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『大魚海棠』

  • 2018/05/01 03:20
  • Category: 映画
中国のアニメである。『庄子•逍遥游』『山海経』『捜神記』の中の話や、神話の『女娲補天』などに着想を得たファンタジーとはいうものの、“神の圍楼”に住む少女“椿(チュン)”が、自分を助けるために命を失った人間の少年の恩に報いるため、少年の魂―小さな魚に変わってしまった少年の魂を、自分たちの世界に連れてきて世話をし、鯨と見まごうほどの大きさに育てて大海へ返そうとする。その間、彼女は数々の困難に遭う、というストーリーはさほど面白いとも思えず、主人公の椿や、その友達の男の子“湫(チウ)”、魚に変わってしまった人間の少年“鯤(クン)”の主要3人物も、達者に描かれてはいるが、どこかで見たような平々凡々たるキャラで魅力に乏しく、それだけだったら見て、忘れて、おしまいというよくある展開で終わったと思うのだが、このアニメ、それ以外の部分が面白かった。

まず面白かったのが、椿が暮らす“神の圍楼”の建物である。福建土楼がモデルと思われる円形の集合住宅で、高層、巨大。はやく言えばローマのコロッセウムを巨大集合住宅に変貌させ、それに赤と黒の中国的色彩を施したようなもので、何層にも重なる各階の軒々には紅燈が掛けられ、それが暗闇の中にぼうっと浮かび上がるさまは、実に妖しく美しい。

百聞は一見に如かずなので全貌が見える画像を探したのだが、これが見つからない。仕方がないので、中庭から見た画像2枚を載せておく。

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weilou2.jpg


Wikiによれば、現実の福建土楼(12世紀から20世紀に建てられた)はすべての部屋が同じ大きさで、同じ材料を用い、同じ内装が施されているそうである。そこに住むのは1つの家の一族郎党で、つまり父母祖父母はもとより伯(叔)父、伯(叔)母、いとこ、はとこ、大伯叔父だのまたいとこだの、ありとあらゆる親族一同がみんな一つ所に住んでいるわけで、便利というかはたまためちゃくちゃ鬱陶しいというか、私だったら1週間で音を上げそうな住環境だが、外敵から一族を守るためにはこの構造が最良だったのだろう。ちなみに各家族は地階から最上階まで、縦割りで部屋を所有するのだそうで、大きな家族の場合は2つ、3つの垂直区分を所有することもあるとのことである。横割りではなく、縦割りであるところが面白い。

もうひとつ面白かったのが、主役以外の登場人物である。神か鬼かわからぬが、とにかく人間ではない異形のモノたちが、うようよと登場する。
中でも出色なのが霊婆と鼠婆子。霊婆など私は登場人物一覧を見るまで男(こういうものに性別があるとして)だと思っていたのだが、“婆”というところをみると男というよりは女であるらしい。いずれにせよ、頭は魚で身体は人間、しかも一つ目。唐服と思しきものを着て、頭には冠を被っている。死んだ人間の霊魂の管理がお仕事だそうだが、密かにいろいろとアヤシイ取引にも勤しんでいるらしい。ある時など卓を囲んで麻雀に興じていたが、ぱちんと指を鳴らすと他の3人はあっという間に猫に変わって、するりと逃げ去ってしまった。話す口調はねっとりとオネエ調だし、ぱっと見、“婆”というより“宦官”といった方がぴたりとくるようないやらしさで、なかなかいいキャラである。

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もう一人の鼠婆子は、白塗りの厚化粧におてもやん風の紅をさし、赤い髪飾りに赤い傘と、イタイ程の若づくり。“鼠婆”というだけあって、日がな一日ネズミたちと遊んでいる。趣味は若いイケメンをからかうことと、中年オバサンそのまんま。上に書いたような薄気味悪い容貌に加え、このお方もまた霊婆同様、粘りつくような口調で話すので、ますますナメクジに纏わり付かれているような気持ち悪さがひしひし。でもそこがいいのだ。どうせなら、椿みたいな可愛こちゃんキャラではなくて、この鼠婆子とか霊婆とかをメインにしたアニメを作ってくれればいいのに、と思う。その方がよほど面白そうだ。

shupozi.jpg


ところで言い忘れたが、このアニメ、霊婆や鼠婆子だけでなく、他の登場人物たちも割合ゆっくりした口調で話す。冒頭の老いた椿のナレーションなどさらにゆっくりで、聴写(ディクテ)ができそうなほど。しかもなまりのないきれいな発音。リアルさを追求する映画では、登場人物がこういった速度と発音で話すことなどほとんどないから、私など字幕なしではセリフを聞き取れたためしがないが、ファンタジーアニメではリアルさは別のところにあるので、まるで読み聞かせのような聞き取りやすい速度と発音で、セリフが語られるのは有難い。というわけでこのアニメ、中国語学習者にはお薦めである。
(とは言うものの、正直わたしは普通話を聞くと仕事時代を思い出すので、できれば聞きたくない。広東語なら何の屈託もなく、懐かしく聞けるのだが・・・)
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『Noces』

  • 2018/04/14 23:00
  • Category: 映画
その縛りがどれ程強いかにもよるが、自らが属する共同体の宗教、慣習、伝統を拒否し、別の生き方を選択するのは、生易しいことではない。共同の規範からの逸脱者、裏切り者に対する共同体の制裁は厳しい。社会的に抹殺されるだけならまだしも(いや、それだって冗談ではないが)、時には本当に生命まで奪われる。しかもそうして殺されたところで、制裁はそれで終わりではない。当の本人が死んだ後でも、親や兄弟姉妹、場合によっては親戚まで咎を負わされ、排斥され続けるのだ。よって、なまなかなことでは逸脱者になる踏ん切りはつかない。

ベルギーに暮らすZahiraはパキスタン系でイスラム教徒だが、大学に通い、親の目を盗んで夜、友人たちとクラブに出かけたりと、周りのベルギー人たちと何ら変わるところのないような西欧的生活を送っている。家庭は円満で、雑貨店を営む両親や兄姉、妹とも仲が良く、経済的にも特に不自由はない。勉強や遊びに忙しい、欧州や北米のどこの街にもいそうな、ふつうの18歳の女の子なのだ。

