図書館

  • 2017/07/02 10:29
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ところで、私は最近、図書館に行くことを覚えた。
日本にいた頃は、学生時代も社会人になってからも、
それこそ毎日のように通い
(大学時代は学校からちょっと坂を下るとそこが図書館だったし、
就職してからも職場から図書館は大変近く、昼休みにひょいと行けた)
本屋同様、そこにいるだけで幸せだった図書館だが
外地に出てからは、図書館に行ったところで日本語の本があるわけではなし、
外国語の本では何しろ読むのに時間がかかるし、
語の意味など書き込みをしたりもするし、
そうなれば読みたい本は買って読むしかないので
香港では歩いて5分のところに図書館はあって、しょっちゅう前を通りはしたが
結局一度も中には入らず、ケベックに来てからも、うちから車で7~8分、
自転車で15分、歩くと45分(!)のところに図書館があるのは知っていたが、
過去5年間、一度も足を踏み入れたことはなかった。

が、今年になって、お散歩マダムの一人から
何、まだ図書館に行ったことがない? あそこには本だけでなく
雑誌やCD、DVDもあるし、絵画展などしょっちゅう何かのイベントもしている。
本を読むのは大変でも、雑誌なら見て楽しめるだろう。
ぜひ行け。免許証か保険カードがあれば、カードを作るのは簡単だ。
そうだ、月1くらいで映画の上映会もある。場所は・・・等々と熱心に勧められ、
そこまで言われては、義理と礼儀上、とりあえず1回くらいは行かずばなるまい。
行かずばなるまいがしかし、私に読める本、10日なり、2週間なりの貸出期間中に
読み上げて返せる本なんか、ありますかいな?
いくら簡単でも、子ども用の童話なんか読みたくないぞ、と
行かずばなるまいとは思いつつも二の足を踏んでいたのだが
ある日ふと思った。
そうだ、図書館には手芸本があるに違いない! 

私は最近ハーダンガー刺繍を始め、
特にそれにクロスステッチを組み合わせるのが面白くて、あれこれ試しているのだが、
いかんせん、なかなかよい参考書がない。
もちろんネット上にはうっとりするような作品の写真がたくさんあり、
刺してみたいと思うものもたくさんあるのだが、
たいていの場合チャートまでは載っていないので
ハーダンガー部分はともかく、クロスステッチ部分の色の識別に悩む。
片目で見ているので、似たような色が隣り合っていると
疲れるに従い、いくら拡大しても区別がつかなくなるのである。

が、本なら(ふつうは)チャートが載っている。色番号も載っている。
悩まなくて済む。
それに、小説ではフランス語がわからなくては話にならないが、
刺繍の本なら刺し方なんか全世界共通、
写真とチャートさえあれば、説明部分がわからなくてもぜーんぜん困らない!


で、ある天気のよい土曜日、自転車に乗って、いそいそ出かけた。
そして手芸本コーナーで、しばらく前から買おうかどうしようか迷っていた
クルーエル刺繍の本のフランス語版を見つけ、
ついでにハーダンガーの本も複数見つけて、
ほくほくしながら、そのうちの2冊を借りてきた。
係の人の説明によると、1人10冊まで借りられ、貸出期間は約1か月だそうだが
まさか一度にそんなにたくさんは要らない。

ついでに、その時はちょうど水彩画の展示をしており
それを描いたアーティストも会場に詰めていて、
長閑な土曜の昼下がりのこととて、絵の番をしながら編み物をしていらしたので
他に鑑賞者がいないのを幸い、彼女と1時間以上も絵や手芸の話をした。
当地には珍しく英語を話す人だったのである。
(フランス語だったら、「すばらしい作品ですね」「それはどうも」と
会話は20秒で終わり)

彼女とはその次に行った時も会ったが、
その時は他に熱心な鑑賞者がいたので、邪魔せず帰ってきた。

当町の図書館は、ざっと見たところ蔵書数はさほどではないが、
ソファが置かれた閲覧コーナーや、子供たち用のコーナー、
喫茶室などもあって、ゆったりと明るく、感じがいい。

以来、味をしめて10日に一遍くらい、自転車で出かけている。
この前は手芸本の他に『Maisons du Maroc』というモロッコの家、
庶民の家ではなく、ホテルや建築家の家など豪壮な邸宅ばかりを写した
写真集を借りてきた。
鮮やかな色彩と精緻な幾何学模様の連続、
圧倒されるほどの量の装飾がちりばめられた部屋部屋に目がくらみそうで、
よほど強靭な神経でなければ、こんな家には住んでおられまいと思ったが
旅先での一夜なら、あるいは数ある部屋の中のひとつだけなら
こんな装飾も面白いかもしれない。
なんだかちょっと、モロッコに行ってみたくなってきた。


