そういう問題

  • 2007/05/31 16:25
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■ きのうジムでマシンの順番待ちをしながら「“Eating”読み始めたよ。(集約型肥育は問題が多すぎるから)わたしやっぱり鶏や豚を食べたい時は、自分で飼って自分で締める/屠ることにする」と夫に言ったら「That’s not the point. / そういう問題じゃないだろう」とたしなめられた。いや、そういう問題じゃないことはよくわかっているんですけどさ、冷血な野蛮人のわたしは、動物を食べることを止められないのだ。ソテーした豚肉からにじみ出るあの滋味、ゆでられ、ぷっくりとふくらんだ腸詰のうまさ、鶏の軟骨のこりこりした歯ざわり!

■ 豚も鶏も同じ生命なのだから、ここでこの生命を殺して食わなければこちらが死ぬというぎりぎりの瀬戸際でない限り、殺生すべきではないというのは大変立派な考え方であるとは思うのだが、人一倍意地汚く生まれつき、ふとした弾みに脳裡にソーセージがぽっと浮かんだり、鰯の塩焼きがふわふわと目の前を横切ったりしている私には、とうてい実行に移せそうもない。せいぜいその死を無駄にせぬよう、頭の先からしっぽまで、全部我が腹の内に収めさせていただくくらいが関の山。動物でも植物でも、自分が食べるものを自分で育て、世話をし、大きくなったところで(実ったところで)、殺して(取って、摘んで)食べるというのは、私にはとても自然で健康なことに思えるのだが、生命倫理からするとこれは×なのだろうか。
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お仕事&食

  • 2007/05/30 11:50
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■ また上司をいぢめてしまった。いじいじと反省。朝起きた瞬間から頭に浮かぶほど気にするのならいぢめなければいいのだが、そこはそれ性格が悪いのでついいぢめてしまうのである。上司の言う事実が誤っていたり、先方が連絡してきたことと、上司が指示することが違うくらい何だというのだ? 先方と上司との間には、異言語・異文化という大きな壁があるのだから、間に立つわたしは黙って「はい」と返事して、双方に大きな齟齬が起きないよう処理すればいいだけの話ではないか。どうしてそれができないのだ、わたしは。

■ “Eating”を読み始めた。やっと33ページ。宗教を核にした食物と倫理についての話かと思ったら、はずれ。我々が謳歌している、安価で過剰なほど豊富な食物供給の裏には、劣悪な環境で肥育され、屠殺される膨大な数の動物がいる。その動物にとって劣悪な環境は、当然その肥育場周辺の環境にも大きな影響を与え、そこに住む住民の健康にも被害を及ぼしている。値段や便利さや栄養、嗜好といった観点からだけでなく、“倫理”という観点からも食物は選択されるべきではないか、というのが33ページまでの論旨と思われるが、さてこの後はどうお話が展開するのだろうか。

食と倫理

  • 2007/05/28 15:47
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ここ何ヶ月か刺繍に夢中で、土日でも太陽の光があるうちはせっせと針を動かしているので、その分読書量が減っている。何に夢中になろうが、1日が24時間しかないことに変わりはないので、Aに過度の時間を費やせば、Bに費やす時間が少なくなるのは理の当然である。

ただマイブームになって急激に熱が上昇しても、3ヶ月もすればしゅるしゅるとしぼむことを知っている我が夫は先を見越して「この本はおもしろいから、刺繍に厭きたら読んで」とペーパーバックを2冊貸してくれた。タイトルは“Monkey Luv”と“Eating”。夫がおもしろいから読めと言って貸してくれた本は今までにも何冊かあるのだが、読み終えられた試しがない。そもそも貸してくれるのがほとんど全部英語である。たいがい辞書を引くのが面倒くさくなって、途中で挫折するのである。わたしは本を読むのが嫌いな方ではなく、音楽を聴かない日はあっても、活字を追わない日はないくらいの活字虫だが、自分で買った本ですら、寝食を忘れ、貪るようには読めるのは、そのテーマに焼け付くような興味を抱いている“旬”の間だけである。“旬”が過ぎれば読書欲は半減し、日本語であっても読むペースは呆れるほど落ちる。いわんや人が人の興味に基づき買った外国語の本においておや。