が、周りの女の子たち同様普通だったのは、ここまで。ある日、両親は彼女に3人の花婿候補者の写真を示し、この中から結婚相手を選べと言う。写真だけで結婚相手なんか選べないと言うと、母親はスカイプで話して人柄を知りなさい、と言うのだ。そのために朝早く起こしてあげる(パキスタンとベルギーの時差3時間)から、と。

別れたとはいえ彼氏がい、また他の友達もいる彼女は、パキスタンに住む、全く会ったこともない男と、2、3度コンピュータ画面を介して話しただけで結婚する気になど、とてもなれない。で、両親にそう言うのだが、両親はまったく取り合わない。「私達もそうやって結婚したんだ。でもほら、うまくいっているだろう?」「不安なのは当然だけど、心配はいらないわ」「お前の姉さんも幸せに暮らしているじゃないか」等々。

彼女の意思とは無関係にどんどん結婚話が進んでいくことに焦ったZahiraは、友達の家に逃げ込んだりするが、仲のよい家族と絶縁状態になることに耐えられず、また彼女が結婚を拒否し続けることで、両親や兄弟姉妹に累が及ぶことを恐れ(結婚しない娘がいては、親は世間に顔向けができず、面目を失って故郷に戻ることもできない。当然、兄弟姉妹も結婚できなくなる)しぶしぶ家に戻る。そして家族の懇願に負け、3人のうちの1人と形ばかりの結婚式(ここでもスカイプが登場!)を挙げる。結婚式をしたところで、彼女は今まで通り家族と一緒にベルギーに暮らし続けるのだし、相手は遠く離れたパキスタンにいるのだし、実質的には何も変わらないと、Zahiraは高を括っていたのかもしれない。

が、話はそれだけでは済まなかった。いつの間にやらZahiraは、パキスタンで盛大に挙行される自らの結婚式に送り出されることになっていたのだ。手伝いのためにいそいそと嫁ぎ先から戻ってくる姉、次々と準備されていく旅行荷物。一度パキスタンに入ってしまったら、もう二度とこちらには戻ってこられないかもしれない。いよいよ焦ったZahiraはある夜、友達の1人とオーストラリアへ逃げ出す決心をするのだが・・・

ネタばれになるのでこれ以上は書かないが、この映画の中で一番私の印象に残ったのは、望まない結婚をZahiraに強いるのは止めるよう説得に来たベルギー人の友人に、父親がいう言葉だ。彼はこの古くからの友人に「この通りだけで、結婚していない女が何人いるか知っているか? 15人だ、15人! パキスタン全体より多い。彼女たちは幸せか? とんでもない! あの不幸そうな様子を見てみろ!」と言うのだ。

どうやらパキスタンでは、人はみな結婚するもので、“結婚しない男”とか“独身の女”というのは考えられない存在らしい。人は結婚し、家庭を持って初めて幸せになれるのであって、成人で未婚というのは、すなわち不幸、なのだ。このお父さんの発言に、私と雪だるまは思わず「結婚してて不幸な人だっていっぱいいるぞー。結婚してみたもののうまく行かなくて悩んでいる人や、ろくでもない相手と結婚してDVやモラハラに苦しんでる人が、どれだけいると思ってるんだあ?」と叫んでしまったが、イスラム教では結婚を“奨励”しているのだから、結婚しないことはすなわちイスラムに背くことになるのかもしれない。それにしてもだからって、なんでろくに知りもしない相手と無理やり結婚しなくてはならないのだ? 周りの他の女の子(非ムスリム)が、自由に恋愛して、くっついたり別れたりしながら、最終的に自分が気に入った相手と結婚していく様子を見ている在欧米のムスリム、Zahiraみたいな女の子が自分たちの慣習に疑問を持ち、拒否したくなるのも無理はない。他の子が持っている選択肢を、なぜ自分は持てないのか?

そう言うZahiraに、親の言う通り会ったこともない相手と結婚し、しあわせに暮らしている(本人談)姉は言う。「不公平? 当たり前でしょ。世の中は不公平なものなのよ。お金持ちもいれば貧しい人もいる。才能のある人もいれば、ない人もいる。容貌だって生まれつき美しい人もいれば、そうでない人もいる。公平なことなんて、何一つないわ」「でも人間は、不公平をなくすために戦うべきでしょう?」「戦う? 家族みんなを犠牲にして? Zahira、変えられないことに対して私たち女ができることは、受け入れることだけよ」

絶句。おっしゃる通り世の中は不公平なものだが、それに対して私たちが取りうる行動は“受け入れる”ことだけか? お姉さんのいう“Nous sommes femmes.”が、やけにぐさりと私の胸に突き刺さった。女にできることは受け入れることだけ、なんて勘弁してくださいよ、である。もっともイスラムの教えは女だけに適用されるわけではないから、男も同様、見も知らない相手と結婚しなくてはならないわけだが、そしてそれに抵抗を覚える男も多数いるようだが、宗教と慣習の縛りは厳しい。そこに家族に対する愛情が加われば、拒否することはほぼ不可能だ。縛られるのが嫌なら、死ぬしかない。


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『Lady Macbeth』

  • 2017/11/13 05:32
  • Category: 映画
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タイトルは『Lady Macbeth』だが、この映画、ご本家の『マクベス』とは何の関係もない。
お話も似ていない。しいて言うなら、主人公のキャサリンが義父、夫、夫の子ども、と次々に殺していくところだけは、夫を叱咤して次々と邪魔者を始末させるマクベス夫人と似ていなくもないが、後はまったく別物だ。

たとえば、マクベス夫人は夫を焚きつけて人を殺させるが、キャサリンの方は自ら手を下すし、殺した後で良心の呵責に悩まされ、「洗っても洗っても、手の血が落ちない」などと気の弱いことを言うマクベス夫人と違い、キャサリンの方は平気の平左、何食わぬ顔で日常を送り、殺人がバレそうになると無実の召使に罪をなすりつける等、あくまで気丈にして冷酷非情である。

おまけにキャサリンが義父や夫を殺すのは、マクベス夫人のように権力欲、出世欲に駆られてのことではなく、夫の留守中に恋仲になった馬丁とよろしくやりたいためであるので、これじゃあ『レイディ・マクベス』というより『レイディ・チャタレイ』じゃないの?と、茶々を入れたくなるくらいである。

