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『空気の検閲』

  • 2020/09/01 03:25
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先週、ざざっと飛ばし読みした『空気の検閲』(辻田真佐憲著、光文社新書)、1928年~45年(昭和3年~20年)における帝国日本の検閲状況ということだったので、私は主として治安維持法絡みというか、“社会の安寧秩序を紊す”出版物に対する検閲、何とか検閲の目をかいくぐって書くべきことを書こう、国民に真実を知らしめようとする出版人と、それを抑え込もうとする当局との血みどろの攻防戦みたいなのを予想していたのだが、読んでみたらちょっと違った。

同書は私が予想した「安寧秩序」方面だけでなく、「風俗壊乱」方面の検閲状況にも多くのページを割いていたのである。なにしろのっけの第一章は発禁処分となった淫本からの引用、怪しくも艶っぽい問題箇所の14行に亘る引用で始まっているのだ。薄暗く湿っぽい地下蔵、ガリ版でビラを印刷する活動家、その彼らを捕らえようと目を光らせる特高といったおどろおどろしい場面を想像していた私は、それとは似ても似つかぬ、花も恥じらう乙女たちの甘やかな交歓場面の登場に相当ずっこけた。

まあ、当時検閲は「安寧秩序」と「風俗壊乱」の二本立てだったのだから、当時の状況を書く以上、両方の状況を書かねばならないのはわかるし、当時の政府が何を以て「風俗壊乱」としたのか、知っておくことも重要だとは思うが、この方面の基準というのは真剣に考えれば考えるほど滑稽味が増す嫌いがある。ある文章が猥褻か否か、“徒に劣情を刺激”するか否かなんて、読む人個々人が判断すればいいことで、何も政府が税金使って人を雇い、〇×の判断をさせなくてもいいではないか、と私は思う。それに発禁処分はともかく、当時よく使われた伏字というやつ、中途半端に言葉が隠されている分、余計にいけない。昨今の黒塗り公文書くらい文章が消されていれば、いかに逞しい想像力の持ち主でも“劣情”は湧くまいが(関係ないが、あんなに真っ黒では何が何だかさっぱりわからない。よく恥ずかしげもなく、あんなものを“資料”として出してくるものだ)、当時の伏字はところどころが○○もしくは〓〓(ゲタ)になっているだけだ。よって全体の情況はわかり、しかし肝心カナメのところは消えているという、それこそ“徒に劣情を刺激”する構成となっている。隠すのと見せるのなら、隠す方が刺激的。でも一番刺激的なのは、見えそうで見えないその緊張感というやつである。出版側、もしかしてわかっていてやっていたのか。

そして伏字といえば、同書の第五章に出てくるエピソードがおかしい。1937年7月、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争に発展したことで、新聞報道に対する規制がさらに厳しくなり、1. 軍旗が写っている部隊の写真や軍旗に関する記事、2. 高級将校の大写し写真(肩章が見えなければ可)、3. 司令部、本部等の名称 ―後略― 等々が掲載不可になったのだが、ある部隊長の戦死について以下のような記事が書かれた際、これが問題になった。ちょっと長いが、そのまま引用する。

『加納部隊長は敵弾に中って戦死したが、加納部隊長は死の直前、軍旗をにぎらしてくれといったから、軍旗をにぎらしたら、にっこり笑って死んだ』とその悲壮の状景を表していたが、これを検閲に持っていくと、『軍旗は連隊を示すから○○にせよ』といって消された。ところがこれが新聞に現れると『加納部隊長は死の直前○○をにぎらしてくれといったから、○○をにぎらしたら、にっこり笑って死んだ』となり、ちっとも悲壮の状景が出ず、却って滑稽な場面を想像せしむるようなこともあった。 -引用終わりー

私は品性卑しいので、この○○に色々入れて遊んでしまい、ひとり大笑いした。上に書いた「伏字にする方が猥褻」説そのまま。本来、悲壮であった場面が、伏字にしたことによって却って内容に当たり障りが出てしまっている。記事を書いた記者、困惑したろうなあ。

ついでに言うと上記の報道規制強化、その他の項目には、5.支那兵又は支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与えふる惧れあるもの 6.惨虐なる写真、但し支那兵の惨虐なる行為に関する記事は差支えなし、なんてのもあって、日本側が支那兵、支那人を虐待している(と見える)ような記事/写真は報道してはならないが、支那兵の惨虐行為は報道してよいと、もうはっきり二重基準で、これも爆笑ものである。

そして、この本を読む前に私が想像していた「出版側と当局側の攻防」だが、実態はだいぶ違っていたようだ。そもそも取り締まる当局の側は慢性的に人手不足で、出版されるあらゆる書籍、新聞、雑誌をすべて詳細に検閲することなど、とてもできない。そこで当局側は、「ときに脅し、ときに宥め、出版人や言論人とコミュニケーションを取りながら、彼らを規律・訓練することで、当局の意向を忖度させ、自己規制や自己検閲を行うように誘導した」のだそうだ。アメとムチ作戦である。