ただ確かに“Eating”は面白そうな本ではある。著者のPeter Singer氏は倫理学者で、食を倫理面から分析する(らしい。何しろまだ読んでいないのでわからない) 食と倫理は、一見結びつかなそうではあるが、さまざまな宗教で「これは食べるな。あれは食べるな」と言っていることを考えれば、実は“食べること”と“道徳”は深いところで、分かち難く結びついているのかもしれない。かのサヴァラン氏が言った“Dis-moi ce que tu manges, je te dirai que tu es (Tell me what you eat, and I tell you what you are)”も、もしかしたら何を食べているかで性格や嗜好がわかるといったことだけではなくて、もっと深くその人の思考や倫理までをも含んでいたのかもしれない。

日曜の夜は悲しい

  • 2007/05/27 22:13
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■ 日曜の夜は悲しい。休みが終わると思うと悲しい。眉間のしわがますます深くなる感じだ。仕事に行くのが泣きたいほどいやだというのではないのだが、9時間ばかり自分の時間を取り上げられ、さほどしたいとも思わないことをしなければならないのが、不本意なのだ。その代償として妥当(あるいはそれ以上?)と思われる額の報酬を得ているにせよ。

■ 昨日から刺繍のお供に朗読を聞いている。いくら落語好きでも、同じ噺のCDを20回も30回も繰り返し聞くと、さすがに厭きる。といってご当地には落語のCDは売っていないので、仕方なく朗読CD。お話はシャーロック・ホームズ。ほんとはクリスティのマープル物か何かの方がよかったのだが、朗読CDの選択肢は極端に狭いのだ。けっこう大きな本屋に行ったのに、全部合わせても30種類くらいしかなく、しかもそのうち半分は日焼けしたビジネス・スーツの男が、白い歯を見せて“成功”や“自己啓発”について語る、怖気をふるいたくなるような代物である。でなければ“キリストの道”とか。そんなものを聞くくらいなら、気障ったらしいブリティッシュアクセントでホームズ先生の自慢話を聞いた方がましだ。たとえ言ってることの半分は聞き取れないにせよ。

■ 日本のアマゾンとか見ていると「××円以上、国内無料配送」とか書いてある。うらやましい限り。ご当地はどこのアマゾンに頼んでも“海外”で、常に常に送料がかかる。安いペーパーバッグなど、時として本そのものより送料の方が高かったりして、クリックする指がぴたりと止まる。こっちにではなく、夏にカナダに行く前に、お義父さんちあてに送ってもらうか。あそこならかろうじて“国内”かもしれん。いくら田舎でも。

宴会顛末

  • 2007/05/24 22:23
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■ 火曜の宴会はなかなか楽しかった。新界の果ても車で行けばさほど遠くないことを発見。数年前はバスで行ったから、やたら遠く感じたのだろうか。

■ しかし、待ち合わせ場所に時間通りに着いたのは私だけ。会議が長引いたとかで、ホスト側の運転手君も30分遅れて来たのはご愛敬。「時間に遅れるう!」と、焦って階段を駆け上がることはなかったんだわ、わたし。

■ 料理はおいしかったが、7人で10皿、しかも比較的こってりした料理が多かったので、後半はほとんど食べきれず、お持ち帰りに。途中、一人用の釜(?)で硬めに炊いたごはんに、豚油と醤油をかけて食べたのが面白かった。同席者も「子どもの頃、何もおかずがない時は、よくこうやって食べた」とひなびた味を懐かしんだ。

■ デザートは馬拉糕(中国カステラ)と南瓜布甸(かぼちゃのプディング)。馬拉糕はともかく、ここの南瓜布甸は巨大な鍋で豪快に焼いた野趣あふれる布甸。ねっとりと甘いかぼちゃの角切りがごろごろしている。緑色の部分も見えたが、あれはうぐいす餡か、はたまた緑色のかぼちゃか? クリームの味と甘みが濃厚で判断できず。しかし、美味かった。

■ 帰りは、“手打生麺”やら“燕の巣”やら両手に抱えきれないほどの土産を持たされて、11時前にご帰還。自分のバッグの他に紙袋やらビニール袋やらを3つも4つも下げた姿は、まるで舌切り雀のお宿を訪ねた後のお婆さんである。特に雀さんに親切にした覚えはなかったのだが、つづら一杯の土産をもらった感じ。

