「元気」

  • 2014/09/30 10:43
  • Category: 言葉
昨日のパーティの疲れが出たのか、今日は雪だるまも私も朝から調子が今ひとつで
ジムには行ったものの、いつもの80%くらいの力しか出ず、何をやっても疲れが先に立つので
メニューを切り上げて早めに帰って来た。
雪だるま曰く “ I don't feel genki today...”だそうである。

“genki”はもちろん日本語の「元気」で、どういうわけだかそこだけ日本語になっている。
雪だるまによれば、この「元気」という言葉は、体調がよくて気分もよくて
やる気とエネルギーに満ち溢れている感じを一言で言い表せて実に便利なんだそうで
そのせいか英語で喋っている時でも、“This plant doesn't look genki.”という風に
よく、まんま日本語の「元気」を混ぜて使っている。
私が笑うと「だって英語には“元気”にぴたり当てはまる言葉がないんだよ」という。
たとえば冒頭の “ I don't feel genki.”を “ I don't feel well.”としてしまうと
単に調子が今ひとつというより、なんだか病気一歩手前、
顔色青ざめ、貧血でも起こしそうな感じで、
聞いた方も「だいじょうぶ? そこのベンチで休む?」とか、
深刻に心配してしまいそうな雰囲気なんだそうだ。
だからついつい日本語の「元気」をそのまま使ってしまうのだそうで。

もっとも雪だるまが「元気」を英語の中に混ぜて使っているのは
話している相手が私だからで、日本語を知らない相手に
「genki」を使うことは、まさかないだろうと思う。
相手に意味が通じなければ、使う意味はないのだから。

もっとも、相手がわからないと知りつつ、ついつい癖で使ってしまうという言葉はあるようで
たとえば文末の「…ね?」が、それだ。
この相手に同意を求めたり、確認を求めたりする日本語の終助詞「ね」は
雪だるまの脳内、言語中枢にすっかり定着してしまったらしく、
「genki」よりずっと頻繁に雪だるまの英語に登場し、
私と喋っている時はもちろん、お義父さんやジェリー相手に喋っている時でも
、“…, ne?”と、文末にぴょこりと添えられている。

私は「こらこら、英語の最後に“ne”なんか付けるなよ」とついつい
にやにやしてしまうのだが、面白いので指摘して矯正する気はない。
香港人やシンガポーリアンだって、英語の最後に広東語の語気助詞くっつけて
喋っているのだから、カナダ人が英語の最後に日本語の終助詞をくっつけて喋っても
バチは当たるまい。

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お誕生日会

  • 2014/09/29 06:05
  • Category: 雑記
今日はジェリーの誕生日で、ジェリー、お義父さん、フランス、M伯母さん(お義父さんの姉)が
うちにご飯に来る。
もう一組、P叔母さん夫妻も呼んであったのだが、当の叔母さんが昨日ハチに刺され
症状が結構ひどくて臥せっているので今日は行けないと、さっき叔父さんから電話があった。

朝すでに7人分のチキンの下ごしらえをしてしまったので
(ベジの雪だるまはチキンは食べないから7人分)
余分になってしまった2人分のチキン、どうしよう?という感じなのだが
下味をつけてしまったチキンを、いつまでもそのままにしておくわけにはいかないので
まあ明日と明後日、私が食べるしかないのだろうな。
幸いチキン以外はまだ準備を始めていなかったので、料理が余り過ぎて困るということはないと思う。
最近やっと「作り過ぎない」ということを学びつつある私なのである。

以前の私は、食卓に隙間があるといかにも寂しく間の抜けた感じになるのが嫌で
会食というと、これでもか!というほど料理を作り、
その度に雪だるまおよび欧米系の出席者から
「作り過ぎだよ」とか「こんなに料理は要らないんだよ」とか言われていた。
彼らにとってはパーティの主眼は会話で、料理は二の次なのだとわかってはいても
10人の客に20人分の料理を作る私の癖は、なかなか治らなかった。
ひとつには、私はその彼らにとってのパーティの主眼、“会話”というものに
自信がなかったからで、喋ることで客を楽しませることができないのなら、
せめて料理で場を繋ごうと、無意識に大量の料理を食卓に並べていたのだと思う。
(だって食べるのに忙しければ、喋らなくて済みますからね)