たとえば主要新聞社との間に直通電話を引いて、検閲官が編集段階で記事に介入できるようにし、同時に各社の担当者は検閲官と相談しながら記事を組み立てられるようにした。また、主要紙の責任者には「新聞掲載事項許否判定要領」の一部が秘密裏に通知された。「判定要領」の内容は詳細を極めたから、これは大変な便宜で、主要紙はこれを参照することで、発禁処分をさほど恐れずに紙面作りができるようになった。こうした経過をたどるうちに、新聞人はやがて検閲官の指摘を待つまでもなく、みずから問題箇所を排除するようになった、のだそうだ。

考えてみれば、新聞社、出版社だって「売れてなんぼ」の商売である。社会の木鐸としての使命がないとは言えないが、発禁ばかり食らって売れなければ会社は倒産、社員はは路頭に迷う。発禁を減らし、紙面の変更や記事の訂正、削除の手間を減らすため、“引っかからない”紙面づくりを心がけるようになるのは当然だ。ガリ版刷りの地下出版じゃないんだから、当局と“血みどろの抗争”をしている余裕なんかないのである。臍を噛みながら翼賛記事を書いた記者、嘘八百と知りつつ大本営発表を記事にした記者もいたろうが、総体としては当局の意向を忖度して自己規制していた/せざるをえなかった、ということのようだ。逆らった場合の当局による制裁も怖かったろうが、それより何より今も昔も日本は同調圧力の強い国だから。生き残りたかったら、“空気を読む”のは必須なり。
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軽い本

  • 2020/08/18 11:08
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調子が今ひとつの時は小難しい本など読みたくないので、臥せって以来、謎解きとも言えないような軽いミステリやSFばかり手に取っていたのだが、今読んでいるノルマンディー上陸作戦を背景にしたオハナシ、地の文はともかく、登場人物たちの会話の口調が余りに“今”っぽくて、どうも第二次世界大戦、1940年代の連合国軍の兵士たちが喋っているという感じがしない。

もちろん私だって1940年代に生きていたわけではないから、当時の生の会話を知っているわけではないのだが、それにしても1944年当時の若者が「そんなこと言ってないし…」とか、「保護者じゃないし…」とか、「し」をまるで終助詞のように使う平成/令和の日本語、若者言葉で喋っているのは、時代がずれているというか、違和感があっていけない。ここはやはりそれなりに、少々古っぽい昭和の日本語で喋ってもらいたいものだが、当の作家さん自身、物心ついたのが平成なのだろうから、知りもしない昭和の日本語で喋らせろと言う方が無理か。それにそんな日本語で書いたら、古臭くて読者受けしないだろうし。21世紀の作家が、21世紀の読者に向けて書いているのだから、登場人物たちが21世紀の言語で喋っているのは当たり前、ということか。

そういえばしばらく前に見た日本映画『るろうに剣心』の中の会話も、時代小説風の言葉遣いと現代風の言葉遣いとがぐちゃぐちゃに混じり合っていて、変ちくりんだった。「お願いだからどっちかに統一してくれよ」と気持ち悪さに背中をぞわぞわさせながら、見ていたことを覚えている。

まあ、時代小説や時代劇でお馴染みのあの言葉遣い/口調だって後から作られたもので、当時の人たちがあんな風に喋っていたわけではないのだろうが、偽物であってもスタイル(文体)として確立されてはいる。型として出来上がっているものには、それなりの美があるもので。

ところで、軽いものが読みたいと手に取っておいて言うのもなんだが、最近の“軽い”オハナシは文章も内容も本当に軽くて、歯ごたえ全然なし。ラノベではない、普通の小説のはずなのに、文章に厚みがなく、すかすか。あっという間に読めてしまう。

日野成実さんという方が「読みやすく、手軽な文章が21世紀日本の文壇には多い。(中略)簡明な文体は、最低限の情報がすぐさま与えられる」とお書きになっているが、まさにそんな感じ。

あるいは私が手に取った作家が、たまたまそんな人ばかりだったのかもしれないが、21世紀にデビューした作家で、“重厚緻密”と形容したいような文章を書く人には、まだ出会っていない。そしてこのままでいくと、そういう作家はますます希少になりそうだ。
なにしろ文科省は、今後、国語教育の重点は、非実用的な文学ではなく、駐車場の契約書など実用文が読めるような力をつけることに重点を置きたいようだから。

「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育

言語能力というのは思考の基礎となる能力で、言葉がない人は考えることができないのだが、文科省はつまり、考えない人/従順な国民を作りたいんだな。あるいは一握りの考える人と、大多数の考えない人か。

