『緋牡丹博徒』 お竜さんは観音菩薩である

  • 2017/01/05 21:24
  • Category: 映画
年明け早々、任侠映画の話というのもなんだが
昨年末に見た藤純子さんの「緋牡丹博徒」シリーズが
意外に面白かったので、ちょっと書いてみたくなった。

このシリーズ、1968年の1本目『緋牡丹博徒』から
尾上菊五郎さんとの結婚により藤さんが引退される
72年の『緋牡丹博徒 仁義通します』まで計8本制作され、
当時大ヒットしたので、現在50歳以上の方なら、実際に映画を見たことはなくとも
「緋牡丹のお竜」の名くらいは、ご存知のことと思う。
あるいは子供の頃、街角でかっこいいお竜さんのポスターを
ちらり見かけた記憶がおありかもしれない。

お話の筋は簡単だ。
時は明治中頃、九州は熊本、五木の親分、矢野組の一人娘に生まれたお竜さんが
渡世修行の過程で行き遭うさまざまな事件の中で、
侠客としての、そして人間としての仁義を通し、
弱きを助け、強きをくじき、悪党どもを成敗していくというのが8本すべてに共通する大枠。
まあ要するに、“古い”タイプのヤクザを主人公にした任侠映画
定番の筋立ての主人公が「緋牡丹のお竜」という女になっただけなのだが、
しかしこの緋牡丹のお竜さん、はなからヤクザ人生を歩むつもりだったわけではない。
地元の大親分の娘とは言え、幼い頃は普通の家の娘同様、大事に大事に育てられ
女学校も出、一通りの作法も身につけて、晴れてカタギの大店にお嫁入り
というその矢先、親分である父が辻斬りに殺され、
それを契機に組はつぶされ子分は散り散り、嫁入り話もご破算になって
蝶よ花よのお嬢様から一転、父の仇を討つために背中に緋牡丹の刺青を背負う
“緋牡丹のお竜”として渡世することになるのである。


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だからこのお竜さん、まんま“うぶな小娘”といった体の第1作はもとより
貫禄の第8作になっても、どこか“お嬢さん”らしさが漂う。
藤さんのきりりとした中にも柔らかさのある(この人は微笑うと片えくぼがよる)、
品のある顔立ちのせいかもしれないし、踊りの所作のようなすっきりとした物腰、
常に無地に近い着物に博多帯という地味な出立のせいかもしれないが
(第一、主題歌にしてからが、「娘盛りを渡世に賭けて・・・」であって
「女盛りを渡世に賭けて・・・」ではないのだ)
銀幕に登場するお竜さんには、博打で人生を送っているようなすさみの影、
日陰者のねじくれた暗さがなく、緋牡丹というより池の中の白睡蓮のように清々しい。
その清らかさは、「聖女」と「娼婦」というお馴染みの(男の側から見た)女の分け方に従えば
明らかに「聖女」側。もっと言えば聖「女」というより聖「母」のキャラだ。

「背中に緋牡丹を背負った女ヤクザが、なんで聖母でありえようか」
と思われる方もいらっしゃるかもしれないが
しかし彼女の聖母性は映画を見れば一目瞭然。
映画の中のお竜さんは、一貫して性的対象外の女として描かれているのである。
だから「聖母」。あるいは、「聖母」という言葉があまりに西洋/基督教的過ぎるなら、
「慈母観音」と言い換えてもいい。
彼女は衆生済度の慈母観音菩薩として、周囲の恵まれない者たちに
惜しみない愛を注き、その悲運に熱い涙を流すが、
しかし「母」であり「観音」であるから、男は抱かない。男に抱かれることもない。
彼女が胸に抱きしめるのは、両/片親を失くした子ども、苦海の女、
死んでいく子分等々、つまり自身が「母」の立場に立ちうる対象だけだ。
他の親分方や同輩の男など、自身が「母」ではなく「女」になってしまう対象は、
決して抱かない。


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だからシリーズには、高倉健、鶴田浩二、菅原文太といった
当時の錚々たる任侠映画のスターたちが相手役として登場するが
お竜さんは彼らと恋仲になるどころか、終始一貫、義理に厚く、筋を通した生き方を貫く
敬すべき同業者としてのみ遇し、礼儀正しい他人行儀さを崩さない。
菅原文太との有名な今戸橋の場面でさえ、手がふれ合うのは
落ちた蜜柑を拾って渡す、その一瞬だけである。

一方、男の方もお竜さんを憎からず思い、危機となれば身体を張って
彼女を助けようとはするが、しかし自分の女にしようとはしない。
そりゃあそうだ、いくら美女でも、「母」、「観音様」に手を出す男がどこにいる?
唯一の例外は若山富三郎演じる四国道後の熊虎親分だが、彼にしたところで
お竜さんにぼうっとなって、妹を通じて結婚を申し込んだものの
お竜さんの方は「杯」を三々九度の、ではなく、兄弟分の杯だと勘違いして承知した
というコメディだから、勘定には入らない。

そして東映の任侠映画であるから、たまにはお色気場面もあるし
暴行場面もあるのだが、しかしそこで汚されるのは決まってお竜さん以外の女、
いかさま賽を振る女博徒であったり、女郎であったり、裏切り者の女であったり
つまりは、はなからその「聖女性」を否定された女である。
聖女性を否定された女=娼婦なのであるから、
そんな女はいかように汚そうと構わないのである。
そして逆にお竜さんは、穢れなき存在としてその聖女性を担保され、
「観音菩薩」として敬慕の対象となる代わりに
生身の女としては惚れた男の腕に抱かれることもなく、
独り光背背負って蓮の花の上に立つことになる。
その昔『山口百恵は菩薩である』という本があったが
実は緋牡丹お竜さんも菩薩であったのだ、ちょん。