そもそもキャサリンは、体面と後継ぎ確保のため、義父が金で買って息子にあてがった嫁である。若くて、そこそこの容貌であるが、夫は元より彼女に関心はなく、新婚の彼女をほっぽって、さっさとどこか(後に愛人のところとわかる)へ行ってしまう。ヒース生い茂る田舎の館に一人残されたキャサリンは、召使にかしづかれてすることもなく、話し相手になる友人もなく、無聊を持て余す。そこに登場するのが若い馬丁。黒白混血で、たくましく、エネルギッシュで傍若無人。主人を主人とも思わず、キャサリンに挑みかかる。

で、お定まりの展開になって、「彼と一緒にいるためには、あいつらが邪魔だわ」ということになり、まず口うるさい義父を毒キノコで殺し、次いでキャサリンと馬丁との評判を聞いて帰ってきた夫を撲殺し、夫がいなくなってから突如現れた夫の隠し子(この子も黒白混血)を殺し、と次々片付けていくわけだが、私に言わせればこれはそもそも義父が嫁選びを間違えたのがいけないのである。

家の体面を保ち、後継ぎが欲しいというだけなら、若くて朗らかで、しかし頭の方はどこかすこーし足りないのでは?と思われるような、健康にはちきれんばかりの田舎娘を選ぶか、あるいは同様に若くて健康だが、気弱にして羊のように従順、義父や夫に逆らうことなど夢にも思わないような、おどおどした娘を選べばよかったのである。

それを若いのと健康なのはいいとして、性格の方は羊どころか猪突猛進のイノシシ並み、好奇心が強くて活力にあふれ、何かをやりたくてうずうずしているような娘を選ぶから、そしてそんな若い獣のような娘を、何にもない田舎の屋敷に閉じ込めたりするから、ちょっとしたきっかけで内にくすぶっていた熱情にぼっと火が付き、大きく燃え上がって屋敷全部真っ黒焦げ、ということになるのである。義父殿、どうせ金で嫁を買うのなら、もう少し人選に慎重であるべきであった。親族は選べなくても、姻族は選べるのだから。

それにしても、ほどほどに面白く思っただけで、惚れ込んだわけではない映画、本について書くのは簡単だ。思い入れがない分、お気楽に感想を書ける。これが気に入ってしまった映画、その中に引き込まれ、どっぷり浸ってしまった映画は、思うところがありすぎて、なかなか文章になってくれない。たとえば最近見た中では『Le fils de Joseph』が印象に残っているが、感想はいまだに書けないでいる。せいぜい Mathieu Amalric が出ている映画にはハズレが少ないとか、冒頭の主人公ヴァンサンとその友人との会話は、まるで『初級フランス語会話』に出てくるやり取りみたいだとか、埒もないことばかりである。
年の終わりには、「今年印象に残った映画 トップ10」みたいなのを書きたいと思っているのだが、こんな体たらくではタイトルの羅列と一行感想だけに終わる可能性なきにしも・・・


Mathieu Amalric 氏 
一度見たら、まず間違いなく記憶に残る強烈なお顔立ち


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『Hidden Figures』

  • 2017/05/11 03:20
  • Category: 映画
こうしてケベックの田舎に住んでいると、
自分がマイノリティであることは、常に頭のどこかにある。
白、黒、黄色取り交ぜて、様々な国からの移民が通りを歩いているモントリオールや
すでに非白人の方が多数になったトロントのような大都会ならいざ知らず
この人口5万の田舎町では、住民の9割以上がフランス語をしゃべる白人で
そんな中で、黄色っぽい皮膚と平面的な顔立ちをもった東アジア系は
どう頑張っても“ビジュアル・マイノリティ”であることは免れず、
“マジョリティ”=一般住民の中に紛れ込むことはできないからだ。
喋りさえしなければ、地元民のふりをして雑踏に紛れ込めた香港
(だって何しろ同じような顔、身体つきなのだ)とは、この点、大きく違う。

もっとも、21世紀の現在では、紛れ込めないからと言って
すぐすぐ不都合が起こるわけではない。
法や建前の上では、移民だろうが、マイノリティだろうが権利は平等、
対等な立ち位置が保障されている。
学校や職場といった集団の場では、陰に陽に差別や不平等があるにしても
その差別や不平等はあくまで日陰の植物的な隠されたものであり、
白日の下に晒して、その正当性を主張できるようなものではない。

だからと言って“ビジュアル・マイノリティ”の意識の中から
自身が少数者であるという認識が消えるわけではないが、
(市民権を得ようと、数の上では多数になろうと
マイノリティはマイノリティ、その皮膚の色が、外貌がある限り
ある日突然、“差別”あるいは“区別”される対象となる可能性があるということ、
それがどんなに不当で理不尽で不合理なものであっても
青天の霹靂のように起こりうる可能性があることを
頭の隅の隅、奥の奥で、わかっているから)
少なくとも、差別を不当だと言える根拠があるだけましだ。

が、この映画『Hidden Figures』の主人公たちが生きた時代(60年代初頭の米国)は、
そんな不当な差別を、不当だという根拠すらなかった時代。
差別することが合法で、平等を要求することが違法だった時代だ。
主人公たち3人、キャサリン、ドロシー、メリーは、他の多くの黒人女性たちと共に
NASAで専門職として働いているが、黒人で、しかも女性であるため、
賃金は白人たちより低く、役職には就けないなど、
あらゆる面で区別、差別されている。

その一人、高等数学に天才的な才能を持つキャサリンは、
計算手(computer)としてスペース・タスク・グループに配属されるが
同じ職場の人間(ほとんど白人の男性)は彼女を同僚とは見ず、
ただ計算のためにそこにある機械として冷ややかに遇し
「これ今日中に」「これ昼までに」と、次から次へと複雑な計算業務を落とし続けるだけで
その計算をする彼女の労働環境がどれほど非人間的か気付きもしない。