装飾模様を見ていると目が回りそう

maroc 1


この光と色の氾濫の中で、くつろぐ?

maroc 2

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『Le cas Sneijder』

  • 2017/06/24 03:54
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私が今フランス語の本を読むのは、日常生活で使えそうな語彙と表現を
頭に入れるためで、だからその部分が豊かであるなら内容は二の次、
話が面白くても面白くなくても、興味のある主題でもそうでなくても
どうでもいいようなものだが、そこはそれ、生身の人間、
しかも私という、どちらかといえば好き嫌いの激しい人間が読むのであるから
やはり“何でもいい”というわけにはいかない。

どうせ手間暇かけて読むなら、興味を惹く内容で、話が面白く、
その上さらに使われている語彙や構文が、初級の私でも何とか付いていける程度なら
願ったり叶ったり。それ以上望むところはないのだが、
実際問題としてそういう本を探し当てるのは、なかなかに難しい。

長年読み慣れている日本語の本なら、たとえ読んだことのない作者の本であっても
その装丁や帯の惹句、パラパラと拾い読みした文章の感じなどから
好みの本かそうでないか、即座に判断できるのだが
フランス語の本では、そうはいかない。
(大御所は別として)馴染みのない作家名、イメージの湧かない出版社名の連続で
軽い本なのか重い本なのか、古典的なのか奇をてらった新しモノなのか、
鼻が、まったく利かない。

なので自然、信頼できる方のお薦めや、どこかで読んだ書評などの
獏とした情報を頼りに本を選ばざるを得ないのだが、
そうした中でたまに自分の好みにぴたり当てはまる本に出合えると、
文字通り欣喜雀躍。うれしさに、手の舞い足の踏む所を知らず、という感じになる。

実は今読んでいる Jean-Paul Dubois氏の『Le cas Sneijder』がそれで
今までは苦役だった2日に1回の音読が、近頃は“お楽しみ”に変わった。
もともとはこの本をベースにした映画『La nouvelle vie de Paul Sneijder』を見、
それが大変面白かったので、原作を読みたくなって注文したのだが
これが大当たりだった。

主人公のポールは60歳で、妻アンナの転職に伴って
トゥールーズからモントリオールに移住した。
支配的で野心的なキャリアウーマンであるアンナとの間はすでに冷え切り、
アンナのクローンのような双子の息子にとって彼はいないも同然の存在、
彼の唯一の愛情と関心の対象は、前妻との間に生まれた娘マリーだったのだが
そのマリーは、休暇でモントリオールに滞在中、彼と共にエレベーター事故に遭い、
亡くなってしまう。
同じエレベーターに乗り合わせた5人のうち、生き残ったのは彼だけで
小説はコーマから覚めた彼の独白で始まる。

正直に言って、この小説で使われている語彙や構文は私には難し過ぎ、
知らない単語が1ページに付き20個くらいあるし、
わからない単語を全部調べた後でも、Google translate の助けを借りないと
文章の意味がいまいち判然としなかったりするのだが
それでも彼のスタイル、内省的でややシニカルなものの見方、
微かなユーモアなど、読んでいて実に楽しく、単語調べも苦にならない。

残念ながら日本語訳はまだ出ていないようだが、
フランス語を読むのが億劫でなければ、
そしてこの手の、やや持って回ったような綿々と続く文章がお嫌いでなければ
この本はお薦めである。

ところで本題とは関係ないが、この本の最初の方に
暖かい南仏のトゥールーズからモントリオールに移住した主人公ポールの
ケベックの気候に対するコメントが述べられていて
それが常日頃わたしが感じているのと全く同じで、大笑いした。
彼は「À dire vrai, je ne me suis jamais habitué à l’hiver d’ici,
ni davantage à la brièveté des autres saisons.
(拙訳:本当のところ、私はここの冬にも、他の季節の短さにも、
どうしても慣れることができなかった)」と言っているのだが
ほんと、ここは冬ばかり長く厳しくて、他の季節が泣きたくなるほど短いのだ。
印象では、春と夏と秋が3週間ずつで、あとはずうううううううっと冬。
おかげで花の咲いて散るのが早いこと!
私はゆっくりと過ぎていく、日本の春と夏と秋が、少し懐かしい。

『TSUBAKI』

  • 2017/03/21 10:59
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島崎あきさんの『TSUBAKI』を読み始めた。
フランス語で書かれているにもかかわらず、すらすら読めるので
少々狐につままれたような気分だ。

その前、同じくケベック在住の作家が中学生くらい向けに書いたオハナシを読んでいた時には
単語の意味は全部わかっても、文章の意味は今一つ理解できないということがしょっちゅうあったのに
この『TSUBAKI』は、単語の意味が分かると、文章の意味がするりとわかる。
初級者が外国語を読む場合、こういう経験はそうあるものではない。

