など4つも咲いていた。
ケベックで、9月に、朝顔を見るのは珍しい。

お義父さんの話によると、この暖かさは75年ぶりだそうで
ということは、お義父さんは今回が2回目の経験のはずだが
1回目の時は若干8歳の子どもだったので、
「なーんにも覚えていない」そうである。

もっとも異常な暑さ/暖かさでも、動物はそれなりに冬の準備を進めている。
夏の間ほとんど姿を現さなかったチッピー(シマリス)が
9月に入って、頻繁にデッキに姿を見せるようになった。
冬眠準備用のピーナツ確保に励んでいるのである。
1匹ではなく、どうも2、3匹はいると思われるのチッピーが
入れ代わり立ち代わり1日に何度もデッキにやってきて、ピーナツを持っていく。
すでに2ポンド(約900g)入りの袋が1つ空になり、
2つめも残りわずかになっているので、ウチの庭のどこか、
および近所の林の中に散在するチッピーの棲み処には、
計1.5㎏ほどのピーナツが蓄えられているはずである。

そして今日は、カナダギースが南に渡っていくのを見た。
夕空にV字型の黒い影が広がり、物悲しいような雁が音がこだますのは
やはり秋である。
たとえ時ならぬ30度の気温に、だらだらを汗を流していても。


画像は借り物ですが、今日うちの庭から見えたのも
きれいなV字編隊でした

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マフラーを編む

この夏、従妹のソフィの誕生祝にレース模様のショールを贈ったら
結構気に入って貰えたらしく、先日「お義母さん用にも何か編んで」と
新たに依頼された。
10月がお義母上の誕生日なのだそうである。

お義母上は、この前ソフィの誕生会の時に初めて会ったが
女性ながら“豪放磊落”と形容したいような、
豪快にして人を飽きさせない話し上手な人物で
ケベッコワーズだがアングロフォンだったのも幸いして
パーティの間中、私も雪だるまもあれこれと話し込み、笑い転げて
大変楽しい思いをさせてもらった。
親戚のパーティに出かけて、時間が早く過ぎたのは初めてである。

「よし、彼女のためなら、いくらでも、何でも編みましょう」ということで
即座に快諾。
で先週の日曜、早速ソフィが毛糸を持って現れた。
そして編むものはマフラーがいいと言うので、
持参の毛糸の太さ(light fingering)と長さ(490ヤード)を鑑みつつ
Raverly内のフリーパターンから好きな模様を選んでもらった。

ソフィが選んだのは、このパターン


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レースでジグザグ模様で、一見複雑そうに見えるが
実際に編んでみるとパターンはごく単純で、七面倒くさいところは全くない。
それできれいに見えるのだから、デザインした人は偉いと思う。

そして編み始めてすぐ感じたのが、ソフィが選んだ毛糸の質の良さ!
彼女が持ってきたのは Manos del Uruguay の “Fino”で、メリノ70%、シルク30%。
クリームのようにやわらかく、しっとりした手触りで、編んでいて実に気持ちがいい。
同社の糸の質のよさは以前から聞いていたが
1カセ(100g)が20数ドルと、私の予算をはるかに超える高価格なので
「いいなあ」とうっとり眺めているだけで、自分では買おうと考えたことすらなかった。

それが今回、ソフィのおかげで手に取り、触り、思う存分編むことができて
実にしあわせ。毛糸でも布でも、あるいは動物でもそうだが、
人はやわらかいものをさわると心が和むようで、
(絹に手をすべらせた時の感触、眠っている猫の背を撫でた時の感触を想像したまえ)
手ざわりのいい糸は、編んでいて心が安らぐのだ。
お義母上のために財布をはたいたソフィに感謝である。


ブロッキング前の編地はこんな感じ。
糸の撚りは甘め、太さが均一でなく、スラブヤーン風に太い部分と細い部分があるので
編地もそれなりに多少でこぼこしている。(ま、私の技術のせいもあるんだが・・・^^;)
色も水色~青~紺と、この写真だとはっきりしないが段染めになっている