たとえばSTGに配属された初日、彼女はトイレに行きたくなって
同じ職場の白人女性(彼女に仕事を振るところから見て
彼女よりは立場が上の人間)に「トイレはどこでしょう?」と尋ねるが
その女性の答えは「“あなたの”トイレがどこにあるか知らないわ
(I have no idea where your bathroom is)」
私はこの“your”に引っかかり、一瞬、NASAのトイレは
どこかの大企業の食堂のように、幹部用と一般職員用と分かれているのか?
と思いかけたが、次の瞬間、「あ」と気付いた。
キャサリンはもちろん「黒人用の女性トイレはどこか」と聞いたのであり
聞かれた白人女性の方は、(自分たち、白人女性用のトイレがどこかはもちろん知っているが)
「あなた方、黒人女性用のトイレがどこかは見当もつかないわ」と答えたのである。
で結局キャサリンは、高まる尿意を押さえつつ、
トイレを探して広大なNASAの敷地の中を走り回ることになる。
そして自分の職場からは1km近くも離れた、
黒人女性が多く働く建物の中に見つけるのだが
それから毎日、彼女はただトイレに行くためだけに
往復2㎞近い距離を、1日数回走ることになる。
しかも制服と定められた膝下丈のスカートとヒールで。 
万事如此。

場所や物は、すべて“colored”と“white”に分けられている。
初めは1つしかなかった職場のコーヒーポットは、
彼女がその同じポットからコーヒーを飲んでいるとわかったとたん
いつの間にか小さい“colored”用が加わり、しかしポットはほとんどいつも空。

“colored”用トイレのせっけんやペーパータオルは切れがちだし
バスでは“colored”用と定められた後部に座らなければならない。
公共図書館も “colored”のコーナーとそれ以外とに分かれており
“colored” は白人用コーナーの書籍を閲覧することはできない。
学校ももちろん分かれており、“colored”は“colored”の学校にしか行けない。

よくもまあ、ここまで分けたものだと感心するくらい
生活の細部にまでわたって、“colored”と“non-colored”は分けられ
“colored”は常に劣位に置かれている。
当時、建前としては“colored” “non-colored”は
「分離すれども平等(separate but equal)」とされていたが
何が平等なものか。
本当に平等なら分離する必要などないわけで
分離しようとの意図が頭に浮かぶ時点ですでに両者は平等ではあり得ず、
どちらかが優位に立ち、どちらかが劣位に置かれるのだ。
「分離すれども平等」なんてのは、まやかしに過ぎない。

そしてこの映画の中の徹底した差別の図式は今の日本人から見ると
白人による黒人差別の図式、つまり黒人対白人の対立の図式で
日本人はリングの外、自分とは関係ない国で、関係ない人たちの間に起きた
歴史上の出来事、のように見えるかもしれないが、なんのなんの。
普段あまり意識に上ることはないだろうが、
日本人を含む東アジア人は所謂黄色人種であり、
つまりは有色人種、“colored”なのだ。
厳密には同じ“colored”でも、黒人に対する差別と
アジア系に対する差別には微妙な違いがあったようだが
しかし“colored”か“non-colored”かと聞かれれば、
黄色い皮膚のアジア系は、明らかに“colored”。
この当時の米国南部に暮らしていたなら、
黒人やネイティブアメリカン同様、バスでは後部に座り、
“colored”用の切符売り場で列車の切符を買い、
“colored”用の水飲みから水を飲む人間。
NASAで働いていたなら、キャサリン同様、“colored”用のトイレを探して
走り回る側の人間なのだ。
対岸の火事など、とんでもない。

そう思ってみれば、他人事でなくなる分、この映画はより面白いのではないか。
一応実話を基にした話で(映画としてまとめる都合上、多少脚色した部分はあるようだが)
まったくの絵空事というわけではないし、俳優さんたちの演技も達者だ。

それにしても、私は普段、人間は科学技術の面では大きく進歩してきたが
徳性の面では一向に進歩していないと、
人間という生き物に対し悲観的な見方をしがちなのだが
こうして60年前と今とを比べてみると、とりあえず公民権法の成立(’64)以降、
米国では人種、宗教、性別等による差別はいけないという建前になったし
南アのアパルトヘイトもマンデラによって撤廃された(’94)し
本当に遅々たる歩みではあるが、少しはましになってきていると言えるのか。
現実には差別は一向になくならず、世界各地で常に新たな標的が生まれている
状態であっても、一応「差別は不当」と言えるようになったという点で。



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『緋牡丹博徒』 お竜さんは観音菩薩である

  • 2017/01/05 21:24
  • Category: 映画
年明け早々、任侠映画の話というのもなんだが
昨年末に見た藤純子さんの「緋牡丹博徒」シリーズが
意外に面白かったので、ちょっと書いてみたくなった。

このシリーズ、1968年の1本目『緋牡丹博徒』から
尾上菊五郎さんとの結婚により藤さんが引退される
72年の『緋牡丹博徒 仁義通します』まで計8本制作され、
当時大ヒットしたので、現在50歳以上の方なら、実際に映画を見たことはなくとも
「緋牡丹のお竜」の名くらいは、ご存知のことと思う。
あるいは子供の頃、街角でかっこいいお竜さんのポスターを
ちらり見かけた記憶がおありかもしれない。

お話の筋は簡単だ。
時は明治中頃、九州は熊本、五木の親分、矢野組の一人娘に生まれたお竜さんが
渡世修行の過程で行き遭うさまざまな事件の中で、
侠客としての、そして人間としての仁義を通し、
弱きを助け、強きをくじき、悪党どもを成敗していくというのが8本すべてに共通する大枠。
まあ要するに、“古い”タイプのヤクザを主人公にした任侠映画
定番の筋立ての主人公が「緋牡丹のお竜」という女になっただけなのだが、
しかしこの緋牡丹のお竜さん、はなからヤクザ人生を歩むつもりだったわけではない。
地元の大親分の娘とは言え、幼い頃は普通の家の娘同様、大事に大事に育てられ
女学校も出、一通りの作法も身につけて、晴れてカタギの大店にお嫁入り
というその矢先、親分である父が辻斬りに殺され、
それを契機に組はつぶされ子分は散り散り、嫁入り話もご破算になって
蝶よ花よのお嬢様から一転、父の仇を討つために背中に緋牡丹の刺青を背負う
“緋牡丹のお竜”として渡世することになるのである。