しかし、あれこれと人を呼び続け、「作り過ぎだ」と言われ続けて十数年
さすがに最近は、人数×2の料理を作ることはなくなってきた。
せいぜい20%増し。
今日も主菜のチキンと付け合せ3種のほかは
チーズ、ハム、ピクルスなど出来合いの前菜とクリュディテ(生野菜のディップ)だけ。
これに雪だるまが作ったデザート(リンゴと梨のメープルシロップ味のクランブル)でおしまい。
だいたいが食いしん坊揃いの雪だるま家とはいえ、お義父さんも伯母さんも80歳超。
そんなに量を食べられるわけはないのである。

さて5時だ。
そろそろ食卓の準備をせねば。
ではまた。



裏の林

  • 2014/09/28 11:54
  • Category: 雑記
裏の林から、チェーンソーの音が聞こえる。
誰かが木を伐っているのである。

ウチの裏庭と地続きの裏の林は、もちろん他人様の土地なのだが、
そのうちウチの裏庭に接した10フィートばかりだけは、ウチの所有となっている。
前オーナーが、ウチの敷地ぎりぎりに接するかたちで隣家が建てられるのを恐れて
プライバシー確保のために10フィートばかり買い足し、
雑木林のままにして、隣家との間に木立という遮蔽を確保したのを
ウチがそのまま引き継いだのである。

ウチの分は10フィートだけだが、私も雪だるまもこの裏の林が大変気に入っている。
夏も冬も、野鳥やリスなどの小動物がよく集まり、枝に止まって囀っていたり
木から木へ渡るのが見えたりするし、秋になればメープルやオークが紅や黄に色づいて
華やかな色彩を添える。
雪が積もれば、クロスカントリースキーで林を抜けていく人も見える。
新開地とは言え住宅地の中の林だから、さほど広くはないのだが、
それでも人の手が加わっていない自然のままの雑木林は、
景観を考えて木々が配された都会の公園とは全く違う
穏やかさを感じさせてくれる。
私はよく裏庭に面したフランス窓のそばのソファに座って
編み物をしたり本を読んだりしているが
それはそこから見える風景が雑木林だからで、
これが隣家の裏庭で、子どもたちが遊んでいたり、奥さんが洗濯物を干したりしていたら、
とてもではないが、のんびり座っている気にはなれないと思う。
雪だるまも同様である。

なのでここに引っ越して以来、私と雪だるまはこの裏の林を現状のまま維持したいと考え
そのため、できることなら10フィートだけでなく林全部、
それが無理ならせめて半分だけでも買い取って、住宅地にされてしまうのを防ぎたいと思っているのだが
先日、例の芝生への水撒き許可を貰いに行ったついでに町役場で聞いたところでは
裏の林の所有者はどうやら個人ではなく会社らしく、アパート建設用地として所有しているらしい。

確かにここ2、3年、ウチの町ではアパートの建設が盛んである。
かつてこの町の産業の柱だった製紙工場もアルミ工場も次々と閉鎖し
雇用状況は悪化しているのに、アパートだけは新しいものがあちこちに建てられている。
ウチの周りにもすでに3棟、新しいアパートが増えた。
私と雪だるまにとっては、戦々恐々の状況である。

今日の木の伐採が、新たなるアパート建設のための準備なのか
単なる雑木林の手入れに過ぎないのか、今はまだわからないが
もしアパート建設準備だったとしたら、残念至極。
就職口は減っているのだから、アパートを建てても入居者はいないと思うのだが
不動産業者はそうは考えないのだろうか。
自分勝手な言いぐさではあるが、裏の林がなくなったらさみしいなあ。



物忘れ-傾向と対策

  • 2014/09/27 10:34
  • Category: 雑記
今日は朝からぴかぴかの上天気、空は真っ青に晴れ上がり
冷たい東風も吹かず、まるで夏の名残のような暖かさ。
気温も23度まで上がって、半袖で過ごせた。
この間、零下に下がり、毛布を膝に巻きつけてソファに座っていたのがウソのようである。
天気予報によると日曜まではこんな陽気が続くが、そのあとはまた寒くなるようで
暖かさを楽しめるのも、あと二日か。