それにしても、この女を「聖女」と「娼婦」に分ける構造は、
昭和40年代の任侠映画だからなのか、
それとも映画界という世界が圧倒的に男中心の世界で
(金を出すのも、メガホン取るのも、カメラ回すのも主要な役割は全部男)、
だから当然男の側から見た女ばかりが描かれることになるのか
いずれにせよ余りにわかりやすすぎて、いっそ可笑しい。

もっとも映画そのものは、そうした七面倒くさいことを抜きにして
娯楽映画として上出来に楽しいし、藤さんのすっきりと粋な着物姿や
回を追うごとにあでやかさを増していく美貌を眺めるためだけでも
全8本、鑑賞する価値はある。
そして賭場での藤さんも、惚れ惚れするほどかっこいい。
彼女がやるのはサイコロではなく手本引で、終始無言、無表情だが
すっと伸びた背筋、半肩に掛けた羽織、
目木を指し示すしなやかな指の動き等、ひとつひとつがきっちりと端正だ。

この手本引きは 『乾いた花』の加賀まりこさんもやっていたが
動きが静かなだけに、男がやるより女がやった方が
その所作の美しさが際立つ気がする。
ただし、賭け方は丁半博打よりだいぶ複雑で
私はいくら解説を読んでも、掛け金の置き方と倍率が覚えられない。
商売とは言え、瞬時に客のかけ金額と倍率を計算して
配当を渡せる合力のお兄さんたちは凄いと思う。

最後になったが、緋牡丹シリーズは藤さんのお相手の俳優さんたちもいい。
高倉健さん、鶴田浩二さん、菅原文太さんの3人が
とっかえひっかえ出てくるのだが、どなたもちょうど男盛りというか
油の乗ったところという感じで、みなそれぞれに渋くかっこいいのだ。
高倉健さんなんて、私はこのシリーズを見るまではどこがいいのかちっともわからなかったが
(『鉄道員』でも『あなたへ』でも、全く冴えなかった)
なるほど、若い頃の任侠映画の健さんは、登場するだけで舞台が締まる
圧倒的な存在感と、一徹を絵に描いたような容貌で
見るものを陶酔させる俳優だったのだなあと納得した。
そう思ってみれば『唐獅子牡丹』のポスターなど、痺れるほどかっこいい。
昭和残侠伝シリーズ、見てみたくなったが、まさか雪だるま、買わないだろうなあ。
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不快なものは不快

  • 2016/07/31 11:17
  • Category: 映画
私は見始めた映画やアニメが不愉快な場合、さっさと席を立つことにしている。
貴重な視力と時間を、不快なもののために使いたくないからである。

一昨日、雪だるまが選んだアニメ『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』もその1つで
どっと引きたくなるようなタイトルといい、ラブコメ少年漫画風の画といい、


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劇中で歌われるアイドルソングといい、80年代の臭気ぷんぷんで、
それだけならまだ「実際、このアニメは84年の作なのだから
80年代のにおいがするのは仕方がない」と、諦めて見ることもできたのだが
話が始まって20分もしないうちに、ぽんぽんと男性優位主義的な発言が飛び出してきて
「アホかいや・・・」と、心底げんなり。
ついでにむらむらと腹も立ってきて、開始40分でさよーなら。
時間を有効に使うべく、庭に出て畑と花壇への水まきを始めた。

マクロスの主人公は、一条輝(いちじょう・ひかる)君という18歳の地球統合軍パイロット。
これにリン・ミンメイという16歳くらいのアイドル歌手、
一条の上官である早瀬未沙などが絡むのだが、
まず引っかかったのが、早瀬に対するエースパイロット、ロイの物言い。
ロイにとって早瀬は同僚、あるいはもしかしたら上官かもしれないのに
(ウィキをチェックしても二人の階級差がよくわからない)
その早瀬に向かって「職務を離れたら、少しは女らしくしろ」とか
「女は男の言うことを聞くもんだぜ」とか真顔で言うのである。

このロイ、設定では1980年代の生まれのはずなんだが、
頭ん中はこのオハナシを考えたおっちゃんたち(ほぼ40年代生まれ)のまんまである。
外見が絵に描いたようなコケイジアン、身長2mを超える金髪の大男なのも
力の優位性を誇示するようで、こちらの反感を誘う。
態度がデカい上に図体もデカいときては、憎々しさ100倍である。

おまけにこのロイという兄ちゃん、色恋に関しても“力の誇示”路線まっしぐら。
一条や早瀬、他の仲間たちと一緒に酒場に繰り出し、
そこで「好きな女は力ずくでモノにするもんだ」と説教したあげく、
「こういう風にさ」と、隣に座るGFのクローディアに
彼女が嫌がっているにもかかわらず、無理やりキスするのである。
ったく、いつまで「女はやっちまえば、こっちのもの」というアナクロ世界に
生きているんだか・・・。ほとほと愛想が尽きる。
百恵ちゃんが「坊や、いったい何を教わってきたの?」と歌ったのは78年である。
なのに阿呆なおっさんたちは、80年代になってもまだ作中人物たちに
こんなせりふを平気で吐かせていたのである。
いくら30年前のアニメとは言え、これが怒らずにいられようか。
不快なものは、何年経っても不快なり。

もっともこのアニメ、ウィキを読むとそのコンセプトには面白いものもあり
もしかして不快を我慢して最後まで見れば、「おお、なかなか」と思えるところもあった
のかもしれない。
私は年と共に著しく忍耐心が低下してきているので、再鑑賞の可能性はかなーり低いが。

60年代サムライ映画

  • 2016/07/15 08:56
  • Category: 映画
そもそも座頭市シリーズを見ようと思ったのは、その前に見た60年代のサムライ映画が、予想外に面白かったからである。