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ジムがつぶれた

  • 2017/09/15 09:05
  • Category: 雑記
なんとまあ、行きつけのジムがつぶれてしまった。
日曜に行った時はなんともなかったのに、
昨日(火曜)、いつも通り二人で自転車で出かけたら
ふだんなら少なくとも数台の車が停まっている駐車場に車が1台もなく、
屋内に明かりも見えない。
「あれ、何かの理由で臨時休業かな。珍しいな」と入り口を見れば
紙が1枚、ぺたりと貼ってあって、臨時休業どころか永久休業、
ジムは閉鎖だと書いてある。日付は9月10日。

しかし9月10日というのは日曜日、私たちがいつもと同じにトレーニングし、
顔なじみの人たちと雑談を交わした日で、
カウンター内の従業員、ジェシカもアントニーも普段と変わりなく働いていたし
他のメンバーもふつうにトレーニングに励んでいて
その日で営業は終わりだという気配は微塵もなかった。
それが一夜明けたら、貼り紙1枚で廃業とは・・・

まあ確かに、以前から赤字だという噂は聞いていたし、
ことに2年ほど前、隣町にエコノ××という格安フィットネスチェーンが出来てから
そこに客の何割かを取られたようすではあったが
同時にオーナーは他にも事業をしていて、税金対策にジムを続けているのだ
という話も聞いていたし、つい2、3か月前にも新しいマシンを入れたりしていたので
まあそうすぐすぐつぶれることはあるまい、と高をくくっていたのだったが
豈図らんや、青天の霹靂的につぶれてしまった。

雪だるまは入り口の貼り紙を前に、盛んに「Sxxx」だの何だの罵っていたが
怒ってみても始まらない。
近所のSジムがつぶれてしまったのは実に災難だが
私たちの場合、ジムなしの生活は考えられないので
早急に代わりのジムを探さなければならない。

で、その日の午後、早速ジム探しに出かけた。
確かダウンタウンの目抜き通りに1つあったはずだ。
Sジムがつぶれた今、一番近いのはそこだと車で行ってみると、
表に看板だけはまだあるものの、ドアには錠が下ろされ、中は空っぽ。
なんとここもつぶれていた。

次、うちから十数キロ離れている隣の隣の町のMジム。
中を見せてもらうと、設備はそこそこ整っているが古くささは否めず、
窓が小さいせいか全体に薄暗く、陰気な感じがするのも気になる。
運動するのに雰囲気は関係ないだろう?と思われるかもしれないが
私の場合、もともとのモチベーションがあまり高くないので
広々と明るく、楽しい雰囲気でないとやる気が出ないのである。
それに何しろ遠い。

雪だるまは「でもここは、ウェブ情報によると、
このあたりでベスト3に入る設備のよさなんだ」というが
そもそもこのあたりには目ぼしいジムは3か所(Sジムがつぶれたので、
今は2か所)しかないのである。
3つしかないところでのベスト3に何の意味がある?
ベスト3もワースト3も同じことではないか。あほくさ。

雪だるまはMジムに決めたそうだったが、
私は遠いのと雰囲気が暗いのとが、どうしても好きになれなかったので
渋る雪だるまを説得して、例のエコノ××も見に行った。
ここはケベック州内に50か所以上展開しているジム・チェーンで
その名の通り、会費が安い代わり、提供されるサービスは最低限。
タオルの貸し出しはないし、シャワーも有料である。
出来た当時、Sジムメンバーの何人かが見に行ったが
ダンベルが75ポンドまでしかないとか、××マシンがないとか、
評判は今ひとつだった。

が、行って中を見せてもらうと、人が言うほどマシンの揃えは悪くない。
私たちが普段使っているもののうち無いものもあるが
それを言うなら、香港のCフィットネスからここのSジムに移った時も
Sの設備に合わせて多少ルーティンを変更しなければならなかったわけで
最初は少々不便に感じても、慣れてしまえば何ということはない。
それに何より、ジム内が広々と明るく、開放的な雰囲気なのが気に入った。
これなら楽しく運動できそうである。