■ そういえば招待してくださった社長は「お宅の恐竜さんに」といって、デザートの残りも持たせてくれた。先日いっしょに日本に行ったとき、雑談のついでにウチの夫が、肉も魚も海鮮も食べず、酒も煙草もコーヒーも紅茶も、清涼飲料水すら飲まないのを知って「とても現代人とは思えん。恐竜並みだ」と、以来夫のことを「お宅の恐竜さん」と呼んでいるのである。帰ってから夫に「社長がそう言ってたよ」といったら「わたしはねー、恐竜じゃないよ。進化した人よ」と言ったが、いったいどこが進化したんだか。

今日は宴会

  • 2007/05/22 13:40
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■ このところ中国語のクラスに行けていない。4月は旅行や出張や残業で行けず、5月も祭日、出張とさぼってばかりである。今日こそ行けるかと思っていたら、先日いっしょに日本に行った某社から食事のご招待があり、どうやら断るわけにはいかないらしい。ああ、また今日もさぼりか・・・。

■ この某社、主席はいかにも誠実な人柄だし、他のメンバーも気持ちのいい人たちで、だから食事会に参加するのにやぶさかではないのだが、ただひとつ気になるのが今回の食事の場所。はるか新界の果てなのである。なぜ、わざわざ? この某社がそこにあるというのなら不思議でも何でもないのだが、某社があるのは東京だったら池袋付近。ウチの会社があるのは丸の内。六本木あたりで食事でも?というのならわかるのだが、ご招待メールに記された場所は青梅。一読して思ったのは「どうやって行くのだ??」

■ 自慢するわけではないが、わたしは新界の地理には不案内である。ふだん乗っている地下鉄は青梅(に当たる場所)のはるか手前で終わっている。前回ここに行ったのは、某元同僚の結婚式だったが、その時は確かウチからバスで1時間以上かかった。米粒のように狭いHKでも、果てまで行くとなれば結構な距離なのである。

■ やーれやれと思っているうちに追加メールが来て、「移動についてはこちらで手配する」とあったので、たぶんどこか集合場所まで行けば、あとはお車で連れて行ってくださるのだと思うが、それにしても新界の果てで7時半から始まる中国式宴会、終わってウチに帰り着けるのは何時だろう? できれば本日中にウチにたどり着きたいものだが。

人形

  • 2007/05/21 16:53
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駒込こまさんの過去記事を拝見していて、シルヴィア・ナッテラさんの人形を知った。こまさんちのお嬢さんはりえちゃんという名の茶色の髪と瞳をした2歳くらいの女の子だが、ナッテラさんのウェブサイトを見ると、他にもいろいろな子がいるのがわかる。

最初りえちゃんを見たときには、失礼ながら「あ、お人形さんね」と思っただけで軽くスルーしてしまったのだが、なぜだがその後だんだん気になりだして、翌朝にはりえちゃんの他のページを全部見、シルヴィアさんのページにも行き、他の創作人形作家のサイトも見と、ブラウザの反応の遅さにいらいらしながら、取り憑かれたように人形関係のサイトを開いた。

日頃わたしのブログを読んでくださっている方ならおわかりの通り、私は人形やぬいぐるみを可愛がるタイプの人間ではない。生身の犬を飼えない代償として、犬のぬいぐるみは家に2〜3あるが、番犬代わりにソファのそばにおいてあるだけで、それで遊ぶわけではない。
3〜4年まえだったか、偶然陽月さんなるとさんが作る球体関節人形を知り、その生身の人間にはあり得ない完璧かつ圧倒的な美しさに陶然とし、「いつか一体欲しいものだ」と思ったことはあるが、これらの人形はいっしょに遊んで“可愛がる”というより(そういう人もいるだろうが)、この人形を通して別の世界に遊ぶ=“淫する”対象であって、置くとすれば地下室あるいは人形専用の部屋を作るしかないような禍々しくエロティックな人形、言うなれば“裏の人形”たちである。間違っても生活臭漂う居間や寝室に、ひょいと置いておける人形ではない。(××の館のように、家全体がその雰囲気なら、居間にも置いておけるだろうが)