雪だるまが買ったボックスセットだったのだが、その名も『Rebel Samurai : Sixties Swordplay Classics』と、お上に盾突くサムライを主人公にした映画ばかり4本、集められている。誰が選んだのか知らないが、これがなかなかの秀作ぞろいで、まず話がしっかりしている。よくあるチャンバラ映画のように、紋切り型に勧善懲悪、滅法腕の立つ浪人が悪代官一味をばっさばっさと斬り捨てて大団円、ばんざーい!なんて話は1本もない。どの話もそれぞれに、裏の裏を掻くように、一捻りも二捻りもしてあるのである。

たとえば1本目の『上意討ち・拝領妻始末』(67年、監督:小林正樹)。粗相のあった藩主の側室の厄介払いに、家臣の一人に妻として押しつけ、しかし正室が生んだ嫡男が急死し、側室の子が世継ぎとなると、世継ぎの生母が家臣の妻では何とも具合が悪いと、今度は下賜した側室を城へ返せと言ってくる。

そうした藩主やその取り巻きたちの身勝手に振り回されるのは常にその下にいる家臣たちであり、またその妻であり母であり娘である女たちだ。主命とあればどんな理不尽もご無理ごもっとも、「否」は言えないのが武士社会である。そこに理は入らないし、情も入らない。

『上意討ち・拝領妻始末』の主人公、側室を下賜された藩士とその父は、最後、主命に抗って家に立て籠もり、藩からの討手に討たれるが、たとえ傍からは犬死と見えようと、父子にとっては本望。ことに父の方は婿養子に入って以来30数年、家付き娘の尻に敷かれ続けてきた男が最後に見せた意地なのだ。これを本望と言わずして何とする。

2本目の『獣の剣』(65年、監督:五社英雄)も同様。藩財政を助けるため、山中に隠れ住み、藩命で幕府領の砂金を盗掘していた某とその妻は、立派にその任務を果たしたにも関わらず、最後、約束通り藩士に取り立てられるどころか、砂金を受け取りに来た家老たちに口封じのため殺される。そしてその某と生前些かの関わりがあった浪人も、実は騙されて上司を斬り、その娘から仇と追われる身になった男。共に“藩”の政争や権力争いに巻き込まれて、馬鹿を見た男たちだったということだ。

しかしいくら馬鹿々々しい武家社会でも、その中に生きるものはその掟、しきたりに従わざるを得ない。「あほくさ」と逃げ出し、町人や遊び人になってみたところで、暮らしが楽になるかといえば、まさかそんなはずもなく、気楽は気楽でも腹はくちくならない。

それでも逃げ出してみたのが、『斬る』』(68年、監督:岡本喜八)の源太であり、逆に「武士になりたい」と剣術の腕を磨いているのが田畑半次郎だ。方や元武士の遊び人、方や農民上がりの武士志願と立場は逆だが、ここでも二人は藩の権力争いに巻き込まれ、敵味方に分かれて戦うことになるが、結局最後は田畑も武士の世界の堅苦しさと権謀術策に嫌気がさして、百姓に戻ろうと裃を脱ぎ捨てる。

この映画では特に、源太役の仲代達矢さんが何とも言えずいい。いかにも世慣れた遊び人らしい剽軽な物言いに加え、あのぎろりと大きな目が茶目に動いて、さらりと軽妙。この、世の中の裏も表も見尽くし、知り尽くした上での身ごなしの軽さは、私のお気に入り『幕末太陽傳』(57年、監督:川島雄三)のフランキー堺、居残り佐平次を思わせるところもあり、おかげで最初の数分で「これは、これは」と引き込まれてしまった。

それにそもそも、『黒い河』(57年、監督:小林正樹)を見て以来、私は若い頃の仲代達矢さんのファンなのだ。彼が出ているのなら、どんなつまらない映画でも見てみたいと思っているくらいだ。(もっとも彼はあまりつまらない映画には出ていないようだが)

そして彼だけでなく、最初に挙げた2本で主役を演じている俳優たちも、三船敏郎、加藤剛、司葉子(拝領妻始末)、平幹二朗、加藤剛、岩下志麻(獣の剣)など、錚々たる顔ぶれ。脚本がよくて、俳優がよくて、監督がよければ、つまらない映画になるはずがないではないか。

古い映画なのでレンタルビデオ店ではあまり見かけないかもしれないが、もし図書館などで見かけたら、ぜひ鑑賞をお勧めしたい3本である。

ところでボックスセットは4本組。残りの1本は『異聞猿飛佐助』(65年、監督:篠田正浩)なのだが、残念ながらこれだけは私の好みからは少々外れた。なのでストーリーもよく覚えていない。篠田監督のファン、あるいは猿飛佐助に興味のある方なら面白いと思われるかもしれない。

「座頭市」

  • 2016/07/10 22:03
  • Category: 映画
勝新太郎さんの「座頭市」シリーズを1から7まで7本見て、どうも市さんは私好みのキャラではないと、かなりはっきり悟った。

もちろん私だって昭和生まれ。「座頭市」の名前は子どものころから聞いていたし、その映画シリーズでは、勝さんが延々主人公の“市”を演じていることも知っていたが、しかし実際に映画を見たことは一度もなかったので、勝手に市さんも「仕掛け人梅安」みたいな、クールでニヒルな人物かと思っていたのだ。

ところがどっこい、映画の市さん、全然ニヒルではない。軽薄、とまではいかないが、けっこうひょうきんで、かなーり生臭い人物なのだ。それでも第1作、2作(ともに62年製作)では、まだ勝さんも“市”の性格を少々重めに設定していたのか、労咳病みの浪人・平手(勝の実兄、若山富三郎が演じている)との釣りを縁とするほのかな友情(1作目)や、兄・与四郎(またもや若山が演じている)との確執(2作目)が描かれたりして、それなりにシリアスだったりするのだが、カラーになった3作目あたりから、市のキャラがだんだん軽くなってくる。

