それではまた来年

  • 2005/12/31 22:25
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大晦日の夜だが、いつもの土曜の夜と同じように過ぎていく。
人が集まるところでは、夜通しパーティをしていたり、カウントダウンに華やいでいたりするのだろうが、この周りには何もない。
それでも12時には、港の船が一斉に汽笛を鳴らしたりするのだろうか。

まだ10時前だが“See you tomorrow morning !”と言って、夫はすでにベッドに行ってしまった。彼は今日も仕事だったし、残業でもあったから、とても夜っぴて起きている元気はないのだろう。

さっきまでは、William H. Macyの“The Wool Cap”を見ていた。期待して見始めたわけではなかったのだが、一言もしゃべらないMacy(事故で喋れなくなった役なのだから当然だが)の演技が秀逸で、引き込まれて最後まで見た。
別にすごくお金をかけて作られた映画ではないだろうし、超有名なスターが出ているわけでもないし、批評で絶賛されるような映画でもないだろうが、ちょっと通りすがりの小料理屋に入ってみたら、意外にもしっかりした板前がいて、手を抜かずに作られた定番料理がさっと出てきたような映画。食べた客は予想外の喜びにちょっと得した気分で、満足して店を出る。
3つ星レストランの味は素晴らしいだろうし、素晴らしくて当たり前だが、いつもいつもそんなものばかり食べてはいられない。日常的には星ひとつか、星なしくらいの方がありがたい。

というわけで、今年もあと1時間半(日本なら半時間)で終わりです。
どうぞみなさま、よいお年をお迎えくださいますように。
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ご当地の聖油

  • 2005/12/30 21:57
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■ 聖書や西洋のオハナシを読んでいると、ときどき「聖油」というものが出てくる。その役目(?)の違いによって厳密には3種類ほどあるようで、洗礼や堅信、叙階や病者の終油などに使用され、霊肉を清めたり、悪魔の力を駆逐したり、成聖の恩恵を増したりできるのだそうである。そう聞くと、なんだか霊妙な香りのする、特別な油のような気がするが、実のところ油そのものはオリーブ油だったり、オリーブ油にバルサム香を加えたものだったりで、別段すごく貴重な精油とかが使われた特別な油ではないらしい。ありがたい働きはひとえに司教様の聖別により聖油に伝わった聖霊様(つまりは神様?)のお力によるものなので、油そのものの出自はあんまり重要ではないのだろう。

■ そんなことを思い出したのも、ご当地の聖油「白花油」が、5日目のアタマイタに対し、特筆すべき働きを見せたからである。昨日までも何度か「白花油ぬろうかなあ」と思ってはいたのだが、なにしろ痛かったのが右目眼底とつながった頭の中だったので、塗ろうにも塗れなかったのである。しかし今日は痛みが首筋に大きく移動していたので、「これなら塗れるぜ」と勇んで朝からぴたぴた首筋に塗ってみた。するとああら、不思議。頭の痛みと首の重さはすうっと軽くなり、快適とまではいかないまでも、何とか目をあけて仕事ができるまでになったのである。偉大なるかな、白花油。
成分表を見る限り、中にはいっているのは冬緑油(主成分サリチル酸メチル)、薄荷油、樟脳、ラベンダーオイルなどで、要するにスースー成分満載。このスースーが頭痛を和らげてくれる。
私が普段使っているのは、ご当地で一番手に入りやすい「和興白花油」の清香系列(伝統系列より香りが軽い)だが、この手のスースーするオイルは中華圏では数え切れないほどの種類を売っていて、近所の小さい薬屋でさえ軽く十種類くらいはある。名前もパッケージもいろいろだが、スースーだけは共通のようす。そういえば十年以上前、ホーチミンからハノイへ向かう列車の中で発熱した時、同じコンパートメント(と呼べるような立派な車両ではなかったが、他にどう呼ぶのかわからない)に乗り合わせたベトナム人のお兄さんがこめかみに塗ってくれたのも、同じようにスースーする緑色のオイルだった。まるで手作りのようないびつな瓶とはげたようなラベルが、当時のベトナムの工業水準を物語っていて、塗ってもらいながらも半分心配だったことを思い出す。

老後の楽しみ

  • 2005/12/29 17:25
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■ 頭痛4日目。もういい加減に勘弁してほしいのだが、頭痛の神様はなかなか去ってくれない。寝ている間も、神様は頭の隅でごおん、ごおん、と鐘を撞いている。働き者である。神様だから働き者なのか、生来撞くのが好きなのか。除夜の鐘並みに、百八つほど撞いたらひと休み、というわけにはいかないのだろうか。

■ ホリデイ・シーズンのせいか、最近ジムをさぼりがち。昨日もふたりさぼってDVDを見てしまった。演目は「隠し剣 鬼の爪」。今さらなんで?と思われるかもしれないが、先日夫が安いVCDを見つけて買ってきたのである。最初音声の調整を誤り、永瀬正敏さんと小澤征悦さんが、ちょんまげ、袴姿なのに流暢な広東語で会話していて「ひゃあ、これは一体どこの話だ?」と仰天したが、その後片方の音声を消したところ、ちゃあんと由緒正しい庄内弁になった。
昔ある人が、ニューヨークで「子連れ狼」を見たら、ちょんまげ姿の萬屋錦之介が流暢な英語を喋っていてびっくりした、と書いていたが、同じくちょんまげの海坂藩の平侍がのっけから広東語を喋っているのも、ヘンである。いくら吹き替えが便利でも、ものには限度というものがある。着物着てるなら日本語喋って欲しいし、満服着ているなら中国語喋って欲しい。その言語でなければ出ないリズム、雰囲気というのがあるのである。そりゃもちろん、あらゆる外国語に通じることなど不可能だから、内容を楽しむためには通詞が必要だが、そのためには字幕という便利なものがあるではないか。ことに今は記憶容量豊富なDVDというものがあって、コストはかかるにせよ、何ヶ国語でも字幕を入れられる。吹き替えより口の動きも自然だし、ずっといいと思うのは私だけだろうか。私は断然字幕派である。たまに日本のテレビで吹き替えの洋画など見ると、その余りに不自然な台詞回しに背中がざわざわし、3分と見られずにチャンネルを変えることになる。これでも昔は「〇曜洋画劇場」の大ファンで、吹き替えを不自然とも思わずに、夜な夜な父と共にテレビの前に座り込んでいたものだったが、月日は経った。今ではメガネをかけてテレビの前に座り込む、字幕おばさんである。飛行機の中でも原語の音声を聞きながら、中国語の字幕を読んでいる。時々追いつけなくて、あるいは意味がわからなくて???なこともあるが、英語の字幕よりは早く読める。表意文字である漢字はありがたい。