これに対して同じ創作人形でも、制作者が“子どもの友達”として作り、親もまた“我が子の健やかな成長”を願って子どもに与える類いの人形は“表の人形”だ。美しいものもあるし、そうでないものもあるが、だいたいは健全さ、清潔さを全身から漂わせ、いかにも無垢なようすをしている。当然、シルヴィアさんの人形もこのカテゴリーに入るべきなのだが、彼女の人形の画像をプリントし、壁に貼ってつくづくと眺めると、どうもそうとばかりは言えないような気になってくる。彼女の人形は眼も小さく、鼻もちんまりとして、特に美少女に作られているわけではない。ヨーロッパならどこにでもいそうな、ふつうの女の子の顔立ちだ。笑っているわけではないから、愛嬌があるとも言えない。むしろ眼と眼の間が離れ、眉もたれ気味なせいか、いくぶんぼおっとした、淋しそうな表情であり、それぞれの言葉で何かを考えている、独り言を胸の内で繰り返しているような表情をしている。そのあたりがどうも、単に“健全”なだけではない、もっと秘密めいたもの、いうなれば“裏の人形”と“表の人形”の中間のような性格を持った人形であるように感じられる。

自分でもなぜシルヴィアさんの人形の表情に惹かれるのかわからないし、同じシルヴィアさんの人形でも男の子や赤ん坊人形にはまったく魅力を感じないのだが、2歳くらいの子どもと思われる3.5頭身の女の子や、それよりもう少し年上らしい4.5頭身の女の子たちは、見ても見ても厭きない。画像を載せたいとは思うが、いくらブログとはいえ他人様の作品を無断で掲載はまずかろうから、申し訳ないがシルヴィアさん自身のサイトでご覧ください。どこかで本物を見たいのだが、ご当地でこういった人形を扱う玩具店というのはいったいどこだろうか。どう考えても、ご当地で主流をなす文化とは肌合いが違うような気がするのだが。

携帯と恐竜

  • 2007/05/18 16:55
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■ きのう“新しい携帯”の記事をアップした後で、「でも大部分の人にとっては、カメラつきの携帯も、MP3機能がついた携帯も、数年前からあったり前で、むしろそうした機能がついていない携帯を使っていることの方が、絶滅し損ねた恐竜並みに珍しいんだろうな」と思った。この思いは家に帰り分厚い取説をあちこち拾い読みするうちにますます強まり、たかだか4×10×2程度の小さな携帯にどれだけたくさんの機能が盛り込まれているのかを知って、正直恐れ入った。絶滅恐竜のわたしには、とうてい付いて行けない。というか、なぜこれらのことを携帯でしたいのか、その情況がよくわからない。メールとカメラとMP3くらいまでは、「ま、それぞれ別々に持ち歩くより、携帯1つで全部すめば便利だろうな」ということはわかる。しかしそれ以上になると・・・。そもそも“あれば便利”は“なくても平気”と紙一重であり、商品を売る方は少しでも差別化を図るために、さまざまな機能を盛り込むのだろうとは思うが、ほんとのところごく標準的な利用者は、満載された機能のうち、どの程度までをご利用なのだろう?

■ 今ふと思ったのだが、わたしの古い携帯、夫に持たせてみようか。この間空港で落としたので液晶部分に瑕が入っているが、一応まだ使える。9月に手術だから、術後定期的に病院通いをするようなら、やはりあった方が便利ではないか? でも嫌がるだろうなあ。携帯、大嫌いだからなあ。それに指が太すぎて、番号キー上手に押せないかもしれないし。やはり夫にはこのまま生きている絶滅植物食恐竜ステゴサウルスとして、生涯を全うしてもらうか。

新しい携帯

  • 2007/05/17 15:59
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■ 2〜3年ぶりくらいに、会社の下のイタリア料理店で昼ご飯をたべた。友達といっしょ。わたしはペストソースをからませたニョッキ。友達はクリーム系のソースのリングイネ。友達の方は知らないが、わたしのニョッキは大変大変塩辛かった。会社に戻ってから、お湯ばかり飲んでいる。