何が軽いって、まずふだんの物言いが軽い。盲の按摩として「あたしなんて・・・」と妙にへりくだった態度でへらへら笑い、隅の方でちぢこまっていたりする。もちろん賭場でヤクザの兄さんたちとやり合う時には態度一変。凄みを効かせた口調で、兄さんたちを煙に巻いたり、恫喝したりするのだが、ふだんはあくまで気安くひょうきん。その態度はよく言えば軽妙、悪く言えば軽薄。

そして女にも弱い。飯屋や飲み屋では平気で女たちとふざけるし、行く先々で知り合う素人女たちとも、そこそこかかわりが出来たりする。(不思議なことに、女の方もまた市にけっこう関心を示すのだ) が、まあ、ふつうはかかわりができても、縁になった揉め事が終わればそれっきり、「はい、さようなら」なのだが、たまに本気で相手に惚れ、たとえばかつての師の妹(浪人とはいえ、腐っても鯛の武家娘)から思いを寄せられれば、「市は今日から真人間になります」なんて、あっさりその気になる。およそ単純である。

金も好き。金のためなら何でもする、なんてところはないが、腕を見込んで助っ人を頼まれれば
、その助っ人料を吊り上げるのに遠慮はしない。その代り、世話になった人や助けが必要な人には惜しげなく金を与えたりもするが、金がないのにある振り、「武士は食わねど・・・」的なやせ我慢はまずしない。(まあ彼は盲で按摩でやくざで、武士ではないのだから、当たり前といえば当たり前だが)

それに、それに、これを言ったらお終いかもしれないが、市さん、旅から旅へ明け暮れる流れ者の按摩にしては、栄養良すぎである。演じる勝さんが当時30代の若さだったのだから仕方がないのかもしれないが、もともとの丸顔に肉がたっぷりついて、つやつやと光り、身体つきもがっしりと太り肉。どこにも「按摩かみしも十六文」と、十六文(そば一杯と同じくらい?)で、全身マッサージを提供する、旅按摩の貧の影はない。

そしてこの脂ぎった丸顔、体躯でひょうきんな仕草をされたり、女とふざけられたりすると、その俗っ気がいっそう際立ち、生臭さが増すのだ。そういった気取りのなさ、気の置けない親しみやすさが勝さんの持ち味であり、人気の理由なのだろうけれど、ヒーローとしては理の勝った冷静沈着タイプ、あるいは飄々とした世捨て人タイプが好きな私の嗜好とは、およそ相容れない。誠に残念。

さて座頭市シリーズは全26作。いま7作見たところだから、あと19作残っている。聞くところによると、シリーズ後半では市さん、徐々に渋みが出てくるという話なのだが、さて私好みのヒーローに変わってくれるのだろうか。それとも勝さんのことだから、40代、50代になってもぎんぎらぎんのままなのかなあ。


何しろこの丸顔だからなあ

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『ドラゴンハーフ』

  • 2016/04/10 09:35
  • Category: 映画
一昨日、アニメ「ドラゴンハーフ」を見たら
なぜか主人公の “ミンク”が気に入ってしまい
同作品についてウィキしたり、
ふらふらとミンクの画像を検索したりしてしまっている。

ことに気に入ったのが、エンディングテーマの「私のたまごやき」で
YouTで見つけて、さっそくお気に入りに入れた。
それがこれである。



一聴しておわかりのとおり、冗談というか、ナンセンスギャグというか
いい大人が真剣きって聞くような曲ではないのだが
でも私は気に入ってしまった。
冒頭の“パッパラフニフニ パッパラほえほえ”のところと
まん中へんの“トマトはダメ 私のもの たこはあげる 見ためが キライ”
のところが特によい。あと“弱肉強食 焼肉定食”のところも。

聞くと元気な気分になるので、ここ2日、毎朝この曲を聞いてから
1日のルーティンを始めている。
ジムに行く時も、この曲を歌いながら自転車を走らせる。
(ちなみに今日は氷の上で自転車がすべり、すっころんだ。
両膝をしたたかに打って、今もけっこう痛い。 

この「ドラゴンハーフ」、原作の漫画は単行本で7巻出ているらしいが
OVAのアニメは、30分ほどの短編が2本だけ。
「もっと見たいぃ」と思ったが、他には何も出ていないらしい。
内容はというと、RPG(ロールプレイングギャグ)と銘打たれているとおり
だいたいにおいて、おばかなギャグの連続。
考えオチなど全くない、もう「とほほ」なくらいふつーのギャグばかりなのだが
でもこれが笑える。不快になることなく、素直にけたけた笑える。

ミンクも、シリアス(?)な時はツンととんがった胸、
きゅっとくびれたウエストの萌えキャラお約束の美少女だが

これですね ↓

mink2.jpg


こういうのも、あります。
そう、ミンクにはしっぽと翼があるんです。ドラゴンハーフだから


mink.jpg



コケた時は急に3頭身の、起き上がりこぼしのような姿になる。
(というか登場人物全員が、3頭身化する)

これです ↓
左から、お父さん(騎士)、お母さん(ドラゴン)、右下で倒れてるのがミンク


mink3.jpg

これがまた可愛い。というか、私はこの3頭身のミンクの方が好きだ。
この姿で動くと、なんだか元クラスメートのJちゃんに似ていて
よけい好感が持てる。(注:Jちゃんが3頭身だと言いたいわけではない。
雰囲気が似ていて可愛いと言いたいだけである)