■ 話がずれたが、「隠し剣 鬼の爪」はなかなか結構であった。私はこういうほろりとする時代劇が好きである。私が時代小説の面白さに目覚めたのは、中国留学時代、読むものが何もなくなって寮の図書室に置かれていた剣豪小説に手を出したのが始まりだが、読んでみるとこれがなかなか面白く、文体的にもおしゃべり口調の現代小説よりは、よほど私の嗜好に合う。なのでその後、ご当地の古本屋で「鬼平犯科帳」十数冊を見つけたときには、驚喜した。「御宿かわせみ」なども好きだが、最近は老後の楽しみがなくなっては困ると、見かけてもなるべく買わないようにしている。「御宿かわせみ」といえば、何度がテレビドラマ化されているが、私はなんと言っても真野響子・小野寺昭さん組が好きである。真野さんのしっとりと色っぽい美貌は、まさに眼福。それに較べ、高島礼子さんの「るい」は表情が2パターンしかなく(失礼)、どうも今ひとつ。「隠し剣 鬼の爪」では凄みのある演技で大変よかったのに、残念なことである。「るい」は控えめすぎて、彼女に向かないのだろうか。

アタマイタ

  • 2005/12/28 17:03
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■ クリスマス休暇が終わり、今日からまた普通に仕事。日本は今日で御用納めの会社も多いと思うけど、ご当地は年末気分もなく、ただの日常生活に戻った感じ。中国文化圏の祝祭日といえば、やはり農暦(旧暦)準拠。お正月も清明節も、端午の節句も、中秋節も重陽の節句も、みーんな旧暦。ご当地のほんとのお正月は、来月29日にやってくる。うーん、また利是(お年玉)用意しなくては。懐に痛き赤い袋かな。 − といっても“心ばかり”の利是の相場は20元(約300円)、日頃お世話になっている人のお子様への相場は100−200元(1500円から3000円)と、日本のそれよりはだいぶ低いのだけど。

■ 四連休の後半は、偏頭痛で終わってしまった。ものの本によると、週末でリラックスするとやってくる“週末頭痛”というのがあるそうだけど、それってあんまりな気がする。仕事の時頭が痛いのもいやなものだけど、本来いろんな楽しいことをやれるはずだったお休みの日が、頭痛のために使い物にならず、虚しく暮れていくのは実際以上に損した気分になる。昨日の午後はあたまがんがんで、ソファに寝転がってDVD見るのさえ苦しかった。そういう時は目の奥も重く、両方の眉頭を押すと「おお」とうめけるほど痛い。ここは何かのツボなのだろうか。でも、うめきながらここを押しても別に頭痛が軽くなったりはせず、ただけろけろと気持ち悪さが増すだけである。我慢してしばらく押してみたのは、とんだ徒労であった。

■ それにしても私の頭痛は、いったいどこからやってくるのだろう? 高血圧のせいか、ますますひどくなる乱視のせいか、PC作業の過多による肩こり(本人自覚なし)のせいか。わからん。わからんが、とにかく頭ががんがんし、ついでに気持ちも悪い。そしてエキセドリンもイブもアスピリンもアヴリルも何にも効かない。
世の偉人にも頭痛もちは多い。しかし芥川もニーチェもモーツァルトもシモーヌ・ヴェイユも、みーんな頭痛もちだと思ったところで、慰めにはならぬ。偉人と共通なのがアタマイタだけでは、自慢にもならぬではないか。



この助六さんが締めているのも、頭痛鉢巻とのもっぱらの評判。もっとも彼の場合は二日酔いから来る頭痛だったらしいけど

■そんなわけで、連休中はみなさまのウェブサイト回りさえ、ろくにできなかった。自分のページのアップデイトなど、言わずもがな。またアタマイタがなくなりましたら、少しはまじめに更新いたすつもりでございますが、内容につきましては保証の限りではございません。(って、ふだん読んだ下さってる方はよくご存知ですよね。わざわざ断るまでもないな。失礼しました)

休日の過ぎるのの 何と早きことよ

  • 2005/12/26 22:28
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24日はそうじとクリスマスの飾り付けで1日が終わり、
25日は市場への買出しと来客に備えての食事つくり、および食事会で終わり、今日こそはゆっくりできると思ったら、朝からおなじみの偏頭痛が始まって、鎮痛剤を飲んでも効かない。少し眠ればよくなるかもと思って、午後ベッドでうとうとしていたら、階下の住人が電気ドリルでががががーっと、壁に穴を穿ち始め、びっくりして目が覚めてしまった。
なぜ? なぜ、お休みに日にするの?