■ わたしはニョッキが好きなので、機会があるとよくニョッキを頼むが、こんなに塩辛いニョッキに遭遇したのは初めてだ。メニュに“New”の文字が躍っていたから、新しくメニュに加わったのだと思うが、これが意図した味なのだろうか。それともたまたま間違って、塩辛くなってしまったのだろうか。以前ここで食べた時は、何を食べてもおいしくて、うきうきと楽しい気分になったものだったが、今日はそれがなく少々残念。せっかく一昨日の予約の時から楽しみにしていたのに。

■ 友達と会ったのは、彼女から古い携帯を譲ってもらうため。古いといっても、今わたしが使っているのよりはずっと新しく、カメラもついているし、音楽も聞ける。しかも日本で買ったので、日本語表示である。当然、取説も日本語で、読むとするするとわかる! 画期的である。

■ しかも待ち受け画面に、彼女の猫がたるそうに寝そべっている写真を残しておいてくれた。二つ折りになった携帯を開けると、手足を投げ出した茶トラのねこが、半目でこちらを見上げている。かわいい。着メロあるいは着うたにしたい曲があれば、加工してくれるとも言った。そういったことがすらすらできるとは思えない私を思いやった親切な申し出である。ありがたい。何にしようかなあ。彼女の同僚のひとりは、地元TVのニュース番組のテーマソングを着メロにしているそうだが、電話が来るたびに「あ、7時のニュース!」とか思ったりしないのだろうか?

包丁1ぽん

  • 2007/05/16 21:57
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包丁の切れが悪く、玉葱のみじん切りのはずが、玉葱のブツ切りになってしまった。たくさんの玉葱細胞が壊れたらしく、涙腺を刺激どころか、鼻にまでツーンときた。出張前から研ごう、研ごうと思ってはいたのだが、忙しさにかまけてついついそのままにしてしまったツケである。

この前は夫に研いでもらったのだが、どうも研ぎがうまくいかなかったらしく、研いだ直後からすでに切れが悪かった。日本流の研ぎでは、包丁を軽く浮かすように前後に動かして研いでいくように思うが(少なくとも私は父からそのように教わったが)、夫の研ぎは、包丁をくるくる回す西洋流である。このやり方でもうまくいくときは私が研ぐより切れるようになるが、前回はなぜか今ひとつだった。仕方ないから、今度は自分で研ごうか。安達ヶ原の山姥の気分でしゃーか、しゃーかと研げば、結構な切れ味になるに違いない。

何しろわたしは1本の包丁ですべてまかなっているので、その1本の切れ味が悪いのでは、料理にすぐさま差し支えるのだ。包丁が1本しかないなんて料理好きの方には想像もつかないかもしれないが、なにしろウチはベジで、切るのは基本的に野菜と果物と豆腐だけで、魚を捌いたり、骨付き肉を叩き切ったりなんていう事態はあり得ないので、1本でも一向困らないのである。たまに硬くて大きいタロイモを輪切りにするときに、むかーし買った中華包丁を取り出すことはあるが、中華包丁は重くて大きくて使い勝手が悪いので、日常には登場しない。もっぱら14年前中国に行くときに実家の近所のスーパーで買った、ふつーの包丁を愛用している。一時鋼でできた立派な包丁を買おうかと思ったこともあったが、自らの料理の腕を顧みて止めた。安物の包丁でもこまめに研げば、ベジの家庭料理くらいは十分に作れる。

それにしても、例の“包丁1本、さらしに巻いて・・・”というあの歌の包丁は、いったいどんな包丁なのだろう? 板前修行中の人が1本だけ持ち歩く包丁は、やはり和包丁、出刃か薄刃あたりなのだろうか。それとも刺身包丁、長い柳刃を大事に大事に持ち歩くのだろうか。

ぜいぜい

  • 2007/05/15 23:23
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■ いつもの如く土曜夜に戻ったのだが、なぜか疲れがたまり、日曜ひるには突然睡魔に襲われ、11時から2時まで寝てしまった。途中、夫が洗濯物を干している物音は聞こえたのだが(洗濯機のスイッチを入れたのはわたし)起きられなかった。どんなに速く移動しようと、距離は厳然として距離なのだろうか。身体は移動に要した時間ではなく、距離に反応するのだろうか。