雪だるまがいろいろと買い集めたので
この1月以降、80年代から現在までの日本のアニメを40本ほど見たが
「これは」と印象に残ったのは、別格のルパン3世シリーズを別にすれば
このミンクちゃんと、『REDLINE』(2010年)くらいである。
そのうちまとめて簡単に感想を書きたいとは思っているが
書くとなるといろいろ資料を当たらなければならないので
さてどうなりますか。

余談だが『ドラゴンボール』『ドラゴンハーフ』と見た後で
雪だるまが「今日はこれね」と『Taro the Doragon boy』を持って来た時には
「なんだ、またドラゴンがらみの少年戦士ものか?」と少々うんざりした気分だったが
タイトルバックに流れた水墨画のような山を見て、「あ!」と一閃。

そうこれはドラゴンタローではなくて、
松谷みよ子さんの名作『龍の子太郎』でした。
ドラゴン続きだったもので、ついうっかりした。

大島渚 3本

  • 2016/03/05 11:45
  • Category: 映画
大島渚のボックスセットが届き、端から見ている。1本目の『悦楽』(’65)はコメディとしか思えなかったが(原作:山田風太郎氏らしいが、50年後の今見るとコトの成り行きが説得力に欠け、ために本来深刻なはずの場面が苦笑というか失笑を誘う)、2本目の『白昼の通り魔』(’66)と、3本目の『日本春歌考』(’67)は、面白かった。少なくとも同じ時代の吉田喜重氏の一連のよろめき映画よりは、ずっと面白かった。

ただ前衛、文芸映画というお約束のせいか、今の映画から見ると多分に観念的で、まるでお勉強のための映画のよう。たとえば『白昼の通り魔』では、主人公の一人が「恋愛は無償の行為です」なんて声高らかに宣言しちゃうし、後半では主役の女2人が、通り魔を含めた3人の関係性について延々議論しちゃうのだ。今時、登場人物たちが真面目くさって、文章語、口語とは距離のある本の中の言葉、書き言葉、で議論するような映画は、まさかない。

そして『日本春歌考』 入試会場から出てくる受験生たち。外は雪。それでも試験が終わった開放感からか、今、彼ら4人の頭の中にあるのは同じ会場にいた氷のように美しい女子高生のことだけ。妄想と観念。街では暗く粛々と進む「紀元節復活反対」の静かなデモ。(’67年、戦前、紀元節だった2月11日が建国記念の日として祝日となった)

夜、引率の先生(なんと伊丹一三時代の伊丹十三が演じている)、同じ学校の女子と共に居酒屋へ行く。先生ともども飲み過ぎて(未成年に飲ませていいのか、伊丹先生?)宿屋に泊まる高校生たち。宿屋でも男の子たちはからかい半分、女の子たちにちょっかいを出そうとするが相手にされない。そしてその夜、先生はガスストーブの不始末により一酸化炭素中毒で死亡してしまう。(伊丹先生、あっという間に退場) 

話は、4人の男子高校生のうちの一人、荒木一郎演じる中村と、小山明子演じる先生の恋人とのあれこれや、受験会場で会った美少女との再会など、男の子たちの妄想も織り交ぜ、幻燈のように続いていくが、その背景に、ギターを手に若者たちがロシア民謡や反戦歌を歌っている“うたごえ集会”らしいイベント、ベトナム戦争反対の募金を呼びかけている大学生たち、冒頭の「紀元節復活反対」のデモなど、白黒の映像の中に当時の世相が次々と映し出され、50年前とわかっていても、確かに知っている“日本”だけに、はるか遠い昔のような気もするし、つい昨日のことのような気もして、不思議な気持ちになる。

そして圧巻は、3人の女子高生のひとり、吉田日出子演じる金田幸子が、どこも見ていない目で歌う『満鉄小唄』。最初に道を歩きながら歌う時にはわからないが、後半彼女は白い韓服を着て現れ、在日であることが暗示される。ほとんどすべての濁音が、半濁音または清音に発音されて歌われる「満鉄小唄」は、朝鮮人娼婦の恨み節。当時まだ20代前半の吉田が、化粧っ気のない顔で無表情に歌うこの歌は、凄絶だ。

ちなみにYouTには、男性がふつうの日本語の発音で歌っているこの歌がいくつかアップされているが、この歌は男が歌ったのでは意味がない。きれいな日本語の発音で歌うのも、だめだ。それでは朝鮮人娼婦たちの悲哀が出てこない。(ただし、朝鮮語を母語とする人たちが、本当に日本語の濁音が発音できないかどうかは別の話だ。この発音の仕方は、日本人が考える朝鮮人風の発音と見るべきではあるだろう) 誰か吉田が作中で歌っている「満鉄小唄」をアップしてくれないかな。

999

  • 2016/02/19 05:20
  • Category: 映画
雪だるまが“日本アニメ月間”に入ったらしく、なんだかいろいろ届いたので、あれこれ次々と見ている。

先日は『銀河鉄道999』シリーズ3本(銀河鉄道999、さようなら銀河鉄道999、銀河鉄道999エターナル・ファンタジー)を、順番に見た。アニメ版の1作目『銀河鉄道999』(1979年)が公開された時、私はすでに子どもではなかったのでこのアニメは見ておらず、しかし当時一世を風靡したと言ってもいいくらい話題になったアニメだったので、それなりに大人の鑑賞にも耐える作品なのだろうと楽しみに見始めたのだが、豈図らんや、絵はともかくストーリーが単純、大味過ぎて、子供なら夢中になれても、大人が見るには少々忍耐心がいる作品だった。