なぜこんなに楽に読めるのか。
生まれながらにその言語を操れるネイティブは
自由に言葉を選び、跳躍し、破格を恐れぬ闊達さで自己表現を求めるのに対し
学習の結果その言語を操れるようになった者は
あくまで文法に則った正確な文章、すでに在り、承認された表現を中心に据えざるを得ないからか、
(ネイティブが今までにない言葉や言い回しを使えば“斬新”“クリエイティブ”と言ってもらえるが
外国人が同様のことをすれば“間違い”“そういう言い方はない”と言われてお終いである)
あるいは、島崎さんが日本人、日本語話者であるので
その文章の流れの筋道が同じ日本人である私に馴染みやすく、
無理なく追えるのでわかりやすいのか。

いずれにせよ、やっとぼちぼちフランス語の本を読めるようになった程度の私では
『TSUBAKI』のフランス語を分析して、あれこれ考えてみるなんてことはできないので
今はただ、面白い物語を楽にフランス語で読ませてもらえることに感謝。
辞書を引いても、引いても、意味がわからない・・・の連続だと
ほんと意気消沈して、道の遠さにぜつぼーしてしまうから。

それに『TSUBAKI』の次に読もうとしている本はフランスの作家の本で、
ネイティブである分、そうそう容易にはいかないだろう。
『TSUBAKI』で少し元気を蓄えて、
次の『Le Cas Sneijder』に臨まなくては・・・
マーケットプレイスで買ったので、どこから来るのかわからないのだが
3月4日に発送したと言うのだから、たぶん今週中には届くだろう。
早く来ないかな、楽しみだな。



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「異邦人」

  • 2016/09/09 04:32
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お友達滞在中はさぼっていた音読を10日ぶりくらいに再開したら、
なんともはや、口がもとらないというか、口が動かないというか
口も舌もまるっきり日本語モードになってしまっていて、
出てくる音が全然フランス語に聞こえない。
その上さらに読み上げるときの調子も、明らかに日本語のリズム、メロディで
聞く方も聞きづらくて苦痛だったろうが、読む私の方も何とも読み心地(?)が悪く
よけいにつっかえたり、読み間違えたりする始末。

中断する前の数回は何となく調子を掴みかけ、読んでいて気持ちがよかったので
それを失ってがっかりである。
掴みかけるには数週間かかるが失うのは一瞬、と改めて認識して
岩と一緒に坂を転げ落ちたシーシュポスの気分。

それはともかく、今読んでいるのはカミュの「異邦人」なのだが
この、大昔、中学生か高校生の頃読んだ超有名小説を
50過ぎて改めて読んでみると、「あれ、これってこういう話だったっけ?」と
思うことしきり。

深くは読めないフランス語で、あらすじを追うだけのような読み方なので
感想の方も自然、表面的なものでしかないのだが
「ぎょ、ぎょ、何だこれ?」とまず思ったのが、裁判が始まる前の取り調べで
予審判事が十字架を振りかざして、ムルソーに詰め寄る場面。
彼は十字架上のキリストを指して「彼が誰だか知っているか?」とムルソーに問い、
ムルソーが「もちろん」と答えると、激した調子で「私は神を信じている。
どれほど罪深い罪人でも、神は許しを与える。しかしそのためには、罪人はまず罪を悔い改め、
幼い子供のように素直な、心から神を信じる気持ちになって、有罪判決を受け入れなければ
ならない」と言う。

ムルソーは彼の論理を理解しようとするのだが、何しろ部屋は暑いし、
大きなハエが何匹かぶんぶん飛び回っていて彼の頬に止まったりするし、で
気が散って、どうも今一つ付いていけない。

ムルソーの、犯した罪におののいているとも思えない、要領を得ない態度に
予審判事は最後、業を煮やしたかのように「神を信じているか?」と問うのだが
ムルソーの答えは当然「いいえ」
予審判事はがっくりと腰を落とし、「信じられない。人はみな、神を信じているものだ。
神を否定する者たちですら、信じているのだ」と言うのだが、
この場面、私には「笑止!」としか思えない。

キリスト教の神にどっぷり浸かって抜け出せない西欧社会の人間にとっては
キリスト(=神)を信じないなんて、それこそ「信じられない」のだろうけれど
非西欧圏に育ち、キリスト教の神とは無関係に成長してきた私から見れば
キリスト教なんて世界中にあまたある宗教のうちの一つでしかなく、
イスラム教や仏教やヒンドゥー教やユダヤ教、あるいは知的設計者教等々と同列。
当然、イエス・キリストは絶対神なんかではなく、地球上の一部の人たちが信じている宗教
の中の神でしかない。
予審判事は「神を否定する者たちですら、神を信じている」と述べるが
神なしで育った私などは、神を否定する必要すらないのだ。
1940年代の作品だから仕方ないけど、
この予審判事殿、西欧中心過ぎて、世界を彼方から見る
パースペクティブに欠けていると思う。