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だからこのお竜さん、まんま“うぶな小娘”といった体の第1作はもとより
貫禄の第8作になっても、どこか“お嬢さん”らしさが漂う。
藤さんのきりりとした中にも柔らかさのある(この人は微笑うと片えくぼがよる)、
品のある顔立ちのせいかもしれないし、踊りの所作のようなすっきりとした物腰、
常に無地に近い着物に博多帯という地味な出立のせいかもしれないが
(第一、主題歌にしてからが、「娘盛りを渡世に賭けて・・・」であって
「女盛りを渡世に賭けて・・・」ではないのだ)
銀幕に登場するお竜さんには、博打で人生を送っているようなすさみの影、
日陰者のねじくれた暗さがなく、緋牡丹というより池の中の白睡蓮のように清々しい。
その清らかさは、「聖女」と「娼婦」というお馴染みの(男の側から見た)女の分け方に従えば
明らかに「聖女」側。もっと言えば聖「女」というより聖「母」のキャラだ。

「背中に緋牡丹を背負った女ヤクザが、なんで聖母でありえようか」
と思われる方もいらっしゃるかもしれないが
しかし彼女の聖母性は映画を見れば一目瞭然。
映画の中のお竜さんは、一貫して性的対象外の女として描かれているのである。
だから「聖母」。あるいは、「聖母」という言葉があまりに西洋/基督教的過ぎるなら、
「慈母観音」と言い換えてもいい。
彼女は衆生済度の慈母観音菩薩として、周囲の恵まれない者たちに
惜しみない愛を注き、その悲運に熱い涙を流すが、
しかし「母」であり「観音」であるから、男は抱かない。男に抱かれることもない。
彼女が胸に抱きしめるのは、両/片親を失くした子ども、苦海の女、
死んでいく子分等々、つまり自身が「母」の立場に立ちうる対象だけだ。
他の親分方や同輩の男など、自身が「母」ではなく「女」になってしまう対象は、
決して抱かない。


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だからシリーズには、高倉健、鶴田浩二、菅原文太といった
当時の錚々たる任侠映画のスターたちが相手役として登場するが
お竜さんは彼らと恋仲になるどころか、終始一貫、義理に厚く、筋を通した生き方を貫く
敬すべき同業者としてのみ遇し、礼儀正しい他人行儀さを崩さない。
菅原文太との有名な今戸橋の場面でさえ、手がふれ合うのは
落ちた蜜柑を拾って渡す、その一瞬だけである。

一方、男の方もお竜さんを憎からず思い、危機となれば身体を張って
彼女を助けようとはするが、しかし自分の女にしようとはしない。
そりゃあそうだ、いくら美女でも、「母」、「観音様」に手を出す男がどこにいる?
唯一の例外は若山富三郎演じる四国道後の熊虎親分だが、彼にしたところで
お竜さんにぼうっとなって、妹を通じて結婚を申し込んだものの
お竜さんの方は「杯」を三々九度の、ではなく、兄弟分の杯だと勘違いして承知した
というコメディだから、勘定には入らない。

そして東映の任侠映画であるから、たまにはお色気場面もあるし
暴行場面もあるのだが、しかしそこで汚されるのは決まってお竜さん以外の女、
いかさま賽を振る女博徒であったり、女郎であったり、裏切り者の女であったり
つまりは、はなからその「聖女性」を否定された女である。
聖女性を否定された女=娼婦なのであるから、
そんな女はいかように汚そうと構わないのである。
そして逆にお竜さんは、穢れなき存在としてその聖女性を担保され、
「観音菩薩」として敬慕の対象となる代わりに
生身の女としては惚れた男の腕に抱かれることもなく、
独り光背背負って蓮の花の上に立つことになる。
その昔『山口百恵は菩薩である』という本があったが
実は緋牡丹お竜さんも菩薩であったのだ、ちょん。

それにしても、この女を「聖女」と「娼婦」に分ける構造は、
昭和40年代の任侠映画だからなのか、
それとも映画界という世界が圧倒的に男中心の世界で
(金を出すのも、メガホン取るのも、カメラ回すのも主要な役割は全部男)、
だから当然男の側から見た女ばかりが描かれることになるのか
いずれにせよ余りにわかりやすすぎて、いっそ可笑しい。

もっとも映画そのものは、そうした七面倒くさいことを抜きにして
娯楽映画として上出来に楽しいし、藤さんのすっきりと粋な着物姿や
回を追うごとにあでやかさを増していく美貌を眺めるためだけでも
全8本、鑑賞する価値はある。
そして賭場での藤さんも、惚れ惚れするほどかっこいい。
彼女がやるのはサイコロではなく手本引で、終始無言、無表情だが
すっと伸びた背筋、半肩に掛けた羽織、
目木を指し示すしなやかな指の動き等、ひとつひとつがきっちりと端正だ。

この手本引きは 『乾いた花』の加賀まりこさんもやっていたが
動きが静かなだけに、男がやるより女がやった方が
その所作の美しさが際立つ気がする。
ただし、賭け方は丁半博打よりだいぶ複雑で
私はいくら解説を読んでも、掛け金の置き方と倍率が覚えられない。
商売とは言え、瞬時に客のかけ金額と倍率を計算して
配当を渡せる合力のお兄さんたちは凄いと思う。

最後になったが、緋牡丹シリーズは藤さんのお相手の俳優さんたちもいい。
高倉健さん、鶴田浩二さん、菅原文太さんの3人が
とっかえひっかえ出てくるのだが、どなたもちょうど男盛りというか
油の乗ったところという感じで、みなそれぞれに渋くかっこいいのだ。
高倉健さんなんて、私はこのシリーズを見るまではどこがいいのかちっともわからなかったが
(『鉄道員』でも『あなたへ』でも、全く冴えなかった)
なるほど、若い頃の任侠映画の健さんは、登場するだけで舞台が締まる
圧倒的な存在感と、一徹を絵に描いたような容貌で
見るものを陶酔させる俳優だったのだなあと納得した。
そう思ってみれば『唐獅子牡丹』のポスターなど、痺れるほどかっこいい。
昭和残侠伝シリーズ、見てみたくなったが、まさか雪だるま、買わないだろうなあ。

不快なものは不快

  • 2016/07/31 11:17
  • Category: 映画
私は見始めた映画やアニメが不愉快な場合、さっさと席を立つことにしている。
貴重な視力と時間を、不快なもののために使いたくないからである。

一昨日、雪だるまが選んだアニメ『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』もその1つで
どっと引きたくなるようなタイトルといい、ラブコメ少年漫画風の画といい、