ファンタジーに科学的な正確さを要求するのはお門違いだろうが、それにしても冥王星近くに来たら急に寒くなって列車の窓が曇ったり(太陽系の中では太陽から一番遠いから“寒い”ということなのかもしれないが、各惑星の表面温度はともかく、宇宙空間では温度ってどこでもほぼ同じじゃなかったっけ? もちろん宇宙空間でも、そこに物体(宇宙船とか)があれば、太陽の光が当たっている時は非常に熱く、逆に陰に入った時は非常に冷たくなるんだろうけど、しかしその温度差が船内に影響しないよう、船の外壁は十分断熱されているはずで、だから内にいる鉄郎が“寒い”と感じるはずはないと思うんだけど。それとも999断熱不十分? そりゃ危ないぜ)、どこの星に行っても地球型の環境になっていて、着いたとたん、みんな特別な装備もなしに呼吸できるし、活動できるし(各惑星の重力とか、大気の組成とか、考え始めると面倒くさくてやってられないから、完全無視!に出るのはわからなくもないけど)、それどころか地球型の木とか草とかも生えていて、言われなければ地球だと思ってしまいそうな惑星ばっかりだし。鉄郎が行くところ、行くところ、全部それなんだから、すべてヒトに合わせて改造したんだとすれば、すごい科学力&資源力だ。

ま、もっともこんなつまらないことにいちいち引っかかるのは、999を見始めた前日にリドリー・スコットの『The Martian』(主演はマット・デイモン)を見てしまったからかもしれない。この映画、専門家はどうだか知らないが、素人を納得させる程度には十分科学的だったから。

そして冒頭に書いた“大味なストーリー”だが、機械人間とふつうの機械化されていない人間との対決という図式は単純過ぎ。対象年齢が主人公の鉄郎と同じローティーン、少年の成長を描く冒険活劇という設定では仕方のないことかもしれないが、そもそも機械人間を作ったのは人間のはずで、それが逆に機械人間に支配されるようになったからには、人間の側にも何らかの非があったのだろうし、また今は支配者の側に回っている機械人間の側にも、それなりに心理的葛藤や逡巡があるだろうと思うのだが、子供用アニメではその辺は描かれない。話はあくまで人間=善、機械人間=悪で、単純である。そのあたりが、ひねた大人にはつまらない。

ついでにいえば、テレビアニメ版に比べ、映画版では鉄郎の年齢が5歳引き上げられて15歳になっているそうだが、絵を見る限り15歳というより12、3歳の感じで、その鉄郎がきれいなメーテルに惹かれて恋心を抱くのはわかるが、見た目27、8歳、実年齢不詳のメーテルの方が、鉄郎に惹かれるというのは、私には納得しがたい。メーテルは「あなた(=鉄郎)といっしょに暮らしてもいい」などと言ったりするが、こんな中高生のガキと一緒に暮らしてどうするの?である。もっとも母親代わりに世話を焼きたいというのなら、わからなくもない。実際、メーテルは鉄郎の母の身体を貰ったことになっているから、鉄郎にとってはメーテル=母のようなものだし、それならそれでお約束のエディプス・コンプレックス、ついでに3作目の『エターナル・ファンタジー』で鉄郎は父と思しき人物を殺してもいるから、父を殺して母を取ってとなれば、ギリシア悲劇一丁上がり。なんだかわかりやす過ぎである。まあティーンネイジャー用アニメを60婆さんが見るから悪いんだけど。

『Mandariinid(Tangerines)』

  • 2016/01/10 12:52
  • Category: 映画
『Mandariinid(Tangerines)』(2013年:エストニア/グルジア)は、90年代初頭、グルジアからの独立を求めるアブハジア紛争が勃発した頃のグルジア、アブハジア地方が舞台。この黒海北岸のアブハジアにはグルジア人、アブハジア人だけでなく、エストニア人も住み着いており、主人公Ivoが住んでいる村も、そうしたエストニア人村のひとつだったが、紛争の激化でほとんどの住人は故国へ帰ってしまった。今この山中の寒村に残っているのは年老いたIvoと、隣人のMargus、医者のJuhanくらいだ。そしてMargusも栽培しているタンジェリンの収穫が終わり次第、他へ移るつもりではいる。

しかし、住人がほとんどいなくなった山の中の村にも、兵士たちはやって来る。そしてIvoたちの家のすぐ近くで、撃ち合いが始まる。どちらがどちらともわからない銃撃戦。全員死んだかと思われたが、二人の兵士が虫の息で生きていた。Ivoはこの二人を助ける。一人はグルジアの志願兵Niko、一人はチェチェンの傭兵Ahmed、つまり敵同士だ。グルジア側に仲間を殺されたAhmedは、最初同じ屋根の下にいるNikoを殺してやると息巻くが、彼自身ろくに動けぬ身。Nikoのいる部屋の前で力尽きて倒れる。

医者Juhanの手当とIvoの看病の甲斐あって、何日かするうちにNikoもAhmedも何とか歩き回れるようになるが、Ivoはいがみ合う二人に「この家は私の家だ。この家の中では、殺し合いはするな」と約束させる。
Nikoはグルジア側でキリスト教徒、Ahmedはチェチェンでイスラム教徒。出自も違えば、宗教も違う。しかしIvoの家にやっかいになっているうちに、ふたりはだんだん心を通わせ合うようになる。そしてある日やってきたロシア兵たちが、Ahmedを敵方と勘違いして撃ち殺そうとした時、NikoはAhmedを助けようと応戦し、逆に撃たれて死ぬ。Margusもタンジェリンの収穫を前に、銃撃戦に巻き込まれて死ぬ。生き残ったのはIvoとAhmedだけだった。

自身の息子の墓の隣にNikoを葬ったIvoに、Ahmedは「家族が恋しくなった。傭兵は辞めて故郷に帰る」と告げる。

反戦映画は、敵味方に分かれて殺し合うことの愚かしさ、無意味さを訴える。敵だろうと味方だろうと、国が違おうと、民族が違おうと、宗教が違おうと、個人として知り合ってみれば、心を通わせることは不可能ではない。そして大部分の兵士たちは、自分の故郷を家族を守ろうとして兵士になるが、戦うということは殺し合うということで、だからそれは生命を、生活を守ることにはつながらず、むしろ守りたかったものを破壊していくことにしかならない。そんなことはみな、十分わかっているはずだ。