『ベストセラーで読み解く・・・』

  • 2020/06/25 22:08
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隣国とはいえ、今までは米国にはさしたる関心はなかったのだが、covid以来、何かと世間が騒がしくなり、あちこちネットをうろうろして今まで読まなかったサイトを読む機会が増え、そこで行きあたって「面白そう」と思ったのが、下の本。しばらく迷っていたのだが、先日20%offの対象になっていたので、思い切ってDLした。


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『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(渡辺由佳里著・亜紀書房)


本にくっついている紹介をそのままコピペすると;

アメリカ人の欲望や不安や未来は、ベストセラーを見ればわかる。「アメリカで話題になっている本はなんですか?」は、人気レビュアーである著者がビジネスリーダーたちから常に聞かれる質問だ。本の良し悪しというより、話題となる本は、アメリカ人の興味を如実に映す。数々のトランプ本、ミシェル・オバマやヒラリーの回想録、ITビリオネアが抱く宇宙への夢、黒人や先住民から見える別の国アメリカ、ジェンダーの語られ方……
「ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト」の連載を中心に、人気レビュアーが厳選して伝えるアメリカのいま。

私はまだ読み始めたばかりだが、J. D. Vanceの『Hillbilly Elegy』から始まる冒頭の数冊は、どれも「読んでみたい!」と思わせる面白さだ。渡辺さんの読みやすく歯切れのよい文章も、平明でよい。紹介されている本は60冊。全部読もうとしたら、何年かかるかわからない量だが、知らないことを知るのは楽しい。(知らないことを知ることと、何かを作ること以上に楽しいことが、この世にあるだろうか?)

ついでに、hontoとアマゾンに載っている読者のレビューも読んでみた。その中にひとつ、「著者の立場は民主党リベラル派であることに留意して読むべき」というのがあったが、それは確かにそうだと思う。そういう立ち位置で物事を見ていらっしゃることは、渡辺さんのブログやツイートを読めば、明白だ。だから逆に保守派の立ち位置から世界を見ている人たちにとっては、この本は不正確で偏向しており、不快であろうと思う。
が、私は幸か不幸か渡辺さんと同じ立ち位置にいる。この本を“面白い”と思えるのは、そういう共通の立ち位置のせいかもしれない。

それにしても、人は何によって右になったり左になったりするのだろう? 環境? 教育? 経験? 私は小学生の頃からすでに左寄りだったが、うちの両親は決して左ではなかったし(後年、母は私を“アカ”と揶揄ったくらいだ)、小4までに左派となる政治教育を受けたとは思えないし、田舎ののんびりした環境では、左となることを促す経験などなかった(と思う。少なくとも記憶にはない)。環境でも教育でも経験でもないとすると、これはもう生まれついた性格というか嗜好というか、猫より犬が好きとか、辛いものより甘いものが好きといった、好き嫌いレベルの話のようにも思えてくるが、違うだろうか。
ま、それはともかく、この本はお薦め。

電子書籍

  • 2020/05/04 00:11
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紙の本を諦め電子書籍を読むようになってから、本を読むのが随分楽になった。「楽になった」というのは、まず1つめ、活字の大きさを自在に変えられる楽。
おかげで眼鏡や拡大鏡なしでも、無理なく活字を追えるようになった。単行本や平成以降の文庫/新書はまだいいが、昭和の頃の文庫/新書は活字が小さすぎて、今の私には眼鏡をかけても些か読むのがしんどいのだ。
その点、電子書籍なら、活字の大きさは自由自在。図版も拡大できる。もう眉根に皺を寄せ、見ようとすればするほど霞んでいく文字を、絶望的に追いかけなくてもいいのだ。

次、2つめ。読みたい時に読める。
紙の本は実態のあるモノなので、瞬時には移動できない。梱包されてトラックに乗せられ、飛行機/船に乗せられ、またトラックに乗せられと、延々と物理的に移動してくる。日本から北米までは、いやになるほど遠いのだ。もちろん3日ほどで届くようなサービスもあるが、送料+手数料が本そのものより高かったりして、よほど急ぎでない限り、間尺に合わない。だから比較的お手頃なSALなどを選ぶと、ふつうは2~3週間、ひどい時には1か月。2週間くらいならまだしも、1か月もかかった日には、届いた時にはすでに「読みたい!」と思った気持ちも薄れ、興味は次に移っている。実際、「あれ、こんな本、頼んだっけ?」と思ったことすらあった。
本にだって食べ物同様、旬があるのだ。読みたい!と思った時が旬の時。その時に読めてこそ、味わいも深く、頭にも残る。旬どころか賞味期限が切れてから届くのでは、やっぱり味は落ちていて、食べてもおいしくないのだ。
その点、電子書籍なら、ポチって即ダウンロード。その場で読み始められる。これは「食べたい!」と思った瞬間に、ごはんが出てくるようなもの。これで食欲が湧かなかったら、湧かない方がおかしい。

ついでに言えば、送料が要らないのも楽。
たとえSALでも、送料はそれなりにかかる。紙の本を買っていた当時、「日本に住んでいるなら、送料分であと1~2冊買えたのに」と、お支払い明細を眺め、何度恨めしく思ったことか。電子ならそれがゼロ。正味、本の代金だけ。うほほ。