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劇中で歌われるアイドルソングといい、80年代の臭気ぷんぷんで、
それだけならまだ「実際、このアニメは84年の作なのだから
80年代のにおいがするのは仕方がない」と、諦めて見ることもできたのだが
話が始まって20分もしないうちに、ぽんぽんと男性優位主義的な発言が飛び出してきて
「アホかいや・・・」と、心底げんなり。
ついでにむらむらと腹も立ってきて、開始40分でさよーなら。
時間を有効に使うべく、庭に出て畑と花壇への水まきを始めた。

マクロスの主人公は、一条輝(いちじょう・ひかる)君という18歳の地球統合軍パイロット。
これにリン・ミンメイという16歳くらいのアイドル歌手、
一条の上官である早瀬未沙などが絡むのだが、
まず引っかかったのが、早瀬に対するエースパイロット、ロイの物言い。
ロイにとって早瀬は同僚、あるいはもしかしたら上官かもしれないのに
(ウィキをチェックしても二人の階級差がよくわからない)
その早瀬に向かって「職務を離れたら、少しは女らしくしろ」とか
「女は男の言うことを聞くもんだぜ」とか真顔で言うのである。

このロイ、設定では1980年代の生まれのはずなんだが、
頭ん中はこのオハナシを考えたおっちゃんたち(ほぼ40年代生まれ)のまんまである。
外見が絵に描いたようなコケイジアン、身長2mを超える金髪の大男なのも
力の優位性を誇示するようで、こちらの反感を誘う。
態度がデカい上に図体もデカいときては、憎々しさ100倍である。

おまけにこのロイという兄ちゃん、色恋に関しても“力の誇示”路線まっしぐら。
一条や早瀬、他の仲間たちと一緒に酒場に繰り出し、
そこで「好きな女は力ずくでモノにするもんだ」と説教したあげく、
「こういう風にさ」と、隣に座るGFのクローディアに
彼女が嫌がっているにもかかわらず、無理やりキスするのである。
ったく、いつまで「女はやっちまえば、こっちのもの」というアナクロ世界に
生きているんだか・・・。ほとほと愛想が尽きる。
百恵ちゃんが「坊や、いったい何を教わってきたの?」と歌ったのは78年である。
なのに阿呆なおっさんたちは、80年代になってもまだ作中人物たちに
こんなせりふを平気で吐かせていたのである。
いくら30年前のアニメとは言え、これが怒らずにいられようか。
不快なものは、何年経っても不快なり。

もっともこのアニメ、ウィキを読むとそのコンセプトには面白いものもあり
もしかして不快を我慢して最後まで見れば、「おお、なかなか」と思えるところもあった
のかもしれない。
私は年と共に著しく忍耐心が低下してきているので、再鑑賞の可能性はかなーり低いが。

60年代サムライ映画

  • 2016/07/15 08:56
  • Category: 映画
そもそも座頭市シリーズを見ようと思ったのは、その前に見た60年代のサムライ映画が、予想外に面白かったからである。

雪だるまが買ったボックスセットだったのだが、その名も『Rebel Samurai : Sixties Swordplay Classics』と、お上に盾突くサムライを主人公にした映画ばかり4本、集められている。誰が選んだのか知らないが、これがなかなかの秀作ぞろいで、まず話がしっかりしている。よくあるチャンバラ映画のように、紋切り型に勧善懲悪、滅法腕の立つ浪人が悪代官一味をばっさばっさと斬り捨てて大団円、ばんざーい!なんて話は1本もない。どの話もそれぞれに、裏の裏を掻くように、一捻りも二捻りもしてあるのである。

たとえば1本目の『上意討ち・拝領妻始末』(67年、監督:小林正樹)。粗相のあった藩主の側室の厄介払いに、家臣の一人に妻として押しつけ、しかし正室が生んだ嫡男が急死し、側室の子が世継ぎとなると、世継ぎの生母が家臣の妻では何とも具合が悪いと、今度は下賜した側室を城へ返せと言ってくる。

そうした藩主やその取り巻きたちの身勝手に振り回されるのは常にその下にいる家臣たちであり、またその妻であり母であり娘である女たちだ。主命とあればどんな理不尽もご無理ごもっとも、「否」は言えないのが武士社会である。そこに理は入らないし、情も入らない。

『上意討ち・拝領妻始末』の主人公、側室を下賜された藩士とその父は、最後、主命に抗って家に立て籠もり、藩からの討手に討たれるが、たとえ傍からは犬死と見えようと、父子にとっては本望。ことに父の方は婿養子に入って以来30数年、家付き娘の尻に敷かれ続けてきた男が最後に見せた意地なのだ。これを本望と言わずして何とする。

2本目の『獣の剣』(65年、監督:五社英雄)も同様。藩財政を助けるため、山中に隠れ住み、藩命で幕府領の砂金を盗掘していた某とその妻は、立派にその任務を果たしたにも関わらず、最後、約束通り藩士に取り立てられるどころか、砂金を受け取りに来た家老たちに口封じのため殺される。そしてその某と生前些かの関わりがあった浪人も、実は騙されて上司を斬り、その娘から仇と追われる身になった男。共に“藩”の政争や権力争いに巻き込まれて、馬鹿を見た男たちだったということだ。

しかしいくら馬鹿々々しい武家社会でも、その中に生きるものはその掟、しきたりに従わざるを得ない。「あほくさ」と逃げ出し、町人や遊び人になってみたところで、暮らしが楽になるかといえば、まさかそんなはずもなく、気楽は気楽でも腹はくちくならない。

それでも逃げ出してみたのが、『斬る』』(68年、監督:岡本喜八)の源太であり、逆に「武士になりたい」と剣術の腕を磨いているのが田畑半次郎だ。方や元武士の遊び人、方や農民上がりの武士志願と立場は逆だが、ここでも二人は藩の権力争いに巻き込まれ、敵味方に分かれて戦うことになるが、結局最後は田畑も武士の世界の堅苦しさと権謀術策に嫌気がさして、百姓に戻ろうと裃を脱ぎ捨てる。

この映画では特に、源太役の仲代達矢さんが何とも言えずいい。いかにも世慣れた遊び人らしい剽軽な物言いに加え、あのぎろりと大きな目が茶目に動いて、さらりと軽妙。この、世の中の裏も表も見尽くし、知り尽くした上での身ごなしの軽さは、私のお気に入り『幕末太陽傳』(57年、監督:川島雄三)のフランキー堺、居残り佐平次を思わせるところもあり、おかげで最初の数分で「これは、これは」と引き込まれてしまった。