まあ、休みの日にしかできないのは、わたしもわかっているけれど…

ひとつお休みらしかったのは、全長6時間余にのぼる“The Best of Youth”(邦題「輝ける青春」)を全部通しで見られたこと。邦題だけ聞くと「ちょっと勘弁してくださいよ」と言う感じのくさい青春ドラマみたいだが、実のところは60年代後半から現在までの、イタリアのある家族の40年間のお話をニコラとマテオという二人の兄弟を中心に描いたもの。西ヨーロッパに広がっていた68年の学生運動の波も出てくるし、70年代から80年代にかけてイタリアを揺るがした「赤い旅団」の話も出てくるし、家族の歴史はそのまま戦後イタリアの歴史でもあるわけだけれど、それを“家族”を軸に淡々と描いている。過剰なところのない表現は返って胸に迫る。

しかし、ニュースを聞いて暗澹たる思いを抱き、“オハナシ”を見て「人間も捨てたものじゃないかも」なんて、これって逆であるべきでは…

もようがえ

  • 2005/12/23 17:26
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■ ずいぶん長い間、青空に緑の葉っぱの画像をテンプレートに使っていて、それはそれで見るたびに明るい気分になれてよかったのだが、12月も間もなく終わろうという今日この頃、いくら何でも“季節感ずれすぎ”になってきたので、ちょっと取り替えてみた。トップの画像と、左側の小さい画像はそれぞれ提供者が違うのだが、不思議と同じような色あい、同じような雰囲気で、まるでセットみたい。ちなみに大きい方は 4 Leaf Clover さん、小さい方は Four seasons さんご提供。多謝晒。

■ この次、日本に行くのはどうやら漫画・アニメ屋さんらしい。今日50ページくらいある資料をもらった。古代中国風の衣装に身を包んだ、惚れ惚れするほど凛々しい戦士(と思われる)や美女が、資料のあちこちで飛翔している。「翻訳にも力が入るぜ」というのは冗談だが、文字ばっかりの資料よりは人目をひくかも。
しかしこの会社、株価は全然飛翔していない。ま、株価がカンフー映画のヒーロー並みに飛翔し始めたら、その方がよっぽど心配だが…。

■ ご当地は明日から四連休。うう、うれしい。(涙)

コート買って身体は暖かく、懐は寒く

  • 2005/12/22 17:42
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■ 来月の日本出張が決まったので、買おうかどうしようか迷っていたコートを買った。何しろ前回の日本は寒かったし、ニュースによれば今も日本は大雪らしい。備えあれば憂いなしである。懐が寒いのも切ないものがあるが、身体が寒いのは私の場合死活問題である。

■ ついでに柔らかい皮のローヒールの靴も買った。たとえ5センチ程度のヒールでも、1週間穿き続けると、足は痛くなるのだと前回骨身に染みてわかったので。ほんとに普段ご愛用のロックポートのワークブーツや、スポーツシューズで出張に行けるといいのだが、どうも今ひとつスーツと合わないのだ。ま、一応外見もプレゼンのうちだし、変ちくりんな服装でも人々の意識に上らないほど、圧倒的迫力のプレゼンができるわけでもないし、才が人並みなら服装も人並みにするしかあるまい。

■ クリスマスで連休になるので、上司殿は家族全員で日本にスキーにでかけた。しかしよく聞いてみると、スキーをしたいのは上司殿ひとりだけで、奥方様や子どもたちはスキーには興味はないのだという。しかし上司殿が行きたがるので、みんなぞろぞろ新潟まで行くのだそうで、なんだか上司殿の家での亭主関白ぶりが垣間見えるようで、同僚と笑ってしまった。全然滑れないし、興味もないのに、雪の中に連れて行かれるご家族はちょっとかわいそうである。

ご利用可能となりました

  • 2005/12/21 15:48
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いや、めでたい。
例の「ご当地ではご利用になれません」のDVDレコーダー、昨晩めでたくご利用可能となった。

月曜、夫が買った店にでかけて情況を説明し、翌日技術者を派遣(?)してくれることになった。約束した時間が6時半なので、どうせ来るのは7時半か8時頃だろうと踏んでいたら、なんと7時には現れ、ちょうど食事にしようと皿に盛り付けていたところだったので大いにあわてた。
技術者氏はおっさんではなく若い男の子で「んなの、楽勝さあ」てなノリで仕事にかかったのだが、豈はからんや、10分経っても、20分経っても「ご当地では…」のメッセージは消えず、男の子は持てる知識を総動員して何だかんだとさまざまな方法を試し、何度も携帯で同僚に聞き、聞いた知識をまた試し、と悪戦苦闘を続けた。
私は見ていると疲れるので、その間洗濯物を干したり、パソコンでゲームをしたりしながら「お腹がすいたあ」とつぶやいていた。夫もずっと見ているのに疲れたらしく、40分ほど経過したあたりで「そんなに簡単にはいかないみたい…」とポケットに手を突っ込み、背中を丸めてさみしそうに私の部屋に現れたが、私が「他のに換えた方が簡単なんじゃないの」と言うと、それはいやだったらしく「うぅ」とうめきながら、また居間に戻っていった。

そしてまた20分経過。居間の方で歓声が上がり、夫がいそいそと私の部屋にやってきて「できた!」と言う。行ってみると、テレビは普通の画面になり、上部にプログラム用のアイコンが並んでいて、男の子はそれを見ながらすでにコードを巻き取ったりして、後片付け態勢に入っている。夫は「コードが問題だったのね。☆☆と××と△△と3本のコードがあって、そのうち××はDVDを見るには画面がクリアでいいんだけど、××と△△はここではうまく機能しなくて、だから○○を経由せずに、直接☆☆とコネクトしないと、録画機能は使えなくて、云々」と英語で説明してくれたのだけど、名称がよくわからなかったので、ここに再現はできない。とにかく「それがわかるまでに、ずいぶんかかってしまった」ということと「今はだいじょうぶ」ということだけは了解したので、それ以上の理解は放棄した。何はともあれ、無事録画できるようになったということは、部屋を片付けてもいいということで、私にとってはそっちの方が重大問題だったのだ。

私と夫は夜8時まで頑張ってくれた男の子に心から「どうもありがとう」と言い、100元の心づけを渡そうとしたのだが、男の子は受け取ろうとしない。「ほんとにどうぞ。こんな遅くまで頑張ってくれたのだから」と言っても「戴かないことになっていますから」と、にこにこしながらも断る。ご当地に暮らして10年、心づけを受け取らない男の子は初めてである。歳も若そうだし、第一、家電量販店の修理技術者がそれほど高額のお給料を貰っているとは思えないので、ちょっと心が痛んだが、あまり押し問答をするのも何なので、途中で引き下がり、ありがたく男の子を送り出した。

というわけで居間に散乱していた物は、すべて収まるべきところに収まり、やっと元の状態に戻った。後は掃除機をかけて、ぞうきんがけをすれば、何とか人が来てもだいじょうぶだ。クリスマスの飾りつけ? うーん、間に合ったらね。