そしてもうひとつ何だか変、なのが裁判場面。
どうもムルソーがアラブ人を殺したというれっきとした犯罪事実そのものよりも
その前の、母親に対するムルソーの態度の方が、問題にされているのだ。
曰く「母親の葬儀の際、涙ひとつこぼさなかった」「死に顔を見ようともしなかった」
「通夜の際、勧められるままにカフェオレを飲んだ」「煙草を吸った」
「葬儀の翌日、海水浴に行き、女友達と遊んだ」「喜劇映画を見た」
「その女友達と関係を持った」等々。

読んでいた私も、聞いていた雪だるまも
「それがどうして殺人事件の裁判の争点になるわけ?」と一向合点がいかず
終始、頭に大きな疑問符がくるくる回り続けたのだったが
その後思うに、ムルソーはアラブ人を殺したことは初めから認めているので
通常、私たちがよく読んだり、見たりする推理小説/映画のように
彼は本当に犯罪を犯したのか、犯していないなら真犯人は誰だ?といった展開にはなりえない。
よって、なぜ殺したのか、殺した理由に情状酌量の余地はあるのか否かといった点しか
争点になり得ず、だから彼の心情、ふだんの態度、人間関係といった
ムルソーという人間のありよう、この小説でいうところの“l’âme”(魂)を
問題にするしかないのかと思うが、それにしてもこれでは
刑事事件の裁判というより、人間性を裁く道徳裁判のよう。
ちょっと待て、もともと逮捕されたのは人を殺したからであって
母親の死を深く悲しまなかったからではないだろう?と言いたくなる。

それに第一、私など母親の葬儀で涙を流さなかったどころか
葬儀屋相手に「もっと安いのはないのか?」と母親の棺代を値切った人間である。
葬儀直後に人を殺したりしなかったからよいが、
仮に殺していて、しかもそれが40年代の西欧だったら、
「母親の棺代を値切り、葬儀で涙一つこぼさなかった人間」として
轟轟と世間の非難を浴び、ムルソー同様、あっという間に死刑になっていたに違いない。
やれやれ、60年代の日本に生まれていてよかったよ。

『さよならタマちゃん』

  • 2016/03/23 11:11
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オトモダチに電子書籍を薦められながらも今まで購入に踏み切れなかったのは、映画鑑賞より編み物より紙の読書より何より、PC画面を見るのが一番目にしんどかったからだ。画面の明度を下げてみても、調子の悪い時はまぶしくて30分と画面を見ていられない。サングラスをかけて画面を見ていたこともあるが、これだと画像や料理レシピくらいは見えるが、長い文章を読むのはしんどい。

それにそもそも、視力の心配をしながら本を読むというのもなかなか気の滅入る話で、だから読みたいなあと思う本があり、電子書籍なら今すぐ読めて、しかも送料が要らないとわかっていても、なかなか手を出せずにいた。

が、ここ2週間ばかり頭痛も眼痛もなく、目の調子もよくて、PCを見ていてもあまり目が疲れない。「お、これならいけるかも・・・」と思っていた矢先、ある方のブログで武田一義さんの『さよならタマちゃん』を知り、漫画なら小説とかより文字の量が少ないから画面を凝視しなくても読めるし、しかもいつも本を買っているhontoさんでちょうど電子書籍お試しキャンペーンをやっていて、注文1回につき500円引き。つまり本来なら540円のところ、たったの40円で読めるわけで「これは試すしかないでしょう♪」と早速買い物カゴに入れてポチ。

そしてそのままDLして読み始めたのだが、いくら漫画でも300ページ近くあるのでさすがに1日では読めず、休みながら2日がかりで読了。
かなり話題になっている漫画のようなのでご存知の方も多いと思うが、これは精巣腫瘍(睾丸癌)で闘病生活を送ることになった漫画家アシスタント(当時)の武田さんが、自身の経験を漫画にしたもの。35歳という若さでがん(転移あり)と診断された武田さんと、一応現役引退した後で早期がんと診断された私とでは深刻度が全く違うのだけど、それでも身につまされるところが多々あって、しみじみと読んだ。時々、何の脈絡もなく頭をよぎる「後がないかも・・・」という思い(もちろん次の瞬間、“だから何だ? 後がないのは、人間みんな同じだぜ。ヴァンパイアじゃあるまいし、死なない人間がいるか?”と自分で突っ込みを入れるが)とか、定期検診後、結果が出るまでの何とはなしの不安感とか、がんでなくても持病をお持ちの方なら、みな身に覚えのあることだと思う。