それはともかく、4月以来医者の命で毎朝タモキシフェンを呑んでいるのだが
千篇一律の単調な毎日を送っているせいか、はたまた記憶力が急速に衰えてきているせいか
ここ何回か、朝、薬を呑んだかどうか思い出せないことがしばしばあった。
朝食が終わってしばらくしてから、ふと「あれ、薬のんだっけ?」と
ティーポットのそばに置いてある薬の瓶を見るのだが、じいっと考えても
呑んだかどうか、はっきり思い出せない。

これではいかん!と、一時は蓋に曜日が書いてあり、
呑んだかどうか一目でわかるようになっているピルケース

こういうやつですね ↓

pill case

を買おうかとドラッグストアにも行ってみたが、
値段を見ると、これが結構高い。
ただのプラスチックケースのくせに、3~5ドルくらいもする。

こんなものに3ドルも払うのは嫌だと思ったので
何か代わりになるものはないかと、あれこれ考え
思い付いたのが、携帯用クリーム入れ。
旅行の時など、手持ちのクリームを小分けにして詰めるアレである。

蓋に曜日は書いてないが、週の初めに、1か月分の薬が入っている薬局のケースから
1週間分7粒の薬を取り出してこのケースに入れ、そこから毎日1粒ずつ呑んでいけば
その残量によって、その日飲んだかどうかは、すぐわかる。
たとえば水曜なのにケースに4粒残っていれば、呑み忘れているということである。
いくら曜日関係なしの無職の身でも、今日が何曜日かくらいは普通覚えているし
たとえ忘れても、コンピュータやカレンダーを見れば、すぐにわかる。
おまけに小さくて、じゃまにならない。便利である。

その後よくよく考えたら、私は昔ヨークの銀細工店で買った銀のピルケースも持っていたが
これは細工が繊細すぎ、また蓋の留め金も華奢にできていて、どちらかというと飾り物。
あまり日常使いには向かない。
1つ50円もしないような携帯用クリーム入れの方が、美しくはないが、ずっと実用的である。


きれいなのはこっちだが

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こっちの方が気軽に使える

IMG_4466.jpg

かたつむり

  • 2014/09/26 10:27
  • Category: 言葉
学校から連絡があった。
とりあえず来週の火曜が、第一回目の授業だそうである。
時間は午後1時。

先日の説明会では、誰が担当教師となるかはまだ決まっていない
と言っていたが、初回が火曜の午後になったということは
今年もジョゼが担当してくれるのかもしれない。
説明会の時ジョゼは「もし私が担当するようなら、申し訳ないが
火曜と木曜の午前は都合が悪い」と言っていたから、
その時間帯を外してあるということは、今年もまた彼女である可能性は高い。

いつだったかジョゼが言っていたが、有資格者のうち誰が担当するかは
学校ではなくサンディカ(教職員組合?)が決めるのだそうで
したがって、毎年同じ人が担当するとは限らないのだそうである。
県立なら県の、市町村立なら市町村の教育委員会事務局が
教職員の異動先を決める日本とは事情が違うらしい。
ふううん、である。

それはともかく、生徒数14、5人ではまた今年も1クラス編成だろうから
生徒のレベルはごちゃまぜ。フランス語ゼロの生徒も何人かいるようだから
またまた、ABC(あーべーせー)から始めるのだろうと思う。
復習は語学の要、復習無くして語学の習得はあり得ない!のだから
また振出しに戻ることに対して「あーあ」なんて言ってはいけないし
日常的にフランス語を使っていないため、文法などお勉強としてのフランス語はできても、
聞く、話すがからっきし駄目な私であるので、同じことを何度も繰り返せるのは
悪いことではない。

学校は今期で3年目。日常的に使っていないし、ものすごく熱心に勉強しているわけでもないので、
相変わらず片言もいいところだが、少しずつだが知っている単語数が増え、
言える言い回しも増えてきた。
そういえば火曜日、お義父さんちへ夕食に呼ばれて行った時には
初めて食卓での会話に口を挿むことができた。
最初の二言、三言だけがフランス語で、その後は結局フランス語で言えなくて
相手がわかるのをいいことに英語になってしまったが
それでもフランス語で交わされていた会話に口を挟めたというのは
私にとっては画期的なことなのである。
過去ずううううううっと、食卓ではただにこにこしているだけ。
何か問われれば答えるが、お義父さん、伯父さん伯母さんたちが
ケベック訛りで機関銃のように喋りまくる食卓での会話に
自ら口を挿む/挿めたことはなかったのだから。