3つめ、薄めの単行本1冊に数百冊入る、持ち運びの楽。
私が使っているタブレットは、カバーをつけて縦25センチ、横16センチ、厚さ1センチ、重さ570グラム。ちょっと大きめの単行本といった体裁だ。これに、本にもよるが数百冊は入る。本棚1つ持ち歩いているようなもので、出かける時など大変便利だ。
また、軽いので寝転がって読む時にも楽。大部の単行本など、重いので仰向けに寝ながら読むなんてことはできないが、タブレットならちょっと枕を高くすれば、胸と片手で楽に支えられる。実は昨日も庭仕事をやりすぎてちょっと疲れたので、ソファに寝転がった姿勢で本を読んでいたが、軽いので片手で支えられるし、ページがめくれたり、ずれたりすることもないし、大変快適だった。

4つめ、品切れのない楽。
すごく人気のある本だったり、あるいは逆に全く人気のない本だったりすると、本屋に行っても実物がないことがある。品切れである。ひどい時にはオンライン書店ですら「品切れ」になっていたりする。(白井聡さんの『武器としての「資本論」』、ただいまア〇ゾン、楽〇で品切れ中) この点、電子書籍は、いったん電子書籍化されれば、品切れということはない。常にそこにあり、いつでも買うことができる。あるいは版元の都合その他で、電子書籍化されたものが絶版になることもないとはいえないが、紙の本に比べればその可能性は低いのではないか。“在庫”を置いておくコストが、紙に比べれば圧倒的に低いのだから。


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と、電子書籍のよい点ばかり並べてきたが、悪いというか、さみしい点もないわけではない。
まず、すべての書籍が電子化されているわけではない。
現在、書籍の電子化率は非常に大雑把に言って10%程度だそうだが、実際、読みたいと思った本が電子では見つからない率は、私個人の経験でも結構高い。
書籍をリフロー型電子書籍(デバイスの画面サイズや文字サイズの変更などに合わせて、テキストやレイアウトが流動的に表示される電子書籍=文字の拡大縮小、行間変更可能。マーカー機能、検索機能あり)にするには、けっこうコストがかかるそうなので、出版社側が「売れる」と思う本しか電子書籍化しないのは仕方のないことなのだろうが、私としては全ての本が電子と紙と両方あればいいのに、と思わずにはいられない。

もっとも、コストの点とは別に、街の本屋を守るために電子書籍化に消極的な人もおられるようで、たとえば東野圭吾さんなどはそのお一人だそうだ。確かに電子書籍ばかり売れるようになれば、街の本屋さんは商売あがったりなわけで(それでなくてもネット書店の台頭で経営苦しいのに)、本屋にいさえすれば幸せだった人間としては、痛し痒しなところはあるのだが、こちらどうせ日本の本屋には行けない身。「ごめんなさい」と思いつつ、電子書籍に手を伸ばしてしまう。また日本に行けることがあったら、ちゃんと街の本屋さんで買うから、それまではお許しを、である。

それに、電子書籍ばかりになると、古本屋さんが成り立たない。だって電子書籍、読み終わっても売ることはできないから。さんざんお世話になった東京堂さん、みやま書店さん、赤坂堂さん、うさぎの本棚さん、にんじん書房さん、写楽堂さん、トマトさん(順不同、思い出し順)等々。中にはもうなくなってしまったところもあるだろうが、学校帰りや、休みの日の古本屋巡りは、楽しかったなあ。電書では、これはできないなあ。

そして古本屋に売れないと同様、人に貸すことも容易ではない。キンドルなどでは2週間、他人に貸せるサービスもあるようだが、私が使っている電子書籍では「貸与」機能はない。タブレットごと貸すことはできるが、それではその間、こちらが困る。面白い本を友人と共有できないのは、ちとさみしい。

そして何よりさみしいのは、本の手触り、紙の手触りを味わえないことである。新刊書をめくる時の、ぱりんとした紙の感触。古本のちょっと湿ったような、やわらかさ。タブレットでは、これが全部消える。
装丁の美しさも、味わえない。表紙の写真はもちろんあるのだが、実際に本を手に取り、表紙の色合いやデザイン、使われた紙の手触り、しおり紐や花布の色を目で見、手でさわって楽しむことはできない。本を机の上に置き、惚れ惚れと眺めるということもできない。本棚に並んだ背表紙を、あれこれ目でたどって楽しむこともできない。
においもない。新刊の紙とインクのにおいも、古本の黴臭いような、あるいは逆に日に焼けて日向臭くなったようなにおいも、何もない。
手触りも、においも、書籍としてのうつくしさも全て消えて、1枚の、つるつるした黒いガラス板(?)に収斂されてしまうのだ。
私が一番寂しく思うのは、これである。1冊の本を手に取る時の、あの手触りとにおい!