恋文

  • 2005/12/20 15:59
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雪見さんのところに遊びに行って、またまた好きな書き手を見つけてしまった。もう今日はそれだけでしあわせで、全身、はらはらと散る桜のはなびらに染まっているような気分。

ほんとうに、まりあさんとか、かおりさんとか、sakuraiさんのような文章に接するたびに、こんな透明感のある、繊細でうつくしい文章が書けたらどんなにいいだろう、どんなにすてきだろうと思う。
わたしには逆立ちしても、こういう文章は書けないことがわかっているからである。
書き手の気持ちのやさしさが透けて見えるような、白い花のような文章。
その精緻に組み合わされ、編み上げられたことばのひとつひとつ。

文章力だけの問題ではないのだ。その文章のもとにある感性の問題なのだ。
私はこういうふうには感じられないのだから、こういうふうに書けるはずがないのである。
文章はからだの中から生まれるもので、無理をして人のまねをして、からだの中にないものを書こうとしても、にせもの、まがいものにしかならない。

だから私は私の文章を書くしかないのだが、私が書ける文章は私のキャラクターそのまんま。間違っても“繊細”とか“静謐”とか“透明”とかの形容動詞に出番が来ることはない。まったくしみじみ「とほほほ…」である。

ついでに言えば、すてきな文章を書く人のページは、視覚的にもすてきだ。
ページ全体の佇まいが、書き手の感性を伝えて、「あ、これは」と
私のアンテナを刺激する。
sakuraiさんの桜の花の写真や、あたたかそうなウール(カシミヤ?)のマフラーの写真、雪見さんの猫たちの写真のレイアウトのしかた、Mistralさんの落ち葉の写真の色あい、そしてそうした写真とフォントとの調和、余白の取り方。
静かな淡彩の水彩画のような世界が、私は好きである。

うろうろと本屋にでかけ −2

  • 2005/12/19 17:01
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そういえば今回の日本では、あまり本屋に行かなかった。
何しろ東京に着いたその夜に、ホテルの斜向かいの新橋文教堂で、宮部みゆきさんの文庫新刊「模倣犯 上・中・下」3冊と、水村美苗さんの文庫版「本格小説 上・下」を見つけ、迷わず即刻お買い上げしたので、「これで10日間はだいじょうぶ」と、初日から充分満足してしまい、“本屋に行きたい病”が起こらなかったのである。
ことにその夜はぬるい湯につかりながら、60年代の終わりから70年代初めのニューヨーク郊外、ロングアイランドの美苗ちゃん(本の中の)の世界に入り込んでしまい、大変にノスタルジックな気分になってしまって、翌日から怪しい薬屋さんの紹介をしなければならないのが、ほとほといやになった。こういう本は、つまらない仕事などにじゃまされず、よい香りの紅茶を傍らに、ゆっくりとページを繰りたいものである。そばに猫などいれば、完璧。

しかし仕事で出張している身では、「急に頭痛が…」とか「上司、すみませんがちょっとぎっくり腰になりました」とか言ってフケるわけにも行かず、浸りこんでいる世界と現実とのギャップに悩みながらも、3日間は仕事をした。
でその後は実家に行って寒さに震え、でも免許の書換に行った交通安全センターのそばにブックオフ系の古本屋があるのを見つけて、そこの100円コーナーにあった「クッキングママ」シリーズを3冊買い、「らっきー」と東京に戻った。

東京ではまた銀座に出かけ、いつものとおり伊東屋 → 教文館 → 山野楽器 というコースをこなし、教文館ではこの前見た時から気になっていたターシャ・テューダーさんの本を買おうかどうしようか迷った末、「今ちょっと荷物が重いから(仕事で泊まっていたホテルDから荷物を引き取り、自腹で泊まるホテルVへ移動の途中だった)、あとでホテルVそばの本屋で買おう。確か水天宮さんの角の所にPという本屋があったはず」と考えたのだったが、これは大きな大きな判断ミスだった。
なぜなら、ホテルVのそばのPには、ターシャ・テューダーさんの本はそれこそ1冊も置いてなかったのである! ないとなると、何としても欲しくなるのが人情。日が落ちてますます寒さが募る夕刻、私はハイヒールの履きすぎで痛む足を引き摺りながら、またまた人形町から銀座に戻ったのである。そしてどれにしようかさんざん迷った末に「ターシャ・テューダーの世界」を買った。「ガーデン」も「手作りの世界」もみんな欲しかったのだけど、さすがにそんなには買えない。第一重くて持ち帰れない。

今彼女の本は、表紙がよく見えるように、部屋の机の上にたてかけてある。私も彼女のように暮らせたらとは思うけれど、そうするにはまず両親から野菜の作り方を習い、やぎの乳のしぼり方を習い、身体のサーモスタットを10度に切り替える必要がありそうである。


どうして、こうなる?

  • 2005/12/18 21:19
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きのう実家の乱雑さを、ああだこうだとクサした罰が当たったのか何だかしらないが、今は我が居間が中国語で言うところの乱七八糟、ぐっちゃぐちゃの、ごっちゃごちゃのめっちゃくちゃである。

先週末、私がいない間に我が夫君は、念願のDVD・HDDレコーダーを買い、今週末テレビと接続して、新しいDVDで映画を見るのを楽しみにしていたのだが、テレビと接続するためには、テレビキャビネットの後ろに回りこまねばならぬ。ところが我が家のテレビキャビネットは、幅も高さも2m以上ある紅木製の中国家具で、重くて重くてちょっとやそっとでは動かない。動かすためには、キャビネットの中に入れてある本やら、DVDやらを全部出し、引き出しも引き抜いて空にし、ほぼ空っぽの状態にしなくてはならないのだが、そうやって居間中をぐちゃぐちゃにしてキャビネットを手前に動かし、裏側に回りこんで配線しなおしてわかったことは、なんとこのDVDレコーダーに内蔵されているテレビ番組の録画システムはヨーロッパ仕様で、ご当地ではまったく機能しないということである! プログラムしようとすると、“ご当地ではご利用できない”旨の青色のメッセージが、テレビ画面に表れる。冗談としか思えない。

夫がいくらでこのレコーダーを買ってきたのかは知らないが、安い買い物ではなかったはずで、それなのにテレビ番組を録画できないのでは、HDD付きの意味がまったくないではないか!! 単なるDVDプレーヤーでいいのなら、夫が2−3年前に買ったのがすでに1台あるのだから、別に新しいのを買う必要はなかったのだ。それにそもそも、なんでご当地で使えないDVDレコーダーを、ご当地の家電量販店が売ってるのか、そっちの方がもっと不思議だ。使えないモノを売るな、こら!