めそめそと自己憐憫にまみれたような闘病記など読みたくもないし、かといってやたらポジティブでカラ元気にあふれたようなのも願い下げだが、この『さよならタマちゃん』は気負いもなく、正直で、ほのぼのと可愛らしい感じの絵柄と相まって、気持ちよく読むことができた。奥さんとの、互いに支え合っている関係もいい。誰もいなくて、一人で頑張るのは本当に大変だ。


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ミセス・ポリファックスシリーズ

  • 2016/03/15 10:42
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しばらく前、編み物のBGMにジャネット・イヴァノヴィッチさんのステファニー・プラムシリーズを聞いていると書いたが、7本聞いたところで「もう十分」という気分になったので、何か他に気軽に聞けるものはないかとあれこれ試聴し、結局ドロシー・ギルマンさんのミセス・ポリファックスシリーズに落ち着いた。邦訳では『おばちゃまはXXスパイ』というタイトルになっているあのシリーズである。

古本屋等で見かけてタイトルには馴染みがあったものの、今まで読んだことはなかった。第1作の発表が1966年だから、すでに50年前の作品で、したがって当然時代背景は古いのだが、その古さが今読む(聞く)と却って面白くて、けっこう楽しく聞いている。なんたって“Red China”なんて言葉が出てくるのだ。なつかしー。60年代初めというと、文革が始まる前、中ソ対立が表面化してアルバニアが話題になっていた頃と思われ、そのせいかオハナシ(第1作)の舞台にはアルバニアも登場する。

そのほか60年代後半のトルコ(第2作)やブルガリア(第3作)、70年代中頃のザンビア(第5作)とか、舞台は毎回違っていて、21世紀の今聞いていると、なんだか時間と空間、両方いっぺんに移動して旅行しているみたいですこぶる楽しい。しかもお話は、何しろ主人公がすでに孫もいる60代のご婦人CIA工作員とあって、暴力ほとんどなし、血生臭さゼロ、ほどほどに人情家で他の登場人物たちと暖かい交流があり、常にハッピーエンディングと編み物のBGMには打ってつけ。

ま、時々、文革直後の中国を舞台に、白人のCIAエージェントが中国人に化けて潜入し、新疆の労改送りになっている中国人技術者を天山山脈越えルートで密出国させる(第6作)なんてのがあって、「いやー、いくら何でも、それはちょっと無理じゃないすか?」と、編み物の手を休めてにやにやしてしまうようなこともないではないが(しかもその化け方が、目の横にテープ貼って吊り目にするっていうんだから、笑うなという方が無理)、いずれにしてもこのシリーズはコージーミステリー。シリアスなスパイストーリーではないのだから、げんなりするほどめちゃくちゃな設定でない限り、「ま、いいさ」なのである。

で今は第7作の『Mrs. Pollifax and the Hong Kong Buddha』(‘85)を聞いているのだが、のっけから、かつてセントラルにあった香港ヒルトンとか出てきて、郷愁をかき立てられる。ミセス・ポリファックスが到着する空港も赤鱲角じゃなくて、懐かしの啓徳機場だし。いろいろな地名とか、通りの名とか、ついつい懐かしくて、遠い目になってしまう。

作者のドロシー・ギルマンさんは、すでに2012年に亡くなっているので、今後もずっと新作を楽しみに・・・というわけにはいかないのが残念だが、幸いミセス・ポリファックスシリーズは全14作。今聞いているのを聞き終わっても、あと7作残っている。しばらくは楽しく過ごせそうだ。

朗読者が変わると、面白さも変わる

  • 2016/02/08 13:00
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今日はスーパーボウルの日で、雪だるまは6時過ぎからジェリーと一緒にTVの前に陣取っている。一方、私はゲームには全く関心がないので、さっきハーフタイムにビヨンセは見に行ったが、あとは2階で好き放題。さっきまではクリスマスに貰ったギフトカードで買った毛糸で、新しい靴下に取りかかっていた。BGMはジャネット・イヴァノヴィッチのステファニー・プラムシリーズ。先日このシリーズを発見して以来、編み物のお供にはずっとこればかり聞いている。なにしろ朗読者のローレライ・キングさんが、類いまれに上手いのだ。声だけで複数の役柄を完璧に演じ分け、しかもそれぞれの人物が、みな生き生きしている。作者には失礼かもしれないが、もしかしたら文字を追って自分で本を読むより、ずっと面白くなっているのではないかと思う。