「ペスト」みーつけた!

  • 2020/04/09 23:28
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ジムも日本語も散歩会も編み物会もお休みになって以来、水林先生の“Une langue venue d’ailleurs”の音読を再開している。語学的(仏語力不十分)、内容的に(知識及び理解力不十分)わからないところが多くても、私はこの本を読んでいると、心安らぐ。どうしようもなく愚かな人間というものにも、善き部分は確かにあるのだと思うことができ、胃の痛みが和らぐ。そして腹のあたりがじんわり暖くなってくる。だからこそわからなくても無理やり読み続け、また「これを終えたら次は“Mélodie”を読もう」と、同じ水林先生の本を用意していたのだが、昨夜雪だるまに、「次はオハナシの本にしてね」と言われてしまった。どうやらこの本は、彼にとってはあまり面白くないらしい。

まあ確かに、クラシック音楽やルソーは彼の興味範囲から外れているし、一つ一つの文章が長いから、内容を理解して上手に読まないと意味を取り難いのに、私はどう頑張っても日本語風にしかフランス語を発音できない下手っくそな読み手で、それでルソーに関する考察なんかをつっかえつっかえ読んでいるんだから、聞かされる方はたまったものではない、というのはわかる。いくら配偶者だからといって、こういう精神的苦痛を強いるのは、一種のDVかもしれない。その辛さは私にも十分想像できたので、「わかった。もう少しで終わるから、そしたら違う本を読むから」と約束した。

が、考えてみると、今私の手元にはフランス語の新しい本はほとんどない。子ども用の本はいくつかあるが、さすがにもうその手の本は読みたくない。でその旨雪だるまに伝えると「僕が昔読んだケベックの作家の本が、どこかにあるはずだ」と言う。
この家で“どこか”にあるとすれば、それは階段下の物入れである。本棚に並べきれない私と雪だるまの本や、普段は使わないスーツケースや、古毛布などが押し込んである狭い暗がりで、階段下という場所柄、天井がものすごく低いので、私しか出入りできない。(雪だるまも入るだけなら入れるかもしれないが、奴にはしゃがんだままの方向転換とか後退とかができないので、入ったが最後、出て来ることはできないだろう。雪隠詰めならぬ押入れ詰め。ふはははは)

で柔軟体操をして身体を十分ほぐしてから階段下に入り込み、雪だるまの本が入っていると思しき段ボール箱を一つ、引っ張り出してきた。開けてみると出て来るわ、出て来るわ、久しく見なかった黴臭い本がぞーろぞろ。雪だるまが言っていたケベックの作家 Yves Beauchemin の他、ヴェルヌ、バルザック、デュマ父子といった定番古典がとりどりに10冊ちょっとあったし、英語の本や昔雪だるまが勉強したらしい日本語関係の辞書や漢字検定のテキスト、30冊以上の日本語の文庫本まであった。文庫は、太宰とか谷崎とか三島とか、いかにも日本語学習者が手を出しそうな定番古典の他、星新一や新しいところでは村上春樹の「ねじまき鳥」もあって、思わぬところで拾いもの、これでしばらく読む本には不自由しないぞ、とほくほく。
そして最後、底の方にあった白っぽい本をひっくり返してみたら、これがなんとカミュの「ペスト」で、あまりのタイミングのよさに、「いや、これはこれは・・・」と思わず苦笑い。

次に何を読むかまだ決めていないのだが、この「ペスト」でもいいかもな。だって、雪だるまお薦めの Yves Beaucheminは、どれも700ページ近くあるんだもの。私の読書速度だと、何か月かかるか見当がつかない。

空白を埋める

  • 2020/03/05 11:02
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この二十数年間、私は日本の新しい小説をほとんど読まなかった。
理由は、煎じ詰めれば文体が嫌いだったから。日本を出る少し前くらいから、軽くさらりとした、お喋りをそのまま書き綴るような文体が主流になってきて、おまけにそれに合わせたかのように内容もどうでもいいような話が多くなって、金と時間を費やして読む気がしなくなったのだ。私は文章の薄味は、好きではない。

それに、その頃から私は小説というものに少々飽きが来た。恋愛小説は元から嫌いだし、かといって家族間のどろどろも願い下げ。そんなものは実生活だけでたくさんだ、となると、もう読めるものは大して残っていない。それで手に取るのは自然、新書系が多くなり、たまに小説を手に取っても、それは“謎解き”という目的に向かって明快に進んでいくことがわかりきっているミステリ、しかも海外ミステリばかりとなり、日本の小説で手を出すのは、すでに日本にいた頃から読んでいて、この人は大丈夫とわかっている作家だけ。だから1、2の例外を除いて、私は90年代以降に名が出た日本の小説家を全く知らず、文壇マップは80年代末でストップ。それから後はぽっかり空白、真っ白白の白紙だった。