3年かかってたった一言なのだから、かたつむりの歩みが光速に思えるほどの
歩みののろさだが、まあとりあえず前に向かって進んではいる、というか
後退はしていないということで、また今年もぼちぼち、のろのろ歩を進めよう。

ばいばい、おうち

  • 2014/09/25 11:30
  • Category: 雑記
妹から、実家処分の件が決まったと連絡があった。
実家の前に住むSさんに、居抜きで譲る。
解体せず、中の家具、什器一切、片付けない代わり、無償譲渡。
司法書士等の法務費用はあちら持ち、だそうである。
こちらの持ち出しにならずに済んで、ほっとした。

都会なら、たとえどんな土地だろうと更地にすれば買い手がいるだろうが
田舎ではそうとも限らない。
まして実家は立地がやや特殊で、幹線道路からウチへの通路が
Sさんちの庭を通り抜けるようなかたちでついている。
地図の上ではちゃんと道路なのだが、ぱっと見、そうは見えない。
人の家の庭を通り抜けて、ウチに入るようにしか見えないのである。
そしてそこに築40年超の木造家屋が建っている。
父がグループホームに移ってからは誰も住んでいないので、
すでに4年近く無人のまま、掃除もしていない家である。

Sさんからは以前から「売ってもらえないか?」という話がきていたのだが
父が生きている間は、売れなかった。
父の名義だから売れなかったのではなく、40年余り前、父と母が苦労して建てた家を売ってしまっては
父がどんなにかがっかりするだろうと思い、売るに忍びなかったのである。

しかしその父も今年2月に亡くなった。
妹も私も、今後実家を住居として利用することがあるとは思えず
それなのに固定資産税を払い続け、また掃除や、
人が住んでいないから傷む一方の家の手入れに、頻繁に通えるわけでもない。
Sさんが居抜きで貰ってくれると言うなら、渋る理由はないのである。

ただ困ったのは、私の荷物だ。
実家にはまだ数百冊の本のほか、個人的な手紙や書類、写真など
細々したものが置いたままなのだ。
あれを全部ゴミにしてしまうことは、いくら何でも出来かねる。
幸い、今のところSさんが使いたいのは1階だけで
2階を利用するつもりはないようなので
2階の奥の部屋(=かつての私の部屋)は、
来年1月、私が日本に行くまで、そのままにしておいてくれるよう
妹からSさんに頼んでもらうことにしたが
はたしてそれでなんとかなるか。

いずれにせよ、これで日本には家もなくなった。
父もなく母もなく、残っているのは妹だけだな。

『To play the fool』

  • 2014/09/24 05:17
  • Category:
編み物のBGMに、ローリー・R・キングの『To play the fool』を聞き始めた。翻訳ではもう何度も何度も読んでいるが、原作を聞くのは初めてである。

これは愚者(Fool)であろうとした男ブラザー・エラスムスがすじの中心になっているので、刑事であるケイトとその恋人でセラピストのリーとの会話、ブラザー・エラスムスを知る人々の陳述など、話のそこここに愚者や道化、トリックスターについての考察がちらちら現れる。それが面白い。さすが神学、宗教学を専攻した人だけのことはある。衒学と言われようと何と言われようと、そういう味付けの部分がなければ、推理小説を読む楽しみなどない。

そして、愚者/道化というと私はどうしても、映画『Twelfth Night』(1996英)でベン・キングスレイが演じた道化を思い浮かべてしまうのだが、それは彼の道化がそれまで私が知っていた道化、愚かしい振る舞いや馬鹿げた言動、白々しいお追従を振りまいて王の周りをうろうろする道化とは完璧に異なる道化であったから。

『To play the fool』の中でリーも言っている。
「そうだ、中世では宮廷の道化だけが王様に本当のことをしゃべってもよかったのよ。クラウンはその道化の変化したものね」と。