実はステファニー・プラムシリーズは、もう一人、C・J・Crittさんも朗読しているのだが、二人の朗読は大げさに言えば天と地ほども違う。私はキングさんの朗読を2本(『To the Nines』と『Ten Big Ones』)聞いた後、クリットさんの『Four to Score』を聞いたのだが、ステファニーもルーラも他のキャラクターも、みな突然20歳くらい老け込んでしまったかのように平板になり、躍動感ゼロ。一応ミステリ仕立てなので、結末が知りたくて無理やり最後まで聞いたが、正直、聞いているのが苦痛なくらい面白くなくて、途中何度も止めようかと思ったほどだ。

もちろんクリットさんもプロのナレーターで、J・イヴァノヴィッチだけでなく、パトリシア・コーンウェルやメアリ・H・クラークなど、数多くの作家の作品を朗読している。だから技量がないわけではないと思うのだが、どちらかというと低めでザラリとした印象の声が、ステファニーの軽い脳天気なキャラと合わなかったのか、はたまた彼女の解釈だとこういう演じ方になるのか、その辺はこちらには何ともわかりかねるが、オーディオブックのレビューで彼女の朗読に対して複数の人が低い評価を与えているのをみると、そう感じているのは私だけではないのだと思う。

さっき「人物がみな平板だ」と書いたが、中でも興ざめなのが2人の主要男性キャラ、ジョーとレインジャーだ。ジョーは警官、レインジャーはステファニーと同じバウンティ・ハンターで、2人とも“かっこよくて、セクシー”な設定なのに、クリットさんの朗読だとこれが全然かっこよくなく、セクシーでもない。なんだかいつも、徹夜明けでよれよれ・・・といった風情なのである。それでも普通にセリフがあるジョーはまだいいが、だいたいいつもワン・シラブル、少ないセリフで危険なセクシーさを出さなければならないレインジャーに至っては壊滅的で、彼の定番の挨拶は“Yo…”なのだが、私はこんな間抜けな“Yo…”は初めて聞いた。クリットさん、米国人のはずなのだが、ヒスパニックの男の子が言う“Yo…”を聞いたことがないのだろうか?

そしてもう一人、グランマ・マゼール(ステファニーの祖母)も、キングさんとクリットさんでは、全然印象が違う。キンキンした高い声で演じられるキングさんのグランマが、エキセントリックだがどこかに可愛らしさもある印象なのに対し、クリットさんのグランマは低いだみ声で、口調も怖い。可愛らしさは微塵もない。

オハナシは文字で書かれているだけなので、どんな声を使うか、どんな口調にするかは、朗読者がそれぞれの解釈に基づいて作り出していくもので、だから100人の朗読者がいれば、100通りのステファニー/レインジャー/グランマが出来上がるのは当然なのだろうが、それにしても朗読者によってここまで違う印象になるのも珍しい。私は今までにも一人の作者の作品を、複数の朗読者で聞いたことがあるが、改めて朗読者の名を見なければ、朗読者が違うことに気づかないことの方が多かった。ましてAさんの朗読だと面白いが、Bさんの朗読だと面白さ半減と感じたことは、一度もない。素人の朗読は別として、プロの朗読者でここまで印象が違うのは初めてである。

キングさんもクリットさんも、どちらもYouTにあるので、興味のある方はどうぞお試しを。ちなみにシリーズの中で私が一番好きなキャラは、サイズ16のボディを、サイズ10のスパンデックスに押し込んだ元フッカーのルーラ。キングさんの演じるルーラは実に楽しい。


こちらはキングさん



こちらはクリットさん





次はこれ

  • 2016/02/05 10:12
  • Category:
さて、『La petite fille de Monsieur Linh』を読み終えて
次は何にしようかと少し考えたが、あまり迷わずに
『Allah n'est pas obligé』にした。
手持ちの本の中では、これが一番今の気分にぴったりくる感じだったからだ。


ahmadouK.jpg


カラシニコフを抱えた少年の表紙からもわかるとおり
これは12歳の少年が、リベリアで少年兵として殺戮に加わった経験を書いた物語だ。
著者はコートジボワール出身の Ahmadou Kourouma 氏。
私は最初、著者が自身の経験を回想した話かと思ったのだが
1927年生まれの氏は、2003年に亡くなっているので
実話に基づいた創作というわけではないのかもしれない。
まだ最初の20ページくらいしか読めていないので、そのへんはよくわからない。

それでも、少女のころは村で一番きれいな娘だったのに
結婚後、右脚にできたほんの小さな傷が悪化して
とうとう右脚を切断しなくてはならなくなり
主人公の記憶の中では、常に尻でいざって移動していた母親。
そして切断しても傷は完治せず、潰瘍となって痛み続け
小屋の中はいつも、その潰瘍につける煎じ薬の臭いがしていたこと。
数多い孫の中でも主人公を一番かわいがり
砂糖やマンゴーや牛乳などをもらうと、主人公のために取っておいてくれた祖母や
金(きん)の取引で儲け、多くの妻や馬、牛を保有していた祖父の話など
物語はアフリカのにおいに満ちている。