夫はマニュアルを参照しながら、1時間以上あれこれ試してみたが、どうやっても録画機能はプログラムできない。最後にはこのレコーダーを売った店に電話し、販売員にトラブルを話してもみたが、販売員は夫が何を言っているのかよくわからないようす。最終的にメーカーに聞いて後で電話すると夫に言ったようだが、当然、何時間待っても折り返しの電話は来なかった。

おかげでセッティングが途中でストップしたレコーダーはそのまま。キャビネットから出したものも、そのまんま。本やDVDや、引き出しは居間のあちこちに積み上げられて、実家の台所同様の足の踏み場もないありさまのまんまである。夫に「片付けちゃ、だめだよね?」と聞いたら、「だめ。もしほんとに使えないなら、もう一度配線全部抜いて店に返すんだから」と憮然とした表情でのたもうた。

ということはつまり、確実にだめかどうかわかるまではこのまんまということである。  しかし、しかし、たしか夫の発案で来週末25日には、友人3人を食事に呼んでいるはずで、少なくともそれまでには何とかしてもらわないと、これではクリスマスの飾り付けどころか、掃除もままならず、悪くすると座るところすらないである。ああ。どうするのだ、いったい!?

モノ

  • 2005/12/17 22:33
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実家に帰るたびに思うのだが、ある種の日本の家はどうしてああもたくさんのモノに囲まれているのだろうか? 簡にして素、ちりひとつない床の間に花一輪の、静寂の音が聞こえそうにすっきりと片付いた家は、テレビのトレンディドラマか雑誌の中にしか存在しないかのように、ありとあらゆる雑多なものが、居間、台所、寝室にひしめきあっていて、ほとんどめまいがしそうである。
昔は、親の世代は“もったいない”精神が骨の髄まで染み込んだ昭和一ケタ世代だし、田舎で個々の家も広く、モノを取っておくスペースに事欠かないから、たとえ必要ないものであっても一向捨てようとせず、家中が納戸か物置状態になるまで取っておくのかと思っていたが、妹が嫁いだ先の家も、都内の古い一戸建てで、さほど広くもないのに同様の状態であるのを知って、これは田舎か都会かという問題でも、広いか狭いかという問題でもないらしいと知った。

私自身はモノが過剰にあったり、モノが片付いていない状態にあったりすることが我慢できないので、実家に帰る度にその乱雑さにいらいらし、端からバンバン、過剰なモノを捨てまくりたい衝動に駆られる。そうして視覚的にすっきりさせないと落ち着かないのである。生活している家なのだから、雑誌のグラビアのように非現実的に美しくある必要は全くないが、せめて目と神経にひっかからない状態であって欲しい。
しかし我が実家の現実は、それこそ目と神経にひっかかりまくり。今回も玄関はともかく、台所に足を踏み入れたとたん「なんだあ、これは…!?」というか“Oh my goodness…!!”というか、とにかく70代の老人二人しか住んでいないとはとても信じられない大量のモノが台所にあふれていて、文字通り足の踏み場もない。大小2台の冷蔵庫、天井に届きそうなほど巨大な食器戸棚、小型のキャビネット3つ、キャスター付きワゴン、物置台と化した小さいダイニングテーブル、野菜が入った大ざる、等々。たかだか6畳程度の台所にこれだけの家具を置いては、視覚的過負荷に耐えられまいと思うのに、その上さらにこれらの家具の上には、鍋釜の類いからドッグフードの包み、スーパーで買ってきた果物の袋、誰か客人に供したらしい煎餅の入った菓子盆、プラスチックのボール、デパートの紙袋、新聞の広告等、たくさんのものが何が何だかわからない状態で積み上げられている。妹と二人顔を見合わせ「なんだか前よりすごいみたい」「仕方ないよ、うちのお義母さんも同じ。あの年代の人はモノを捨てないから」「それにしても、すごい量だ」「あたし、もう慣れちゃった。たまにしか来ないから片付けようがないしさ」「そうだよね、それにどっちにしたってお母さんたちの家だし…」「そうそう。お母さんたちがいいなら、いいんだから」身動きならない寒さも手伝って、妹と二人、どこから手を付けたらいいのかわからない乱雑さには目をつぶって、2日間を過ごした。
そして思い出した。私が家を出た理由の中には、この、私の手ではどうしようもないモノの洪水、過剰なモノが作り出す乱雑さから逃げ出したいという理由もあったのだと。休みの日曜日、台所や居間をどんなに精を出して片付けようと、2、3日後には元の木阿弥。家の主婦でない、単なる居候の身では、いくら要らなそうに見えるからといって勝手にモノを捨てるわけには行かないし、見苦しい家具を多少はましなデザインの家具に替えることもできない。10年は我慢してみたが、その後はもう我慢する気がなくなった。他の理由もあって、私は家から逃げ出した。

だから一人暮らしを始めた時、私は本当にしあわせだった。ご当地に来たばかりの時は、当然家具もなにもなく、アパートについていたのはエアコンと口がひとつのガスレンジ、造り付けのベッドだけ。まず冷蔵庫と洗濯機を買い、しばらくはテーブルもいすもなく、お盆をテーブルの代わりにしていた。それこそひとつの家具もない部屋は、床がやけにがらんと広く、目に優しく、実に快適だった。
10年経って一人が二人になった分、家具もだいぶ増えてしまったが、それでもモノはなるべく買わないように、買った時にはひとつ買ったらひとつ捨てるように努めている。視覚的過負荷には耐えられないし、多くのモノをうつくしく調和させる才はないのだから、そうするしかないのである。持ち物は少なければ、少ないほどよい。とは理想であるが。