そして同本の冒頭には、その当の『十二夜』から、オリヴィアのせりふが引用されている。

あの人は利口だから阿呆のまねができるのね。
阿呆をつとめるにはそれだけの知恵がいる。
冗談を言うにも、相手の気持ちを探り、人柄を見きわめ、
時と場合を心得ていなければならない。そして、
鷹のように目の前を横切る獲物をのがさず
捕らえなければならない。これはたいへんな仕事だわ。
利口な人が知恵を働かせる以上に。
(シェイクスピア『十二夜』 小田島雄志訳)

まさにその通りなのだが、今、手持ちの『十二夜』で上記のせりふをあたってみたら、これには続きがあった。私が持っているのは岩波の小津次郎役のもので、だから少々調子が違うのだが、
「あの人がみせてくれたあのみごとな阿呆ぶりは大したものだけど、妙な拍子で賢い人が阿呆なことをやり出すと、ばかばかしくて見ちゃあいられない」
と続くのである。
いや、ご尤もだが、賢くない私は心配の要なし。馬鹿がばかをやる分には、誰も何も言うまい。だって言っても無駄だから。

別に何の役にも立たないのだが・・・

  • 2014/09/23 10:30
  • Category: 雑記
昨日は朝、家の中に入れたパームの鉢を移動させようとしてかがみこんだとたん
パームの尖った葉っぱの先が右目に入ってしまい
もちろん反射的に目を閉じはしたのだが、しばらくはうるうるの涙目
夜になっても充血が取れず、なかなか難儀した。

さんざん目薬を差して、一晩寝たら普通に戻ったが
こういうアクシデントは一回でたくさん
これからはパームに近づく時には、右目を閉じて近づくことにしよう
まともに字が読めるのは右目だけなのだから、これを失うわけにはいかんのだ

ところで、しばらく前にウェブサイトで見てから
欲しいなー、欲しいなーと、ずっと  状態なのが、これ
フェリッシモの壁に貼るシール
『物陰からひょっこり顔を出す 動物たちのウォールシール』というやつなのだが
ちょっととぼけた動物たちの表情が、なんともいいのである

wallseal2.jpg


特に好きなのが、犬

wallseal.jpg


欲しがって手に入れたからと言って、貼れる所は限られているし
何の役に立つわけでもないのだが、なんとなく忘れがたくて
折に触れてフェリッシモのウェブサイトに行っては
「いいなー、欲しいなー」と眺めている

Butt Dance

  • 2014/09/22 11:48
  • Category: Dance
先日、あるダンス・ルーティンで聞いて以来、妙に気になってようつべで検索
お気に入りに登録して、頻繁に聞いている曲





“Koop”というスウェーデン出身のデュオの曲である。
まるで昔々のシャンソンのような、もの悲しいメロディーが
1920年代のモンマルトルあたりの薄暗がり
ぼんやりと黄色いガス灯、いびつな石畳、安酒場から微かに聞こえてくる音楽、
酔って、おぼつかない足取りで歩いて行く男と娼婦
なんてのを連想させるが、これはまったく私の勝手な想像、イメージ
ほんとのところは、全然違うコンセプトで作られた曲かもしれない

ちなみに、この曲が使われたのは通称 “Butt Dance” と呼ばれている作品
女と、その彼女のお尻(butt)から目が離せなくなってしまった男を描いたダンスである
振り付けは Mia Michels、踊っているのは Randi と Evan




もうひとつ、Amelia と Will が踊っているバージョンもあるが





私には、女の役はランディでもアメリアでも、味わいに微妙な差はあるものの、
どちらでもそれなりによいが、
男の役 “彼女のお尻から目が離せなくなってしまった冴えない男”の役は
背の高いウィルではちょっと格好よすぎ、ここはやはり小柄でたれ目のエヴァンの方が
説得力があるように感じられる
ダンスはまあ、どちらもうまいのだけど