12歳の少年が語る物語だけあって、文章はさほど難しくない。
ペダンチックに洗練された言い回しもない。
その代わり、主人公の母語であるマランケ語の悪態が、しょっちゅう出てくる。
日本語で言うなら、「こん畜生!」とか「糞ったれ!」といった言葉が
段落の最後に、ぽんと添えられている感じ。
最初はその部分も真面目に音読していたのだが
なにしろマランケ語なので、どうも今一つ正しい発音がわからないし
文章に雰囲気を添えてはいるが、内容には直接関係ないし
第一私が音読している目的はフランス語の発音練習なので
この頃ではマランケ語の悪態部分は読んだり読まなかったり、
適当に処理している。
だって練習して上手に発音できるようになっても、使い道がない。
私は普通、あんまり悪態はつかないのだ。
まして西アフリカの部族語では・・・
大声で罵っても、誰も意味がわからん。

それはともかく、同書は200ページ超。
字が細かくて1回に3ページくらいしか進めないので
読み終わるにはしばらくかかりそうだ。
地道に頑張らねば・・・

『La petite fille de Monsieur Linh』

  • 2016/02/01 11:18
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一昨日『La petite fille de Monsieur Linh』を読み終えた。リンさんとバルクさんのためにハッピーエンドを願っていた私なのだが、果たしてあの結末はハッピーエンドなのかどうか。
最初に読み終えた時には、最後に来て突然リンさんの狂気を覗き見せられて、正直、すっと顔から血の気が引く思いだった。その後(音読のためには同じところを何度も読むので)何度も読み返すうちに、バルクさんは最初から知っていたのだし、これはこれでいいのかと、当初の突然狂気の世界に連れて行かれた薄気味の悪さはやや薄らいだが、それでも手放しでハッピーエンドとは言えない薄ら苦い後味が、いまだに澱のように舌に残っている。

(以下、重大なネタバレがありますので、同書をお読みになる予定の方は、以下の記述はお読みにならないよう、強くお勧めいたします)

そうと知って思い返してみれば、最初から何度もそれを暗示する伏線はあったのだ。何が起ころうと、どんな目に会おうと、泣きも喚きもせず、いつもおとなしくいい子でいるサン・ディウ。何歳なのかはっきりしないが、いつもリンさんに抱かれていて、立ちも歩きもしないサン・ディウ。あまつさえ、ある朝、同じ宿舎に住む3人の子供たちが、サン・ディウを手から手へと渡して遊んでいたことがあったのに、それをそばで見ていた子供たちの母親は、止めさせようとはしなかった。それどころか、リンさんが驚いて駆け寄ると「子どものやってることじゃないか。遊びたいだけなんだよ」と言い、サン・ディウをしっかり抱きかかえるリンさんの背に向かって「ふん、老いぼれの気違い・・・」と小さく呟くのだ。私はこの箇所を読んだ時、いくら無教養で意地の悪い女でも、この反応はないんじゃないか?と思ったが、サン・ディウが本物の赤ん坊ではなくただの人形なら、この母親の反応は当然だ。

戦争で家を焼かれ、田畑を焼かれ、爆撃によって息子夫婦を、そしてたぶん本物の孫娘も殺されたリンさんが、つぶらな瞳につややかな黒い髪の人形を孫娘サン・ディウだと思い込み、孫娘はまだここにこうして生きている、この子のために生き続けなくてはと思わなければ、彼自身が生きていけないのはわかる。彼はすでに老齢だ。若者と違い一からやり直す時間はなく、失ったものを取り戻す時間もない。
そんなリンさんが、帰る家も村も国もない。家族も親戚も慣れ親しんだ友達もすべて失い、可愛がっていた孫娘すらもうこの世にはない、とはっきり認識してしまったら、彼を現世に繋ぎ止めるものは何もなくなってしまう。だから彼は人形を孫娘だと思い込み、その人形をあやし、可愛がり、食事を与え、着替えさせ、彼女が育っていくことを、可愛い女の子になり、少女になり、若い女性になっていくことを夢見ることで、かろうじてこの世界と繋がり、精神の均衡を保っているのだ。それはわかる。

が、しかし、それはあくまでリンさんの夢の世界、虚構の世界の話だ。現実にはリンさんが抱いているのは人形で、生きている孫娘ではない。ほかの面ではすべて正常で健康であっても、この1点でリンさんの精神は狂気の世界に滑り落ちる。サン・ディウが人形だとわかった時点で、リンさんは“孫娘を必死に育てている健気なお祖父さん”から“人形を抱いて狂気の世界を彷徨っている老人”にするりと変貌し、読み手は彼をそこに追いやった絶望の深さを思って、その暗さに寒気を覚える。