そのほぼ30年分の真っ白白の空白を埋めてみようかという気になったのは、つい最近だ。きっかけは昨年末、久しぶりに読んだミステリでない小説、高殿円(たかどの まどか)さんの『上流階級 富久丸百貨店外商部』と、森見登美彦さんの『夜は短し、歩けよ乙女』が、予想外に面白かったから。「あれ、新しい人たちも結構がんばってるんじゃない」と少々見直し、ならばと他の人も読んでみる気になった。

幸い、同じ時期にクリスマスプレゼントにタブレットを貰って電子書籍が読みやすくなったし、また日本語講座がある程度継続的になったおかげで、わずかとはいえ定期収入が確保された。ことに後者の恩恵は大きい。いくら空白部分を埋めたい(=本を読みたい)と思ったところで、日本語の図書館が手近にない身では、読みたければ買うしかなく、買うには当然資金が要る。貯金を取り崩して小遣いに当てているようでは、たとえ文庫本だろうと欲望と興味の赴くまま、好き勝手に買うことはできないのである。

が、それにしても30年。試しに売れ筋やらお薦めやらで目についた、今まで読んだことのない“新しい人”をリストアップしてみたら、それだけで50人を超えた。もちろんこの50人超の方々は私にとって“新しい”だけで、中には作家としてはすでに中堅、あるいは大御所クラスの方も混じっている。これだけの数だと、まさかいっぺんに全員1冊ずつDLというわけにはいかないので、とりあえず書評とレビューを参考に、立ち読みで感触を確かめながら、少しずつ「これは」という作家を探していこうと思っているが、時々、すごく面白そうなのに電子書籍になっていない本があったりして、世の中なかなかうまいこといかない。
出版業界、ますます厳しくなってきているのは知っているけど、だからこそ電子書籍を増やしておくれよ、そしたらもっと買う人が増えるよ。

赤貧洗うが如し・・・ではなかったのね

  • 2020/02/25 12:01
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私はついこの間まで、作家という職業で食っていけるのは、本屋でその著作がどどーんと平積みになったり、TVドラマや映画になったりするような、ごくごく一部の超有名作家だけ。あとは全員赤貧洗うが如し、とまではいかずとも、生活を支える本業との二足の草鞋だったり、あるいは文筆がメインであっても原稿料や印税だけでは食っていけずコンビニでバイトしたり、工事現場脇で旗を振ったり、傘張りや楊枝削りの内職をして、かろうじて糊口をしのいでいるのだと思っていたのだが、いやはやなんと、作家ってそんな物凄いミリオンセラー連発の超売れっ子でなくても、けっこう食べていける職業だったんですね。いやー、知らなかった。

なんてことを書いているのは、先日、森博嗣さんの『作家の収支』を読んで、「へえー」と感心したから。森さんと言えば『すべてがFになる』から始まるS&Mシリーズとか、瀬在丸紅子さんが活躍するVシリーズが有名だが、誠に申し訳ないことながら、私は森さんの小説は1冊も読んでいない。デビューされたのが1996年で、私はすでに日本にいなかったため、お名前がアンテナに引っかからず、そのまま20余年過ぎてしまったのである。今回読ませていただいた『作家の収支』が面白かったので、そのうち『すべてがFになる』も読ませていただこうとは思っているが、読みたい本は山積みなので、いつになるかはわからない。

それはともかく、この『作家の収支』で森さんは、原稿料や印税率等について、論文の実験データを開示するような淡々とした調子で開示しておられ、同時にそれらを総合したご自身の収入についてもおおよその所を公開して、「超売れっ子以外はみんなびんぼー」という私の先入観&偏見を見事にひっくり返し、「えっ、作家ってそんなに収入があるものだったの?」と仰天させてくださった。(念のため申し添えるが、森さん御自身は“売れない作家”ではない。1996年のデビューから現在まで、単行本、ノベルス、文庫、新書、絵本など、累積部数1400万を超える“売れている作家”である。ただ私は、昭和時代なら松本清張さんとか池波正太郎さん、今現在なら東野圭吾さんとか宮部みゆきさんなど、本を読まない人でもその名を知っているような人たちでないと作家として食っていくことはできず、それ以外の人たちは、いくら読書人の間では有名で高く評価されていても、みんな食うや食わず。爪に火を点しながら、しかし胸のうちに熱く燃える“書きたい、書かねばならぬ!”という情熱に突き動かされて創作に励んでいらっしゃるのだと誤解していたので、森さんの挙げる数字にびっくりしたということである)

そもそも基本の原稿料からして、私がぼんやり考えていたものより数倍高かった。たとえば新聞の連載小説の原稿料。地方紙か全国紙かで多少の差はあるが1回分が約5万円だそうで、年に数回休みの日はあるものの、ほぼ毎日の連載なので5万×360日で年1800万円。森さんご自身は、お話はあったもののお断りになったそうであるが、1800万といえば並みのサラリーマンの年収の3~4倍である。赤貧どころの話ではない。