それにそもそも、『黒い河』(57年、監督:小林正樹)を見て以来、私は若い頃の仲代達矢さんのファンなのだ。彼が出ているのなら、どんなつまらない映画でも見てみたいと思っているくらいだ。(もっとも彼はあまりつまらない映画には出ていないようだが)

そして彼だけでなく、最初に挙げた2本で主役を演じている俳優たちも、三船敏郎、加藤剛、司葉子(拝領妻始末)、平幹二朗、加藤剛、岩下志麻(獣の剣)など、錚々たる顔ぶれ。脚本がよくて、俳優がよくて、監督がよければ、つまらない映画になるはずがないではないか。

古い映画なのでレンタルビデオ店ではあまり見かけないかもしれないが、もし図書館などで見かけたら、ぜひ鑑賞をお勧めしたい3本である。

ところでボックスセットは4本組。残りの1本は『異聞猿飛佐助』(65年、監督:篠田正浩)なのだが、残念ながらこれだけは私の好みからは少々外れた。なのでストーリーもよく覚えていない。篠田監督のファン、あるいは猿飛佐助に興味のある方なら面白いと思われるかもしれない。

「座頭市」

  • 2016/07/10 22:03
  • Category: 映画
勝新太郎さんの「座頭市」シリーズを1から7まで7本見て、どうも市さんは私好みのキャラではないと、かなりはっきり悟った。

もちろん私だって昭和生まれ。「座頭市」の名前は子どものころから聞いていたし、その映画シリーズでは、勝さんが延々主人公の“市”を演じていることも知っていたが、しかし実際に映画を見たことは一度もなかったので、勝手に市さんも「仕掛け人梅安」みたいな、クールでニヒルな人物かと思っていたのだ。

ところがどっこい、映画の市さん、全然ニヒルではない。軽薄、とまではいかないが、けっこうひょうきんで、かなーり生臭い人物なのだ。それでも第1作、2作(ともに62年製作)では、まだ勝さんも“市”の性格を少々重めに設定していたのか、労咳病みの浪人・平手(勝の実兄、若山富三郎が演じている)との釣りを縁とするほのかな友情(1作目)や、兄・与四郎(またもや若山が演じている)との確執(2作目)が描かれたりして、それなりにシリアスだったりするのだが、カラーになった3作目あたりから、市のキャラがだんだん軽くなってくる。

何が軽いって、まずふだんの物言いが軽い。盲の按摩として「あたしなんて・・・」と妙にへりくだった態度でへらへら笑い、隅の方でちぢこまっていたりする。もちろん賭場でヤクザの兄さんたちとやり合う時には態度一変。凄みを効かせた口調で、兄さんたちを煙に巻いたり、恫喝したりするのだが、ふだんはあくまで気安くひょうきん。その態度はよく言えば軽妙、悪く言えば軽薄。

そして女にも弱い。飯屋や飲み屋では平気で女たちとふざけるし、行く先々で知り合う素人女たちとも、そこそこかかわりが出来たりする。(不思議なことに、女の方もまた市にけっこう関心を示すのだ) が、まあ、ふつうはかかわりができても、縁になった揉め事が終わればそれっきり、「はい、さようなら」なのだが、たまに本気で相手に惚れ、たとえばかつての師の妹(浪人とはいえ、腐っても鯛の武家娘)から思いを寄せられれば、「市は今日から真人間になります」なんて、あっさりその気になる。およそ単純である。

金も好き。金のためなら何でもする、なんてところはないが、腕を見込んで助っ人を頼まれれば
、その助っ人料を吊り上げるのに遠慮はしない。その代り、世話になった人や助けが必要な人には惜しげなく金を与えたりもするが、金がないのにある振り、「武士は食わねど・・・」的なやせ我慢はまずしない。(まあ彼は盲で按摩でやくざで、武士ではないのだから、当たり前といえば当たり前だが)

それに、それに、これを言ったらお終いかもしれないが、市さん、旅から旅へ明け暮れる流れ者の按摩にしては、栄養良すぎである。演じる勝さんが当時30代の若さだったのだから仕方がないのかもしれないが、もともとの丸顔に肉がたっぷりついて、つやつやと光り、身体つきもがっしりと太り肉。どこにも「按摩かみしも十六文」と、十六文(そば一杯と同じくらい?)で、全身マッサージを提供する、旅按摩の貧の影はない。

そしてこの脂ぎった丸顔、体躯でひょうきんな仕草をされたり、女とふざけられたりすると、その俗っ気がいっそう際立ち、生臭さが増すのだ。そういった気取りのなさ、気の置けない親しみやすさが勝さんの持ち味であり、人気の理由なのだろうけれど、ヒーローとしては理の勝った冷静沈着タイプ、あるいは飄々とした世捨て人タイプが好きな私の嗜好とは、およそ相容れない。誠に残念。

さて座頭市シリーズは全26作。いま7作見たところだから、あと19作残っている。聞くところによると、シリーズ後半では市さん、徐々に渋みが出てくるという話なのだが、さて私好みのヒーローに変わってくれるのだろうか。それとも勝さんのことだから、40代、50代になってもぎんぎらぎんのままなのかなあ。


何しろこの丸顔だからなあ

zatoichi.jpeg

『ドラゴンハーフ』

  • 2016/04/10 09:35
  • Category: 映画
一昨日、アニメ「ドラゴンハーフ」を見たら
なぜか主人公の “ミンク”が気に入ってしまい
同作品についてウィキしたり、
ふらふらとミンクの画像を検索したりしてしまっている。

ことに気に入ったのが、エンディングテーマの「私のたまごやき」で
YouTで見つけて、さっそくお気に入りに入れた。
それがこれである。



一聴しておわかりのとおり、冗談というか、ナンセンスギャグというか
いい大人が真剣きって聞くような曲ではないのだが
でも私は気に入ってしまった。
冒頭の“パッパラフニフニ パッパラほえほえ”のところと
まん中へんの“トマトはダメ 私のもの たこはあげる 見ためが キライ”
のところが特によい。あと“弱肉強食 焼肉定食”のところも。