ご投資は、ご自身の判断で

  • 2005/12/16 19:30
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■ 例のあやしい福建の医薬品メーカーの日本プレゼン、ことのほか好評でまいっている。ご紹介に行った先の某社の某部長さんなど、「実は私も糖尿で…。この薬、効きますかね?」と真顔でお尋ねになるし、ご紹介パーティも予想以上に人が集まって大変な盛会だったし、まったく力を入れてないときに限って人々の反応がよろしいのは、いったいどうしたことだろう。さっそく同社の株をお買いになった方もおられるようで、同社の生産現場を見てしまい、後ろめたい思いを抱いている者としては、なんだか大変複雑な気持ちである。

■ 唯一の救いは、私たちが紹介し宣伝しているのは、同社の製品(=医薬品)ではなく、同社の株だということ。中国・香港株の場合、あるメーカーの製品がよいからといって、それが株価に正確に反映されるわけでもない反面、製品が怪しいからといって、すぐさま株価が急降下するわけでもない。銘柄の宣伝につられて株を買う人が増えれば、その分株価は上昇するわけで、投資したからといって確実に損をすると決まっているわけではない。その点、直接飲んだり、塗ったりして、体内に取り入れる医薬品の宣伝よりは、気が楽である。それに元々このメーカーの株価は、これ以上下がりようもないほど、安値だし…。

■ だから皆様、よくわからない銘柄に投資するときは、営業担当の仲人口など信用せず、自分の目で見に行きましょうね。または信用できる人が、実際に見に行って書いたレポートをいろいろ読み比べてから、投資しましょうね。中国・香港株の周りをうろうろしている人たちの中には、自分では見に行かず、香港や大陸の証券会社のレポートを孫引きして記事を書いている人もいます。全部が全部、信用できないとは言いませんが、眉に唾くらいはつけておいた方がいいかもしれません。

■ それに関連して、ちょっと古いニュースだが、例のみずほ証券の誤発注問題。あれはまったく他人事ではないである。うちでも誤発注は、しょっちゅうと言っていいほど発生している。作業の流れの関係で、売りと買いを間違えることは余りないが、株数や単価の入力ミスや言い間違いが、大きな声ではいえないが、比較的頻繁に起こるのである。私自身もつい先日やったばかりである。8万の売りだったのだから、“80K”と書くべきところ、なぜか手は“800K”と書いていた。幸い日本株と違い香港株は単価が安いので、被害は今回のみずほに比べればないも同然だったが、ミスで出した損失は自分でかぶることになっているので、間違いに気づいた時には、一瞬凍りついた。私自身は営業ではないから、本来注文の電話は取ってはいけないのだが、その時は同僚が3本の電話を抱えて立ち往生をしていたので、やむなく4本目を取ったのである。他人の電話取って間違えてれば世話はないが、チームの中で鳴ってる電話を無視するわけにもいかぬ。で、取った。20件近い売り注文の中で、1件を書き間違えた。(私自身は自分で書いた“800K”という数字を見ながら、“8万”と復唱していたのだから、まったく私の頭の中はどうなっているんだか…)幸か不幸か注文主は80万の売りが立てられるだけの株を持っており、実際マーケットで売れてしまって、はい一丁上がり。で、どうしたかって? またマーケットで差額の72万株、買い戻したんですよ。幸い値は上がっておらず、売値と同じ値段で買い戻せたので、実質の損失は取引所に払う手数料とか税金とかだけで済んで助かったが、間違いに気づいたあの瞬間は、ほんとにさーっと血の気が引いた。なので、先週金曜の朝、NHKのニュースでみずほの誤発注を聞いたとき、まず頭に浮かんだのは「きゃあ、担当者かわいそう!!」ということである。損失は自己責任のうちだったら、まず生きてはいられないである。400億もの損失、どうやってかぶれというのか? みずほさんは、その辺どうなっているのだろう。今現在のニュースでは、東証のシステムさえちゃんとしてれば、誤発注による損失は数億円程度で済んだはずとなっているが、それにしたって個人で負える額をはるかに超えている。日本は個人では負わないのかなあ。