■ いつもより疲れたのは、10時前にホテルに戻れることが少なかったせいかもしれない。おかげで思うように本屋に行けず、いらいら。それでも1日、9時50分頃に帰れた日があり、別れの挨拶もそこそこに新橋の本屋へ走る。閉店は10時半なので30分くらいしかなかったが、なんとか内田先生の「下流志向」とスタインベックの「アメリカとアメリカ人」を買う。加藤周一さんの「夕陽妄語?」も欲しかったのだが、在庫がなかった。ちぇー。新橋文教堂さんの営業時間で、品揃えは教文館という本屋が、どこかにないだろうか? できれば銀座、日本橋付近で。

■ 月曜は月曜で、出張明けで要返事のメールがたまっている上、先週金曜に中国政府が発表した某措置関連のニュースの翻訳に追われ、1日ばたばた。同じような内容のニュースを3つも4つも訳して流しても意味がないだろうとは思うのだが、命令とあれば仕方なし。

■ 帰りの機内で、ブランデーを買う。前回深圳で買ったときには列車内に忘れたが(泣)、今回は忘れずに持ち帰れた。毎晩グラスに5ミリくらいずつ飲んでいる。うまい。

でかけま〜す

  • 2007/05/08 06:18
  • Category:
でかけま〜す。
また、来週!

See you next week!

エドワード・ノートン師傅

  • 2007/05/06 21:50
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■ バスルーム2のパイプから水が漏れるので、角の水道電気工事店に出向き、留守番をしていた女性に水漏れ箇所を示した図と住所、電話番号を残し、修理に来てくれるよう頼んだのだが、約束の土曜日、修理に現れた師傅は、予想に反して“American History X”の時のエドワード・ノートンを思わせる若いお兄さんで、びっくり。水電工事の師傅といえば、薄汚れたランニングシャツにパンツで、道具箱を担いで現れる腹の出た中年のおっさんと相場が決まっているので、角の師傅もそんなところだろうと思っていたのだが、なんとなんと、こんなかっこいいお兄さんだったとは。あわてて髪に櫛を入れ、眉など描き足してみる。

■ 描き足したところでどうなるものでもないが、自分が好もしく思った相手には、相手にも好もしく思って欲しいと思うのは、人間の自然な感情である。それに好もしく思った相手の方が、作業にも精が出るというものではないか。それでなくともご当地の工事の出来は、「こら! 中国×千年の工芸の歴史はどこに行った!?」と罵りたくなるほど、一般にお粗末である。数年前、別件で修理に来た師傅など、掃除機をかけたらネジがすぽりと抜けるような工事をして行きおった。今回もそれではかなわないので、エドワード・ノートン師傅に、この前の師傅の技術はあまり褒められたものではなかったことを、それとなく伝える。私の気持ちとしては“それとなく”だったのだが、何しろ不得意な広東語による会話であったので、実のところ歯に衣着せぬ超直接的な言い方になっていたかも知れない。よくわからない。

■ そのおかげかどうか、とりあえず現状を悪化させることなく修理は終わり、水漏れも直ったようなので、一応良しとして修理代を払う。部品3つ替えて600元なり。安くなし。同僚の助言通り、大家殿に請求すべきかどうか迷う。師傅の勧めに従い、故障時の写真は撮っておいたが、さてさて。師傅は愛想よく「また何かあったら、遠慮なく電話してくれ」と言ったが、当方としては何もないことを望む。いくらかっこいい師傅でも、姿を拝むたびに100元札が消えていくのは悲しい。

■ ところで、領収書をもらうために師傅と一緒に店に行ったら、広くもない店の中に段ボール箱いっぱいのLPレコードがあり、中には日本の歌手のものも見えたので「どうしたの、これ?」と聞いたら「昨日、深水ポ(有名な電気街。怪しい品も多い)で買った」と言う。よく見ると箱には『1枚50元〜』と書いてあったが、水道電気工事屋に来て、中古のLPレコード買う人がいるのだろうか? よくわからん。

ユーミン

  • 2007/05/04 13:34
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■ 先日Yさんからユーミンの「水の中のアジアへ」を頂戴し、以来毎日聴いている。「スラバヤ通りの妹へ」「Hong Kong Night Sight」「大連慕情」「わき役でいいから」の4曲入りのミニアルバムで、発売は81年5月。