映画で、小説で、歌曲で、人々は反戦を訴える。人の生命は何よりも尊いという。平和は世界の願いだという。そしてそう言うそばから、自治や独立や資源や利権を求めて武器を取り、民族や宗教や主義主張の違いを理由に、自分と異なるものを排除して行こうとする。人は個人単位では寛容でも、集団になると徹底して他者を嫌う。

今、私がこんな駄文を打っている間にも、シリアでイラクでアフガニスタンでイエメンでパレスチナでソマリアで、そしてその他の挙げきれないほどたくさんの地域で、戦闘、紛争が続いている。一応平和な国々でも、移民や先住民や異民族、外国籍者など少数者に対する差別や、少数者を巡る紛争は絶え間がない。

時々思うのだ。人々が平和を願っているなんていうのは幻想で、本当は争うことが好きなのではないかと。それでなくてどうして、世界中でこうもたくさんの戦争、紛争が起こるだろうか。ヒトは生来、それによって自分自身と自身の種を滅ぼしかねないほど闘争本能の強い生物なのだと、いいかげん悟った方がよさそうな気がする。


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『P’tit Quinquin』

  • 2016/01/08 02:59
  • Category: 映画
そう、それで『P’tit Quinquin』だが、これはフランスのTVミニシリーズで、Quinquin(私にはケンケンと聞こえる)というのは主人公の男の子(↓)の愛称である。


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もう見た瞬間、“悪ガキ”“大人なんか屁とも思わない悪たれ小僧”といった形容が浮かぶようなやんちゃ顔だが、これでこの子、なかなかいい子なんである。近所に住むGFイヴには、とことん優しいナイトぶりだし。


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お話自体は、このQuinquinが住む北フランス、英仏海峡近くの小さな村で、牛の腹の中に詰め込まれたバラバラ死体が発見される。殺されたのは近所の農家の奥さんらしい。捜査のため二人の刑事が派遣されるが、最初の事件の糸口もつかめないでいるうちに、またもや牛の腹の中に死体が・・・。と聞くと、閉鎖的寒村で起きた猟奇連続殺人事件風で、まるで横溝正史だが、実のところ映画は全然、陰惨でない。むしろ牧歌的コメディ風。なにしろ派遣されたのがこの二人組。


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どう見ても敏腕刑事という風情ではない。ボスである白髪頭のおっさんの方は、チックでも患っているのか、しょっちゅう目をぱしぱしさせてあらぬ方を見ているし、部下のひょろひょろと細っこいおじさんの方は、刑事というより農家の下働き風で、パトカーの中にいるより鍬を持って牛小屋にでもいる方が似合いそうだ。そして事実、二人の奮闘にもかかわらず、捜査はなかなか進まない。

そしてちょうど夏休みが始まったところのQuinquinは、イヴや悪ガキ仲間と連れ立って、この二人の刑事たちの捜査を覗き見したり、イヴを後ろに乗っけてあちこち自転車を乗り回したり、どうみても水温低そうな海に泳ぎに行ったり、“夏休みの子ども”の活動に精を出す。そしてその背景として、この北フランスの寒村の風景が映し出される。

私はこの映画の魅力は(Quinquinのキャラはもちろんだが)この寒村の風景と、そこに住む住人たちではないかと思う。牛の腹にバラバラ死体を詰め込むという事件のおどろおどろしさの割には、夏の日差しにきらめく青い海や、その傍らに並ぶこざっぱりとした家々、どこまでも続く金色の麦畑とその中をまっすぐ伸びる農道は、あくまでのどかに美しい。
そしてその美しい風景とは裏腹に、そこに住む住人たちはみなどこか少しおかしい。他と交流がないものだから何代にもわたって村内で血族結婚を繰り返してきた結果なんじゃないかと思われるような愚鈍さというか、どこか1本ねじが緩んでいるような表情、態度で、悲惨なはずの事件がちっとも悲惨に映らず、こちらを不思議な気持ちにさせる。妻が殺されても、ちっとも悲しそうではない夫とか、いくら7月14日が近いとはいえ、バトン・トワリングの服装で葬式に出席する女の子たちとか、Quinquinの叔父さんにあたる、これはもう明らかに健常者には見えない若者とか。
それに加えて例の二人の刑事である。これはもう並の捜査では事件が解決しないのも無理はない。そして、これを言ったらネタバレになってしまうが、実際映画が終っても犯人はわからないのである。ミステリ仕立てのくせに犯人不明のまま終わるなんて、そんなのありか?と思うが、どうもありらしい。私と雪だるまは、エンド・クレジットを見ながら顔を見合わせてしまった。なんともはや、奇妙な味わいの映画である。ちょっとヘンな映画がお好きな方は、機会がありましたらぜひご覧ください。

最後にところでQuinquin君の顔立ちだが、この手の顔は英国の労働者階級の子に割合よく見られるように思える。北フランスは英国と近いから似てくるのかなあ。たとえばほら、この子Thomas Turgoose君(2006英『This is England』)は英国生まれなんだけど、Quinquinと兄弟と言っても通りそう。


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ちなみにThomas君も悪ガキ役でした。

2015年の映画

  • 2016/01/06 03:23
  • Category: 映画
昨日、去年1年間に見た映画のうち印象に残ったもののタイトルを書き出してみた。こうしておかないと後でもう一度見たいと思った時に、なかなか探し出せないからである。

去年はそこそこ気に入ったものはあっても、圧倒的な迫力でこちらに迫ってくるようなものはなかったという印象だったので、書き出す数はそう多くはないだろうと踏んでいたのだが、どうしてどうして最終的に61本のタイトルが並んだ。