草木も凍る、私も凍る

  • 2005/12/15 17:30
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ただいまでございます。昨晩、帰ってまいりました。
いやー、日本は、もとい、実家は寒かった。東京のホテルに泊まって仕事をしている間は、いくら外が寒いと言っても室内に入ってしまえば、身体はぬくぬく。パジャマ代わりのTシャツのまま歯を磨いたり、テレビのインストラクターを横目に見ながら、夜ヨガのポーズの練習をしたりできたのだが、妹が借りたレンタカーで北関東の実家に着いたとたん、身体が凍りついた。外気温が5℃くらいまで下がっている夜半、我が偉大なるご両親様は、こたつ以外暖房器具は使わずに、この師走の日々をお過しになっているのであった。一応かたちだけ、石油ストーブが居間の隅に置いてあったが、使った気配は見られなかったし、夜しんしんと冷え込んで来る中でも、点火する気配は見られなかった。こたつで背中を丸めながら「今夜は寒いねえ」と言いはするが、顔はいたって呑気で、別段その寒さがこたえている風はない。回り中から忍び寄る圧倒的な冷気に顔と身体を強ばらせているのは、亜熱帯の気候に慣れ親しんで身体のサーモスタットを25度に設定している私のみである。(私の身体は気温が25度を下回ると“寒い”と感じるようになっている。こうしておけば、ほぼ1年中ご当地の気温を“快適”と感じることができるようになるのである。ま、多少無理がでることもあるが…)
両親は「寒ければ押入れからストーブを出せば?」と言ってくれたが、どうせ二日しかいない実家であるし、70過ぎの年寄りが耐えているのに、若い(?)私が耐えられないというのも意気地のない話であるので、「うん、だいじょうぶ」と答えたが、事実は“だいじょうぶ”から遠く遠く離れたところにあった。居間ではこたつに入ったきり、身動きもならず、テレビを見るか新聞を読むかで日が暮れたし、夜、自室に引き上げた後は、速攻で蒲団を敷き、電気敷き毛布を強にして、冷凍マグロかミノムシのように蒲団の中から顔だけ出して、寒さをしのいだ。ある程度身体が温まったところで、蒲団に入ったまま本を読もうと試みてはみたが、手を蒲団から出すと、あっという間に冷たくなり、手首から上腕までじーんと冷えてくる。これではいかんと手を蒲団の中に戻し、ミノムシ体勢に戻って、あごで本を押さえて活字を追おうともしてみたが、目と本の位置が近すぎて焦点がうまく合わない。ならばいっそのこと、頭も蒲団の中に入れて、懐中電灯で本を読もうかとも考えたが、それではまるで親に隠れて怪しい雑誌を盗み読みしている青少年のようである。順当にいけば高校生くらいの子どもがいてもおかしくない年恰好の人間がやるべきことでもあるまいと、ばかばかしくなったので、考えるのは止めてさっさと寝た。おかげで実家では9時くらいには就寝していた。起床したのは6時か7時なので、都合9時間から10時間は寝ていた勘定になる。なまじの子どもよりは、よっぽど長い睡眠時間である。
しかし蒲団の中は快適に暖かくとも、部屋の寒さ自体は変わらない。夜寝ている間、吐いた息が毛布に当たって水滴となり、何だか襟元が湿っぽくなったり、朝起き抜けに「はあー」と息を吐くと、息が白く凍ったりしたのにはまいった。
母に言わせると、母の実家の村(20年近く前、日航機が墜落したことで一時有名になった村であり、あの日航機が落ちた山は、母が子どもの頃、柴刈りに行っていた山である)では枕もとに置いた湯飲みの水が朝にはかちんかちんに凍ったりしたそうで、それがない分ここはましだそうだが、亜熱帯人間になってしまった私には、それを「まし」だと思えるだけの心の余裕はない。
決めた。これからは免許の書換は、春か夏にすることにする。誕生月でないから、有効期間が1年短くなるにしても、この身体全体が強ばるような寒さに遭遇するよりは、よほどましである。今までだってずっとそうしてきたのだ。今回、誕生月に書換しようと考えたのは、もののはずみというやつである。こんな軽はずみは、もう二度としない。

またお休み

  • 2005/12/05 16:58
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明日から日本なので、またしばらくお休みします。
なんか、とーーーっても“行きたくない”気分なんだけど
“気分”で仕事をするわけにはいかないので、行ってまいります。

日本は寒そうだなあ。

母娘

  • 2005/12/04 22:03
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今回、日本での仕事が終わった後、2、3日休みを貰って実家に行くことになっているので、その旨母に連絡しなければならないのだが、それができないでいる。すでに1週間以上ああだ、こうだと口実を設けて、連絡をしないでいる。私は母に電話をするのがいやなのである。かけなければいけないことはわかっているのだが、母との会話を想像しただけで気持ちが暗くなり、受話器を上げることができない。これは別に今に始まったことではない。もう20年以上前から、ずっとそうである。だから大学時代もほとんど電話をしなかった。手紙は数行のものを一度書いただけである。母と話すことがいやなのだから、電話はかけることだけでなく、受けることもいやである。だから家の電話が鳴っても、時間的、曜日的に母だと思えば、10回のうち8回は出ない。呼び出し音は鳴り続けるが、歯を食いしばって無視する。そのうち電話が鳴ることそのこと自体がいやになるので、電話をプラグから抜く。他の電話もとれなくなるが、私の自宅に電話をかけてくる人はまずいないので、それでも困らない。夫は別の番号の電話を持っているので、被害はない。
時々、なぜこんなにも母と話すのがいやなのだろう、と考える。別れて暮らすようになってからは、母は別に私に批判的なことを言うわけではないし、私がそばにいないことに対する愚痴やあてこすりを言うわけではないのだから、そんな嫌がらなくてもいいだろうと我ながら思うのだが、長年の間に培われた感情は一朝一夕には消えず、「母に電話しなければ」と思っただけで、胸ふたがるる。今までの、過去40年間のさまざまな小さな出来事、大きな出来事が積み重なって、腐敗発酵し、直視できない醜怪な塊になってしまった。

私がアメリカ人なら、とっくの昔にセラピーを受けていただろうと思う。そして自身の感情を分解し、分析し、もっともらしい理由付けを行って、すっきりさっぱりしていただろう。しかしアメリカ人でもなく、北米に住んでもいない私は、現実にはセラピーを受けることもなく、ただ時々自分自身の感情、わけのわからない恐怖、不快感、逃げ出したいという衝動を「これはいったい何なんだろう?」と、水晶玉を眺めるように眺めている。

そして今日になってやっとひとつ気づいたことは、私は母が好きではないのだということである。「何をいまさら…」と思われるかもしれないが、私は今まで母を好き嫌いの対象として考えたことがなかった。子供の頃からずっと、母というのは好きとか嫌いを超越した存在、そんなことを考える余裕もないほど、圧倒的な力で家族(つまり私を含めた、母以外の世帯メンバー)の前に立ちはだかり、コントロールし、支配する存在だった。私はいつも、どうやったらこの支配から逃れられるのか、この圧倒的な力をなし崩しに弱めるにはどうしたらいいのか、ばかりを考えていて、母を一人の人間、私の回りにいる他の人たちと同じような“好き、嫌い”の対象として考えたことがなかった。そして今あらためて考えてみると、私は生まれてこの方一度として母を好きだと思ったことはないことに、思い至った。