この一週間

  • 2014/09/21 07:02
  • Category: 雑記
9月20日(土)
雪だるまが、右の股関節の調子が悪いと言う。7年前に人工股関節を入れた箇所である。左も人工股関節だが、左は痛くないらしい。雪だるまは、来年1月、香港に行った時に、人工股関節の手術をしてくれた執刀医に診てもらうと言っているが、そんな悠長なことでいいのか? いくら末とは言えまだ9月。香港に行くまでには、4か月もある。どうもおかしいと思うなら、さっさと当地の医者に診てもらった方がよほど安心だろうと思うのだが、雪だるまは「執刀してくれた医者の方が詳しいから」と、当地の医者のアポを取ることに熱心でない。確かに執刀医なら、どんな手術だったか、どんな股関節を入れてあるのか十分承知していて面倒がないだろうが、それにしても香港に行くのは来年である。気の長さ、呆れるばかり。
それにそもそも香港に行ったところで、当の執刀医殿がいまだ香港に居るとは限らない。地元香港人の医者ならいざ知らず、欧米系の医者は移動する。とっくの昔に、本国に帰っているかもしれない。かく言う私達だって、移動してしまっているのである。いつまでも同じところにいると思うな鬼佬医者、である。
さっさとケベックの医者に診てもらえよ、雪だるま。私は心配だ。

9月19日(金)
夜半、急に気温が下がったらしく、朝起きた時、寒暖計が示した外気温はマイナス0.5℃。とうとう零下である。前日まできれいに咲いていた玄関先のベゴニアが、1晩で枯れた。マリゴールドも、みじめに葉が赤茶けた。秋を通り越して一気に冬か、ケベックよ? いくら何でも、早すぎないか?

それはともかく、スコットランド独立の可否を問う住民投票は、反対派が勝利したようで、まずはめでたし。私自身はスコットランドの独立の是非についてどうこう言う立場にないが、賛成派が勝利した場合、PQ(Parti Québécois :ケベック党)の有志諸兄が勢いづいて、再度ケベック独立を言いだしかねず、そうなると対岸の火事とばかりは言っていられない。わが身に火の粉が降りかかってくる。それは困る。雪だるまには「ケベックが独立したら、私は他州に引っ越すからね!」と言ってあるが、本当のところ、そう簡単に他州に移動できるわけはなく(単身で移動したのでは、ファミリーヴィザが下りないだろう)、ケベック国の住人になるしかないのは目に見えている。ナショナリズムの強いところで暮らすのは、私は怖い。

9月17日(水)
2014/15のフランス語教室についての説明会。近所に住む王さんを拾って、一緒に学校へ行く。小さい会議室は人でいっぱい。この間いっしょにごはんを食べた、隣町に住む日本人女性Aさんも来ていて、驚き、喜ぶ。ざっと数えてみたところ、今年の生徒は14、5人。よって授業数は週12時間の予定だそうである。1日3時間として週1日は休みがある計算で、少しほっとする。授業があるのは何曜日なのか、午前か午後かは、まだわからない。来週中に学校から各自に連絡するそうである。新しい顔は、中国人の女の子が2人、ペルーとドミニカ共和国の男の子が各一人、メキシコ人女性が一人、オンタリオからの男の子が一人、そして去年クラスにいたアミール君の継母にあたるパレスチナ人女性Mさんも、今年は夫=アミール君の父君M氏と共に(時間の都合がつけば)参加の予定らしい。私はずっと、いくら小さい子供がたくさんいるからと言って、アミールのbelle-mère(フランス語では、継母も義母もbelle-mèreである。実に紛らわしい)が学校に来られないのは残念だと思っていたので、彼女がM氏と共に説明会に現れたのを見て、大変うれしかった。子どもが計6人、一番小さい子が3歳では、毎回学校に来るのは大変だろうが、全く来られないよりはまし。クラスには、同じくアラビア語を話すモロッコのファラもいることだし、なんとか楽しく続けてもらいたいものである。