もっとも新聞への連載の話など売れっ子の作家にしか来ないから、他のもう少しありそうな話、たとえば小説雑誌への作品の掲載。こうした場合、原稿料は原稿用紙1枚4000円~6000円だそうで、よって仮に50枚の短編が掲載されれば原稿料は20万円~30万円。つまり短編1本雑誌に載れば、ふつうに1か月、倹しく頑張れば2か月は食える計算になる。

そしてその掲載された小説が単行本になれば、印税が入って来る。印税は本の定価の10~12%で、印刷部数に応じて支払われる。この“印刷部数に応じて”というのがミソで、つまり本が売れても売れなくても、作家の所には印税が入って来るのである。私はこれも知らなかった。印税というのは売れた部数に応じて支払われるもので、したがって1冊も売れなければ1円も貰えないのだと思っていたのである。(現在、電子書籍の印税はこの“売り上げに応じて”方式だそうである。電子書籍は“印刷”しないのだから、当然といえば当然)
もっとも作家としては「一冊も売れなかったけど、お金は入ってきた!」などと喜んでいるわけにはいかない。売れなければ次作の依頼は来ないから、そこでチョン。初版→絶版の連続では、食っていけない。廃業するしかない。

その他、講演料はいくらかとか、テレビドラマやアニメになった時のロイヤリティの額とか、試験問題になった時の原稿料とか、「へえ、そういう収入もあるんだ」と色々新しい知識が得られて、この『作家の収支』、大変に読んで楽しい本だった。

それに文字を読めるようになってこの方、ずっとずっと私に何物にも代えがたい喜びを与え続けてくれた本というものを作ってくれている作家の方々の収入が、その労苦に見合う額であると知って嬉しくもあった。こちらは別のショーバイで充分食っていて、その余暇に本というもので大変楽しい思いをさせてもらっているのに、それを創作した方々が食うや食わずでは、申し訳なさに身が縮むというものだ。ミリオンセラー連発の超売れっ子作家でなくとも、「作家は、そこそこ本が売れれば商売としてやっていける(森さんご自身のことば)」と知って、めでたし、めでたし。(と言いつつ、今ふと気が付いたのだが、私、本は大部分中古で買っていないか? 電子書籍も割引セールばかり利用してるし、これでは私、作家さんの収入にほとんど貢献していないではないか。わ、えらいことに気づいてしまった・・・)


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小松左京

  • 2020/01/29 11:42
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一昨日だったか、突然脳裡に「ゴルディアスの結び目」という言葉が現れ、それとともに生頼範義さんによる数多の文庫版表紙も現れて、頭の中が小松左京一色になった。

以来、hontoの小松左京棚を行ったり来たり、行ったり来たり、暇さえあればうろうろして、あちらを立ち読み、こちらをつまみ食い、どれとどれを買ったら一番楽しい思いができるか、思案を重ねている。

そもそも、大外れもいいところだった例の宝くじに当たる!という幸運が降って涌いてさえいれば、プリンタートナー3セットをポチると同時に、「小松左京全集完全版全50巻」(これは電子ではなく紙、1冊約5000円、50巻で25万円)をポチればOK、あれこれちまちまと考える必要などない身であったのだが、如何せん、女神様はこのケベックの田舎町には御光臨遊ばされなかったので、私は乏しい懐を鑑みつつ、倹しく文庫本2、3冊を選ぶといういじましい行動に出ているのである。

それにつけても悔やまれるのは、実家処分の際、押入れやら本棚やらに分散して置き放しになっていた20冊を超える小松左京を、そのままにしてきてしまったこと。
当時、実家には妹のと合わせ1000冊以上の本が置いたままになっており持ち帰ろうとあれこれ選び始めたが最後、収拾がつかなくなることは分かり切っていたので、いっそ潔く全部諦めたのだが、そしてそれはそれでよかったのだと今でも思ってはいるのだが、今この瞬間だけは「ゴルディアスの結び目」とあと2、3の本だけは、「持ち帰ればよかったなあ」と、ちょっと口惜しい気持ちになっている。

なにしろ今私の手元にある小松左京は「果しなき流れの果に」だけなのだ。これだけはさすがに常に手元に置いてきた。わたしはこれを小松左京の最高傑作だと思っていて、10代後半から現在まで、何度読み返したかわからない。スケールの壮大さ、構成の緻密さ+筆力。小松左京ならではの一冊で、たぶん死ぬまで読み返し続けるだろうと思う。視力がさらに落ちて文庫の活字が読めなくなったら、電子で買い直す。

おっと、電子で思い出した。ここで私信。
「Ameiさま
honto ヴューアの件、おっしゃる通りでございました。アプリさえインストールされていれば、その後はVPN不要でした。初回DL できなかったのは、そもそもタブレットがネットワークに接続されていなかったからで、それというのもPCの場合、起動と同時に自動的にネットワークに接続しますので、タブレットも同様と思い込み、“wi-fi接続”をタップしていなかったのであります。これではDLできるわけがありませぬ。お粗末。
というわけで現在はカナダIPのまま、支障なくsync/DLできております。親切なご教示、誠にありがとうございました」

と、ここまで書いて1日経った。
結局「小松左京短編集 東浩紀セレクション」を買った。これには「ゴルディアスの結び目」が入っているのだ。「結晶星団」も入っているし。
しかしこうして読み始めてみると、懐かしさと面白さで、また一層あれこれ読みたくなって困る。「牙の時代」とか「青ひげと鬼」とかも面白かったなあ。あの早熟な天才児が出てくる短編の題は何だったろう?