救いがあるとすれば、それはバルクさんとの友情か。言葉の通じない二人が友人になれるのかと言われれば、言葉が通じても友人になれない人はたくさんいるのだから、言葉が通じないからといって友人になれないとは言えないだろうと言うしかない。相手に好意を持ち、相手のために何かしたいと思う気持ちが友情なら、リンさんとバルクさんの間には、立派に友情が存在している。

それに夢の中では、二人は会話をしているのだ。お互いの夢の中にお互いが登場して同じ夢を見ていたなんて、なんだか『聊斎志異』の中にでもありそうな話だが、考えてみれば著者はフランス人。フランスでも異床同夢の話は、よくあるのだろうか?
ちなみに私がこの箇所を読んだとき雪だるまは、リンさんの夢の記述に丸々1章(12ページ)割かれているのを、「冗長、無駄なページ稼ぎ。私が編集者だったら絶対削る」と言い、私は「そんなことはない。これはリンさんのバルクさんに対する思いを強調し、二人の友情に確かな裏付けを与えるために必要なのだ」と反論したのだが、最後まで読んで、私はやはり私の方が正しかったと思う。たとえ夢であろうと、二人がリンさんの村で会い、いっしょに森を散歩し、息子の嫁が作った手料理に共に舌つづみを打ち、あれこれと会話を交わし、互いにわかり合った場面がなければ、リンさんのバルクさんに対する気持ち、バルクさんのリンさんに対する気持ちの深さに、説得力がなくなってしまう。この12ページは、決して無駄でも冗漫でもない。これは書かれなければならないものだったのだ。なんで雪だるまには、それがわからないのだろう? 私の読み方が下手すぎたからか?


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『男流文学論』

  • 2015/11/04 12:27
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『ナショナリズムとジェンダー』と並行して、『男流文学論』を読んでいるのだけれど、これがどうもよくわからない。上野千鶴子さん、小倉千加子さん、富岡多恵子さん、お三方の鼎談を起こしたものであるから、難解な術語が出て来るわけではないし、持って回ったような文章で書かれているわけでもないのだが、語られている内容がよく理解できないのである。

ひとつには、ここで取り上げられている作家および作品が、ほとんど全部わたしの興味対象外で、したがって昔々読んだことはあっても、ただ“読んだ”というだけで何一つ覚えておらず、よって何を言われても、反論もない代わり同意もない傍観者の立場に終始してしまい、忽然悟入するところがない→つまり「わからない」

もうひとつは、この本では、たとえば吉行淳之介が、島尾敏雄が、いかに“女”をわかっていないか、“女”を自分とは全く違う生物と見ているかが、その文章を通して分析されているが、私はそこで執拗に繰り返される“男”は“女”がわからず、“女”は“男”がわからないということがわからなくて、「ええっ? ある人間が理解できるかできないかは、性別とは関係ないんじゃないの。なんでここで性別でくくるかな?」と、しばらく頭の中を?でいっぱいにしていたのだが、昨日になってようやく、私は大前提の文脈をひとつ見逃していたのだということに気が付いた。

上の“男”は“女”が、“女”は“男”が・・・というのは、性愛の中に置ける男女の相互理解の不可能性の話だったのだ。私はその“性愛(恋愛でもいいが)の中に置ける”という前提をすっぽり見落としていたから、「でも私、雪だるまの考えてることわかるしぃ・・・」とか、かつての上司、同僚、友人の誰彼を思い浮かべて「男だから考えてることがわからないってことはないよなあ」とか考えては首をひねり、どうしてお三方はこうも執拗にこの問題を論じるのだろう? 相手を理解できるか否かは、性別の問題じゃないと思うが・・・などと考えていた。大まぬけ・・・

ただ、では上記の大前提に気が付いたら話が理解できるようになったかというと、それがそうは問屋がおろさず、性愛/恋愛の中に置ける男女の関係というのもまた、私にはよくわからないことのひとつなのだった。男女の関係というのをやらなかったわけではなく、あれこれ色恋の沙汰に励み、ひとのものを盗ったこともあるし、二股かけたこともあるし、なんだかんだ色々やったが、それで♪男と女の間には深くて暗い川がある(←古すぎ)と絶望的に思ったことがあるかというと、これが全然ないのだ。私は感情が浅すぎるか、実は相手を見ていなかったか、あるいはわかっていないということに気づいていなかったのかもしれない。

それに、性愛/恋愛関係の中における相互理解の不可能性というなら、別に異性間でなくても同じではないか。たとえば同性愛者だったら、性愛/恋愛関係において問題なく相手を理解できるかというとそんなことはありそうもなく、同性同士だってやっぱり相手が何を考えているかわからなくてやきもきしていそうだ。
うーん、なんかますますわからなくなってきた。

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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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