雪だるまに「どうだ?」聞くと、見る前の否定的態度はどこへやら。
「うん、悪くない」というので、その場でここに決めて申し込みを済ませた。
さすがエコノ××というだけあって、年会費はSの半額以下(約130ドル)だった。
道理で客を取られるはずである。

遠くなったので、もう自転車で行くことはできず、冬場、歩いていくこともできないが、
実のところジムまでの所要時間はあまり変わらない。
自転車で15分が車で15分に変わっただけである。

そして、これからエコノに行くようになると、Sジムで顔見知りになった
エレンやそのパートナー、いつもガムを噛みながらトレーニングしているギイおじさんや
マルセルおじさん、セルジュ#1や#2等々に会えなくて寂しいなあ、と思っていたのだが
なんと水曜の朝、いつもSに行っていた時と同じ時間にエコノに行くと
エレンとそのパートナーが駐車場にいて、中に入ると元Sジムメンバーが3人いて、
しばらくしたらギイとセルジュ#2もやってきて、またしばらくしたらマダム・アウディ
(本名ではない。いつもアウディに乗って来るので私が勝手にこう呼んでいる)も来て
なんのことはないSジムがそのまま移動したような塩梅になった。
もちろん全員がエコノに移ったわけではなかろうが、
それでも顔見知りに引き続き会えるのはうれしい。
モチベーションも上がろうというものである。

道に迷うなら、田舎は車、都会は徒歩

  • 2017/09/12 10:48
  • Category: 雑記
田舎で道に迷うなら車、都会で道に迷うなら徒歩がいいというのは
田舎は何しろ建物と建物、家と家の間が広ーく開いていて
歩いてなんぞいたら、いつまでたってもどこにも着かない。
田舎は徒歩で移動するようにはできていないのである。
それに道幅に余裕があり、車通りも少ないから、
うろうろ迷ってのろくさ走っても、後ろから警笛を鳴らされることもない。
急いでいる人は、黙って追い抜いていくだけ。
こちらは焦ることなく道路標識や家の地番を確かめつつ、
ゆっくり好きなだけ迷うことができる。

が都会ではそうはいかない。
前にも横にも後ろにも車がいるから、ここかあそこかなどと迷っている余地はない。
迷ってぐずぐずした運転などしようものなら、情け容赦なく警笛が鳴らされる。
ついでに1本の道路に2、3車線あったりするから、右折/左折したいなら
早くからそれなりの車線にいなければならない。
「あ、行き過ぎた!」と思っても、Uターンできる場所は限られているから
涙を呑んで延々まっ直ぐに走り続けるしかないし、
GPSが頼りにならず地図を見たいと思っても、
田舎のようにひょいと路肩に車を寄せて、おもむろに地図を広げ、
ということもできない。
ちょっと思い浮かべてみればすぐわかるとおり、
都会の道路にはぼうっと広がった路肩など存在しない。
古い街であればあるほど道幅には余裕がなく、道のぎりぎりまで
店舗や住宅がせり出している。
たまに空きスペースがあると思うと、それはだいたい有料の駐車場で、
しっかりメーターがついていたりする。
つまり、都会には気軽に車を止めて今後の走路を検討できる場所がなく、
よって迷ったが最後、ひたすら走り続けるしかないのである。
(私と雪だるまは一度、ケベック市でこれをやった。なかなかしんどかった)

が、歩きなら、状況は一変する。
都会は人が歩いて移動できるようにできている。
人がたくさんいるし、店もあるし、日本なら交番もあるから、
誰かに道を聞くこともできる。
歩き疲れたら、スタバやカフェ付きの本屋に寄り込めばよい。
陽気のよい時なら、公園で休むという手もある。
そうやってお気楽に歩いていると、そのうち迷っているんだか、
ただ散歩しているだけなのか、自分でもわからなくなるかもしれない。
誰かと待ち合わせをしている場合は困るが
そうでなければ都会で徒歩で道に迷うのは、さほど悪いものではない。

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プロフィール

らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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