聞くと元気な気分になるので、ここ2日、毎朝この曲を聞いてから
1日のルーティンを始めている。
ジムに行く時も、この曲を歌いながら自転車を走らせる。
(ちなみに今日は氷の上で自転車がすべり、すっころんだ。
両膝をしたたかに打って、今もけっこう痛い。 

この「ドラゴンハーフ」、原作の漫画は単行本で7巻出ているらしいが
OVAのアニメは、30分ほどの短編が2本だけ。
「もっと見たいぃ」と思ったが、他には何も出ていないらしい。
内容はというと、RPG(ロールプレイングギャグ)と銘打たれているとおり
だいたいにおいて、おばかなギャグの連続。
考えオチなど全くない、もう「とほほ」なくらいふつーのギャグばかりなのだが
でもこれが笑える。不快になることなく、素直にけたけた笑える。

ミンクも、シリアス(?)な時はツンととんがった胸、
きゅっとくびれたウエストの萌えキャラお約束の美少女だが

これですね ↓

mink2.jpg


こういうのも、あります。
そう、ミンクにはしっぽと翼があるんです。ドラゴンハーフだから


mink.jpg



コケた時は急に3頭身の、起き上がりこぼしのような姿になる。
(というか登場人物全員が、3頭身化する)

これです ↓
左から、お父さん(騎士)、お母さん(ドラゴン)、右下で倒れてるのがミンク


mink3.jpg

これがまた可愛い。というか、私はこの3頭身のミンクの方が好きだ。
この姿で動くと、なんだか元クラスメートのJちゃんに似ていて
よけい好感が持てる。(注:Jちゃんが3頭身だと言いたいわけではない。
雰囲気が似ていて可愛いと言いたいだけである)

雪だるまがいろいろと買い集めたので
この1月以降、80年代から現在までの日本のアニメを40本ほど見たが
「これは」と印象に残ったのは、別格のルパン3世シリーズを別にすれば
このミンクちゃんと、『REDLINE』(2010年)くらいである。
そのうちまとめて簡単に感想を書きたいとは思っているが
書くとなるといろいろ資料を当たらなければならないので
さてどうなりますか。

余談だが『ドラゴンボール』『ドラゴンハーフ』と見た後で
雪だるまが「今日はこれね」と『Taro the Doragon boy』を持って来た時には
「なんだ、またドラゴンがらみの少年戦士ものか?」と少々うんざりした気分だったが
タイトルバックに流れた水墨画のような山を見て、「あ!」と一閃。

そうこれはドラゴンタローではなくて、
松谷みよ子さんの名作『龍の子太郎』でした。
ドラゴン続きだったもので、ついうっかりした。

大島渚 3本

  • 2016/03/05 11:45
  • Category: 映画
大島渚のボックスセットが届き、端から見ている。1本目の『悦楽』(’65)はコメディとしか思えなかったが(原作:山田風太郎氏らしいが、50年後の今見るとコトの成り行きが説得力に欠け、ために本来深刻なはずの場面が苦笑というか失笑を誘う)、2本目の『白昼の通り魔』(’66)と、3本目の『日本春歌考』(’67)は、面白かった。少なくとも同じ時代の吉田喜重氏の一連のよろめき映画よりは、ずっと面白かった。

ただ前衛、文芸映画というお約束のせいか、今の映画から見ると多分に観念的で、まるでお勉強のための映画のよう。たとえば『白昼の通り魔』では、主人公の一人が「恋愛は無償の行為です」なんて声高らかに宣言しちゃうし、後半では主役の女2人が、通り魔を含めた3人の関係性について延々議論しちゃうのだ。今時、登場人物たちが真面目くさって、文章語、口語とは距離のある本の中の言葉、書き言葉、で議論するような映画は、まさかない。

そして『日本春歌考』 入試会場から出てくる受験生たち。外は雪。それでも試験が終わった開放感からか、今、彼ら4人の頭の中にあるのは同じ会場にいた氷のように美しい女子高生のことだけ。妄想と観念。街では暗く粛々と進む「紀元節復活反対」の静かなデモ。(’67年、戦前、紀元節だった2月11日が建国記念の日として祝日となった)

夜、引率の先生(なんと伊丹一三時代の伊丹十三が演じている)、同じ学校の女子と共に居酒屋へ行く。先生ともども飲み過ぎて(未成年に飲ませていいのか、伊丹先生?)宿屋に泊まる高校生たち。宿屋でも男の子たちはからかい半分、女の子たちにちょっかいを出そうとするが相手にされない。そしてその夜、先生はガスストーブの不始末により一酸化炭素中毒で死亡してしまう。(伊丹先生、あっという間に退場) 

話は、4人の男子高校生のうちの一人、荒木一郎演じる中村と、小山明子演じる先生の恋人とのあれこれや、受験会場で会った美少女との再会など、男の子たちの妄想も織り交ぜ、幻燈のように続いていくが、その背景に、ギターを手に若者たちがロシア民謡や反戦歌を歌っている“うたごえ集会”らしいイベント、ベトナム戦争反対の募金を呼びかけている大学生たち、冒頭の「紀元節復活反対」のデモなど、白黒の映像の中に当時の世相が次々と映し出され、50年前とわかっていても、確かに知っている“日本”だけに、はるか遠い昔のような気もするし、つい昨日のことのような気もして、不思議な気持ちになる。

そして圧巻は、3人の女子高生のひとり、吉田日出子演じる金田幸子が、どこも見ていない目で歌う『満鉄小唄』。最初に道を歩きながら歌う時にはわからないが、後半彼女は白い韓服を着て現れ、在日であることが暗示される。ほとんどすべての濁音が、半濁音または清音に発音されて歌われる「満鉄小唄」は、朝鮮人娼婦の恨み節。当時まだ20代前半の吉田が、化粧っ気のない顔で無表情に歌うこの歌は、凄絶だ。

ちなみにYouTには、男性がふつうの日本語の発音で歌っているこの歌がいくつかアップされているが、この歌は男が歌ったのでは意味がない。きれいな日本語の発音で歌うのも、だめだ。それでは朝鮮人娼婦たちの悲哀が出てこない。(ただし、朝鮮語を母語とする人たちが、本当に日本語の濁音が発音できないかどうかは別の話だ。この発音の仕方は、日本人が考える朝鮮人風の発音と見るべきではあるだろう) 誰か吉田が作中で歌っている「満鉄小唄」をアップしてくれないかな。

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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、米朝、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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