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ぶつぶつ

  • 2019/10/13 10:30
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ちと忙しくなってきたので、思いつくままにぶつぶつと・・・

夏に作ったクマ4、キツネ2、アライグマ2の編みぐるみ、もともとはマダムFが友人J嬢のために注文したものだったのだが、マダムFが突然亡くなったあとJ嬢から連絡がなかったので、アルバトロスの販売担当は9月末のバザーでそれらを売ってしまった。そしたら今になってJ嬢から問い合わせがあって、とどのつまり、「はい、もう1回!」

幸い注文はクマ、キツネ、アライグマ各2に減ったが、それでも6個。12月1日のバザーに向けての売り物も編まねばならんし、授業の準備はあるし、間に合うんかいな、私?

****************

金、土と何の予定もなく丸々2日休みになると、ゆっくり出来てうれしい。おかげで昨日は庭仕事ができたし、今朝はケーキ2つ焼けたし、動画聞きながら昨日、今日でクマ1つ仕上がったし、帽子編み始められたし、DLした本もぼちぼち読めたし、いやー、何の予定もない休みの日っていいですねえ。

DLしたのは『アメリカ政治講義』(西山隆行著、ちくま新書)。今、honto で筑摩の本が安いのだ。あれこれ読みたい本は多いのだが、欲張ってDLしても読める量は限られているので、とりあえずまず1冊。
“講義”というだけあって語り口調で読みやすいし、諸事を噛み砕き、わかりやすく説明して下さっているので、私のようなお素人様にはうってつけ。同じような形態で、どなたかカナダ政治について書いて下さらないかしらん。

ついでに(?)神道についても読みたいのだが、1冊目としてはやはり『神道とは何か 神と仏の日本史』(伊藤聡著、中公新書)あたりか。しかしこれは紙しかない。ちくまの『神道、儒教、仏教』なら電子もあるが、内容がちょっと私の知りたいことからずれてる感じだし・・・。
神道系の学校へ行って、神道概説は必修だったにもかかわらず、私は神道に関しては豆粒くらいの知識しかないのであった。関心がないことは、いくら教わってもアタマ素通り。

そしてそういう情報収集系とは別に、松井今朝子さんの『仲蔵狂乱』も気になっている。落語の『中村仲蔵』は私の好きな演目の一つで、その仲蔵を松井さんが書かれたのなら、ぜひぜひ読みたいのだが、時間が、予定が、体力が・・・
いくら暇はつくるもの、と言ったって、1日は24時間。作れるヒマにも限度がある。無理するとすぐ体調不良になるし、年寄りはほんとメインテナンスに手間ヒマがかかっていけない。

本が来た

  • 2019/09/14 22:24
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「本が来ない」と書いた翌日だったろうか、その心待ちにしていた本が届いた。
その日は午後、授業がある日だったので、その場で開けて読み始めるというわけにはいかなかったが、授業が終わった後、「いやあ、やっと来たねえ」と顔をほころばせながら丁寧に包みを開け、さっそく中の1冊、「f 植物園の巣穴」を読み始めた。

大仰なところのない静かな語り口と、ちょっと古めかしい言葉遣いがしっとりと気持ちよく、いったいいつの時代の話なのか、今読んだところまででは判然としないが、どう考えても平成やまして令和の話とは思えず、大正か昭和初期、人々がまだふつうに着物を着て生活し、家に障子や火鉢があり、雨が降るとぬかるむ道があった時代を幻燈で見せてもらっているような、不思議な心持ちがする。

こういう本は是非とも、装丁のよい単行本で紙の手触りを指に感じながら少しずつ少しずつ読んでいきたいものだが、重さの関係で私が購入したのは文庫版。紙の感触を楽しむという優雅もできかねるので、せめてものことに緑の枝の写真を配したカバーをかけた。和紙の手触りには遠く及ばないが、このあたりには洋紙しかないのだから仕方がない。

それにしても今期は授業が1コマ増えて3コマ、時々4コマになりそうで、はたしてお楽しみのための読書などしている暇があるのかどうか。しかし日本語を維持するためには、質のいい日本語を読み続けることは必須で、資料としての読書だけでなく、お楽しみのための読書も必要なのだ。ああ思うままに読み続けられる視力と時間が欲しい。

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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、米朝、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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