好きではなかったといっても、私と母との間に多くの争いがあったわけではない。むしろ“争わないこと”を目指して、神経をすり減らしてきたのである。多くの場合、母の内部には母独自の強固な規範があり、たとえそれが間違ったものであったとしても、他人の意見や説得でそれを変えることはしない。したがって、論理的な反駁で母を納得させることはまず不可能であり、言い争いで得られるのは、全身から力の抜けるような無益さ、むなしさだけである。そして言い争う段階で、互いに傷つく。母の舌鋒は鋭く容赦なく、身体の奥深くに刺さった棘のように、いつまでも、いつまでもうずく。それがいやで、ある時期から私は母に何かを言うことを止めてしまった。あいづちは打つ。しかし、それだけ。母だけが話す、一方的な会話。だが表面的には、仲のよい母娘の穏やかな会話のように見える。そうして話を続けていると、私の内部にどんどん澱がたまってくる。口にしなかった反論、言わなかった怒りの言葉がたまり、夢の中で爆発する。私が母の夢を見るとき、私はいつも母と言い争い、母を面罵し、母の頸に手をかけている。いつも、いつもである。母と穏やかに話したり、笑いあったりしている夢を見たことは、私が覚えている限りでは、ない。

私はかなり長い間、母娘というのはこういうものだと思っていた。好き嫌いを超越したところで、どうしようもなく繋がっているのが母娘、母子というものであり、それが普通なのだと思っていた。
そうではない、“好き”という感情でも繋がっている母娘、親子が現実にもいるらしいと知ったのは、つい最近である。現在の夫と付き合い始めてしばらくして、夫が何の屈託もなく実の両親のことを「好き」と言った時、「え、そういうのアリなの?」と思った。私はそれまで、そんなものはオハナシの中にしかないと思っていたのである。正直ちょっと驚き、振り返って私と母の関係がどういうものなのか、ますますわからなくなった。今でもわからない。わからないあいだは、私はこの母に対する恐怖、不快、敬して遠ざけたい感情から逃れることはできないのだろうか。

バースデイ・プレゼント

  • 2005/12/03 21:42
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私も今月が誕生日なので、口座のある銀行や、メンバーになっているお店などからいろいろなクーポンが届いた。銀行からのはことに盛りだくさんで、ゴディバのチョコレートや某サロンのアロマ・セラピー・ボディマッサージ、また別のサロンの上海式美容擦背及身体肌肉減圧舒緩按摩(英語に直すとShanghai-style Back Rubbing & Deep Tissue Massage だそうだ )、永安旅行社提供のキティちゃん付きトラベルバック(ただし今月出発のツアーに申し込めば)、某ジュエリーショップの20%ディスカウント・クーポン、某高級ヘアサロンのヘアトリートメント・クーポン、ツバメの巣(言わずと知れた美容、美肌効果抜群の漢方食品)屋さんの200元キャッシュ・クーポン(ただし2000元以上お買い上げの場合のみ)、某ホテルレストランのディスカウント・クーポンetc が“Enjoy”と大書きされた封筒に入って届いた。確か去年は某ホテルのケーキ・クーポンと、レストランのディスカウント・クーポンしかくれなかったような気がするんだけど、今年はこのシンガポール系の銀行さん、だいぶ景気がいいのかしら? 夫も誕生日なので、彼のメインバンク、天下のH○BCからクーポンセットが届いていたけど、こんなに色とりどりではなかった気がする。弱小銀行の方が顧客サービスに熱心と言うことだろうか? 金利もH○BCよりは若干高いし、そういうところで点を稼いで顧客を惹き付けているのかもしれない。
もっとも、いろいろいただいても私が実際に利用するのは、ゴディバのチョコレート・クーポンくらいだろうけれど。

買うべきか、買わざるべきか

  • 2005/12/02 22:32
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来週また日本だし、1月には上海と湖南にも行くようなので、厚手のコートを買うべきか否か迷っている。前回の日本では手持ちのコートにストールを巻いていたのだが、昼間はともかく夜などは歯がカチカチ鳴るほど寒かった。それから2週間たち、12月に入った東京が前回より暖かいはずはなく、だからしっかりと厚く丈の長いコートがあった方がいいだろうとは思うのだが、問題はそういう、ご当地より北の国に行く出張でもない限り、そうした厚手のコートなど着る機会はまずないことである。はたして一時の必要に迫られて、使用頻度の低いものを買ってよいものかどうか、どうもためらわれる。
それは何も経済的な問題ばかりではない。収納スペースの問題でもあるのである。なにしろ私の衣類入れは120cm×225cmのたんすがひとつだけ。これに1年中のあらゆる衣類、下着、靴下からシャツ、パンツ、仕事用のジャケット、ジム用のTシャツ、トレーニングパンツ、冬のコート、数個のバッグ、シーズンオフの靴まで、いっさいがっさい入れているのである。はっきり言って余分なスペースなどない。勢い、新しい衣類を買うときには似合う、似合わないや、必要か否か、値段が適当かどうかの他に、たんすに入るか否かまで考えるようになる。今回コートを買うのをためらっているのも、我がたんすの中にコートを掛けるスペースがないことが主因である。夫のたんすの方に侵食していくことも考えてみたが、彼人のたんすは内部を衣類ならぬDVDとVCDに侵食されており、私のコートを忍び込ませる余地はなさそうである。となるとコートを買うには、何かを捨てて場所を作らねばならぬ。幸いフラットの下には、環境保護団体が置いている巨大な金属製の衣類回収箱があるし、道を渡った角には救世軍の衣類回収箱がある。衣類リサイクルのシステムは我が家のまん前に完備されているかたちなので、着なくなった衣類を胸を痛めつつごみに出さなくてもいいのは、本当に助かるのだが、だからといってほいほい物を買い、すいすい物を捨ててよいものか。うーん。東京、急に暖かくなったりしないかなあ。そうすればコート買わなくて済むんだけどなあ。

肉なし海鮮なし酒もなし

  • 2005/12/01 22:25
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夫の誕生日だから何かちょっと特別なメニュを考えてあげたいと思うのだが、いかんせんベジでお酒も飲まないとあっては、祝いの膳を考えるのも難しい。しかも今日は平日、30分1本勝負で夕食を作る日である。

しかたがないので普段は余り買わないちょっと上等なチーズと、それに合わせたおいしいクラッカーを買って、ささやかなバースデイメニュにした。
あとはいつものとおり、野菜と豆腐である。
ベジテリアンの祝いの膳なんて、ほんとに質素なものだ。

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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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