■ 1ヶ月聴くうちに、ユーミンがわたしに与える影響について面白いことに気づいたので、もっとたくさんユーミンを聴くべく、昨日HMVで最新のベストアルバム「Seasons Colours 春夏撰曲集」を買ってきた。これから毎日聴く。何しろわたしは今まで聴こうと思ってユーミンを聴いたことは一度もないのだ。街の中や、ひとの車の中に流れているユーミンを聞いたことはあるが、CDを買ったことも、借りたこともなく、当然ながらフルで知っている曲は1曲もない。フレーズを頭に浮かべられる曲では「中央フリーウェイ」「卒業写真」「いちご白書」があるが、どれもさわりの一節だけだ。過去46年、ユーミンはわたしのジンセイにまったく交差することなく、ちがう時空を流れてきた。ユーミンはまるっきり“わたしの音楽”ではなかった。もちろんユーミン以外にも、それこそ目もくらむような数の“交差しなかった音楽=わたしの音楽ではなかった音楽”があるのだが、たまたま2007年の今、Yさんによってわたしはユーミンと遭遇した。この遭遇具合が(わたしにとっては)ちょっと面白いので、どうしてそうなるのか、つらつら考えてみたいのだ。

■ ちなみに近所のHMVには、ご当地版と日本直輸入版と2種類のCDが並んでいた。ご当地版の方は159元(約2,400円)、直輸入版の方は330元(約5,000円)。もちろんご当地版の方を買ったが、こちらには日本語の歌詞カードのほかに、中国語の訳詞までついていた。至れり尽くせりでなかなか楽しい。たとえば「卒業写真」の最初のフレーズは、こんな感じ。 ♪毎当有傷心事時就会翻開那皮製封面(悲しいことがあると開く皮の表紙)、畢業写真裡的那人有著一雙温柔眼睛(卒業写真のあの人はやさしい目をしてる) ♪ タイトルでは、「ベルベット・イースター」は「天鵝絨復活節」、「ランチタイムが終わる頃」は「午餐時間結束時」で、まんまである。そのとおりなのだが、なんだか笑える。

■ またCD表面には、『韓国、インドネシア、香港、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイ、中国、台湾国内頒布専用; Only for distribution in Korea, Indonesia, Hong Kong, Philippines, Malaysia, Singapore, Thailand, China and Taiwan』とあったが、これを日本語で表記するのは、安いCDが日本で流通することを警戒してのことなのだろうか。

阿Q

  • 2007/05/03 17:25
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最近、文庫や新書で読みたい本があまりないため、前回の日本行きでは中島敦の「李陵・山月記」や魯迅の岩波文庫版「阿Q正伝」を買って読み返した。「山月記」は高校の教科書で読んだきりだし、魯迅の「故郷」は中学の教科書で読んだきり。そもそも高校、大学の頃は“新しい”本を読むのに夢中で、評価の定まった準古典など「後でもいいや」と見向きもしなかったのだが、齢中年に至り、中身が薄っぺらな割にざわざわとうるさい最近の小説を読むくらいなら、中学、高校の教科書に載るような、文部省(当時)ご推薦の面白くもない古典を読んだ方がまだましかと思い始め、あまたの平積み本は無視してこれらを読み返した。

そして読んでみるとこれが面白いのである。もともとわたしは簡にして要を得た漢文調の文体が好きなせいもあるが、「山月記」の虎になった李徴の自嘲的述懐 − 詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、つまらない人たちの間に肩を並べることも潔しとしなかった。どちらも自分の臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである − など、少しの才には恵まれたが、大成するだけの努力には欠けた人間の弱さについて、こんなに明解に示されては、後世の人間が足すことなどない。

魯迅の短編にしても、中学で「故郷」を読んだ時点では1920年代の中国について知ること甚だ少なく、ただ纏足など“昔の中国”の風俗の描写を面白く思っただけだったが、清末から民国成立の頃の中国について少しは知ってからこれらの短編を読み返すと、「阿Q」にしても「薬」にしても、当時の魯迅が何を思ってこれらを書いたのか、いくらかは思いやることができる。