あくまでも“印象に残った”というくくりなので、世にいう傑作が並んでいるわけではない。主人公の阿花(花ちゃん)のダンス姿が可愛かったからというだけの理由で選んだ香港映画『狂舞派』とか、重苦しいストーリーはともかく、砂色の岩山がそのまま家になり、街になったようなカッパドキアの息を呑むほど不思議な風景が珍しくて選んだトルコ映画『Winter Sleep』とか、ティルダ・スウィントンがヨーロッパの美と退廃を全身から漂わせてこちらを魅了するヴァンパイア映画『Only Lovers Left Alive』とか、日本のアニメ『風立ちぬ』とか、まあごちゃまぜにいろいろ入っている。お気に入りのケベッコワの監督兼俳優グザヴィエ・ドラン氏の『Mommy』と『Elephant Story』は、もちろん入れた。映画『ファーゴ』を実話だと思い込んで、ノースダコタまで宝探しに出かけたクミコ(菊地凛子さんが演じている)の鬼気迫る姿を描いた映画『Kumiko, the Treasure Hunter』も入れた。以前、このブログで取り上げた『State of Siege』や『Hannah Arendt』他も、もちろん入っている。

が、1年を振り返ってトップ3を選ぶとすれば、『Loreak』『P’tit Quinquin』『Mandariinid』の3本かなと思う。次点はイスラエル映画の『Zero Motivation』。

『Loreak(英題Flowers)』 私たちは最初、これがバスク語の映画であることを知らなかった。雪だるまがアマゾン・スペインから買ったDVDだったので、音声選択が「Euskara/Catalan」とあった時、当然「Catalan」が原音声だろうと思い、そちらを選んだのだが、見始めてみるとどうも口の動きと音声が合っていない。吹き替え特有の違和感があって、せりふだけが背景の音や効果音から浮き上がっている。私たちは吹き替えで映画を見るのが大嫌いなので、これは音声選択を間違えたかと、「Euskara」というのがどこの言葉であるかはわからないまま、そちらを選び直してまた最初から見た。今度はせりふが背景と自然に融け合い、違和感が消えた。

主人公は建設現場で事務員として働くAneという中年女性だ。小柄で、特に美人というわけでもなく、口数も少なく、目立たない。子どもはおらず、夫との間もひんやりと冷たい。しかもまだ40代の初めくらいなのに、医者からすでに更年期が始まっていると言われる。何もしないうちに人生が指の間からさらさらとこぼれ落ちて行ってしまっているような寂寥感。そんなある日、家に花束が届く。夫からだと思った彼女は礼を言うが、夫は知らないという。花束はその後も1週間に1度、決まって届く。薔薇や百合やチューリップなどの、明るく澄んだきれいな色。夫はいぶかしがり、花屋まで出かけて贈り主を突き止めようとするが、花屋は贈り主の名はわからないと言う。夫が不快がるので、Aneは贈られた花束を隠し、職場に持っていって飾るようになる。
そんなある日、職場の同僚の一人が交通事故で亡くなる。特に親しかったわけではなく、ほとんど話をしたこともなかったくらいの同僚なのだが、その同僚が亡くなってから、ぱたりと花束が届かなくなった。そしてある日、彼が残した持ち物の中に、Aneが無くしたと思っていたネックレスを発見する。花束を贈ってくれていたのが彼だというはっきりした証拠はない。しかしAneは彼だと信じ、今度は彼女が毎週、事故現場に花束を届けに行くようになる。そしてそうすることによって、彼の母親と知り合う。母親は亡くなった息子の妻とうまくいっておらず、物足りないものを感じる分、Aneに気持ちが傾斜していく。そして事故現場に毎週毎週花束を届けに来るAneを発見した妻の方は、Aneにいぶかしさと不快を募らせていく。

と、こう書くとなんだかぎくしゃくした人間関係を描いた陰鬱な映画のように思われるかもしれないが、実際に画面を見ていると濁りや暗さは感じられず、むしろ淡々と流れる時の静謐さの方が印象に残る。それはAneを演じたNagore Aranburuの、ジュリエット・ビノシュをもっと平凡に老けさせたような容貌のせいかもしれないし、その静かな物言いのせいかもしれないし、どこにでもある地方都市といったようなSan Sebastianの風景のせいかもしれない。いずれにしても、この映画を見終わって、後味の悪い不快感に襲われる人はいないだろう。残像として脳裏に広がるのは、むしろ登場した数々の花束の、光を浴びたうつくしさかもしれない。

それにしてもバスク語というのは不思議な言語だ。私たちは英語字幕で見ていたのだが、ごく簡単な「はい」とか「いいえ」とかの言葉すら、すぐ隣のスペイン語ともフランス語とも似ても似つかない音で、Euskaraがバスク語を意味すると知るまでは、一体どこの言葉なのか見当もつかなかった。
バスクだとわかった後でも、私がバスクについて知っているのは、遠い昔、犬養道子さんの本で読んだほんの少しだけで、まとまった知識は何もなし。
ウィキによれば、バスク語は現存するどの言語とも系統関係が立証されていない孤立した言語だそうで、現在この言語を使っている人は約66万人。つまり船橋市(60.9万人)よりは多いが、江戸川区(67.9万人)よりは少ない人数の人しか、この言語を使っていないのである。しかも話者は全員、フランス語かスペイン語とのバイリンガルだそうで、これではいつか消えてしまうのではあるまいか。それでなくとも世界中で、少数言語はどんどん消えていっているのだ。それが流れだと言ってしまえばそれまでだが、地域独自の言葉は、残せるものなら残したい。

話が逸れた。長くなったので、『P’tit Quinquin』『Mandariinid』については、また後日。


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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
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