またわたしは以前から“ポジティブ・シンキング”という考え方に何とも言えない胡散臭さを感じていたのだが、「阿Q」を読むと世間に流布する“ポジティブ・シンキング”の大部分は「阿Q」の誤魔化し(精神的勝利法)と大差ないではないかと合点する。

松岡正剛氏は「千夜千冊」の第716夜で角川文庫版の「阿Q正伝」(増田渉 訳)を取り上げ、種々分析された上で、文章だけ読むと「阿Q」は退屈だという意味のことを書いておられるが(かの高橋和巳氏も退屈だと思われたそうである。へえ)わたしはまったく退屈しなかった。楽しく読んだので、松岡氏が勧めておられる高橋和巳氏訳による『吶喊』(中公文庫)も読んでみようかと思う。

ああ、君だったのか・・・!

  • 2007/05/02 16:15
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■ 前々回の日本出張の時、お客さんが頼んだミニバン・ハイヤーが空港まで迎えに来てくれ、翌日からは1日中、スケジュールに従い各訪問先に連れて行ってくれたのだが、二日目だったかこのハイヤーのドライバー氏が、つくづくと私の顔を見て「どこかで会ったような気がする」という。そう言われてみるとわたしの方も、にこにこと細い目や、がっちりと肉付きのよい身体つきなどに、なんとなく見覚えがある気はしたのだが、東京在住の香港人に知り合いはいないはずだし、香港で会ったにしては記憶があいまいで、はっきりしない。ドライバー氏の方も「会ったような気がする」というだけで、それが日本でだったのか、香港でだったのか思い出せず、二人して「うーん」と言ったきり、あとはにこにこと顔を見合わせるだけで終わってしまったのだったが、今日になって上司殿からこのドライバー氏の名刺を見せられ、そこに印刷された彼のニックネームを見て「ああ!」と思い出した。

■ 彼は、あの男の子だ! 10年以上前、ご当地に来たばかりの頃、わたしと留学時代のルームメイトとの共通の友人にLという香港人の男の子がおり、日本に留学していたことがあって、ある程度日本語ができたのと、仕事があるようなないようなの気楽な身分だったのとで、二人して何やかやと便利に使ってお世話になっていたのだが、そのLの日本留学時代の友人に同じく香港人で、これまたLという名の男の子がおり、広東語のできる人が必要だが、L1が忙しくて都合がつかないときなど、代わりにわたしたち二人のもとに現れ、当座の用を足してくれた。ただこのL2は名前では呼ばれておらず、一風変わった日本語のニックネームで呼ばれていたため、私も友人もニックネームの方で記憶して、L2の本名の方はまるっきり頭に残さなかった。

■ このL2君、日本に留学していたという割には、アルバイトに精を出しすぎたのか、日本語はあまりうまくなく、といって普通話もろくにできなかったので、広東語堪能とは言えない私たちは、意思の疎通に困難を覚えることもなくはなかったのだが、固太りのまるまるした身体つきと、いつもにこにこと細い目、おっとり、のんびりした性格から、意思の疎通ができなくても「ま、いっか」と思わせるのどかさがあり、たどたどしい会話でもそれなりに何とかなった。
記憶に間違いがなければ、確かわたしの1回目のフラットの契約に付いて来てくれたのも彼で、そのあとは二人で、フラットのそばの茶餐庁で海南鶏飯を食べたのではなかったか? そしてその後、借りたばかりのフラットに遊びに来たこともあったし、4人でぶらぶら街歩きをしながら、できない会話を試みたこともあった。当時彼は確か「アクセサリーのデザインをしている」と言っており、友人と二人「あの太い指で、いったいどうやって細々したアクセサリーを作るんだろ?」と顔を見合わせた記憶がある。その後ご当地の宝飾店で「???」なデザインのアクセサリーを見るたびに、「これってもしかしてL2のデザイン?」と思ったりしたものだったが、その彼が10×年たった今、日本でミニバン・ハイヤーの運転手(経営者?)をしているとは! ほんとに、あれまあ!である。

■ 実は来週また彼に運転を頼んでいるのだが、今度は「思い出した! あなた××ね?」と成田で涙の再会ができそうである。

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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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