9月12日(金)
隣町に住む日本人女性Aさんと誘い合わせて、隣の市へご飯を食べに出かけた。彼女に会うのは、5月以来である。2人とも仕事をしておらずヒマ、とは言っても、彼女はお子さんがいるし、私は仏語教室やジムに出かけたりしているので、なかなか会うチャンスはないのである。
で、出かけた先は、彼女が以前に行ったことがあり、美味しくてかつお店の人の感じがよかったというタイ/カンボジア・レストラン。以前にも書いた通り、当地のレストランのハズレ率は高いので、さほど期待してはいなかったのだが、案に相違してここは美味しかった。しかも4種のランチメニューは、どれも前菜/スープ、主菜に、デザート、コーヒー/ジャスミン茶がついて$15前後と、値段もリーズナブル。私は春巻きの前菜に、主菜は海老の天ぷら(いや、もちろん、そういう名前ではなかったんだけれども、フランス語の名前は覚えられなかったのだ。ナントカ panée ナントカだったとは思うのだが…)、彼女の方はトムヤム風のスープに、なんだか妙にたくさん人参が入った主菜を頼んでいた。私は海老のしっぽも、付け合せのレタス、ごはんも、全部残らずきれいに平らげた。デザートのココナツミルク・タピオカもおいしく、ついでに彼女の言うとおりお店の人も大変感じがよく、私は幸せな気分で店を出た。
ちなみにお店はお母さんと息子二人でやっているらしい。彼女が聞いたら、カンボジアの人だと言う。もう20年近くここに住んでいるそうで、ということはクメール・ルージュのあと、難民としてこちらに来たのかもしれない。そういえばウチの町にも隣の市にも、カンボジアレストランは複数ある。みな80年代以降、難民としてこちらに来た人たちかもしれない。
話は飛ぶが、ポルポト時代を描いた、最近見た映画『The Missing Picture』は、秀作だった。粘土人形を使って、あの時代を淡々と描く。ナレーションをフランス語で聞いたせいか、私にはよけい“静かな”という印象が強まった。英語で聞けば、また違った印象だったかもしれない。

そろり、そろりと秋が来る

  • 2014/09/12 04:01
  • Category: 雑記
朝から雨。このところ朝晩の気温が10度を切り始めたので、そろそろデッキに出している鉢植えを家に入れなければ。ユッカにしろ、パームにしろ暖かいところの植物。霜が降りる前に入れないと枯れる。

庭のメープルたちも微かに色づき始めたようで、どうも世の中は秋に向かってまっしぐらのようす。一昨日には学校からも連絡があり、来週の水曜に2014/15の仏語教室の説明会をするそうで、3か月の夏休みもとうとう終わりである。またあの忙しい日々が始まるのか、よよよ…

とはいうものの授業が週何回になるかは生徒数によるので、ほんとのところ忙しい日々かどうかは、蓋を開けてみるまでわからない。生徒数が10人以下なら、週2、3回がせいぜいだろう。昨年(2013/14)の月~金まで週5日、毎日3時間という時間割は私的には少々しんどかったので、生徒数が少なくて週3日くらいに減るのなら、その方がありがたい。いくら暇な身の上でも、毎日、毎日出かけるというのは、出不精で人付き合いの苦手な私には結構精神的に負担で、なんだか疲れ果てたような気分になってしまっていたのである。

学校へ行くのに疲れ果てていたのは、昨年ほとんどひっきりなしに、車のないクラスメートの送迎を引き受けていたせいもある。別に私設スクールバスをやっていたわけではなく、ただ近所に住むクラスメート1、2人を学校へ行くついでに拾い、帰りに送って行っただけの話なのだが、秋の初めはデンマークのロッテ、ロッテがフロリダに出稼ぎに行ってからはキューバのJ君、J君が学校を辞めてからは近所の王さんと、常に誰かと一緒だった。これがヒトといるのが苦手な私には、かなり辛かった。気さくで人柄のよい、社交的な人なら、クラスメートと一緒に学校へ行き、帰ってくるのは毎日の楽しい行事だろうし、行き帰りのお喋りも楽しみだろうが、いかんせん、私は社交的ではない。いつか世間話の話題の時に書いたように、喋るのも嫌いだ。しかしまさか道中ずっと押し黙っているわけにもいかない。だから無理して何か喋る。これがしんどい。しかも使用言語は仏語か英語か中国語だ。母語の日本語で喋れる相手は一人もいない。しんどさの二乗。ああ…

そんなにしんどいならクラスメートの送迎など引き受けなければいい、と思われるだろうが、ここは公共交通機関のほとんどない田舎。免許がない/車がない(この田舎で車がない家はまずないが、一家に1台の場合、たとえば配偶者が車で出かけてしまうと残った者は乗る車がない)人は、誰かが送迎してくれなかったら、学校へ行く手段がないのである。それは、あんまりである。そんな状態のクラスメートがいるのに、見て見ぬふりはできない。だから頼まれなくても送迎する。そして「ふえー、疲れたよぉ」と、ぜいぜいしながら家に帰り着く。我ながら因果としかいいようのない我が性格である。

日本語を聴く

  • 2014/09/07 01:32
  • Category: 言葉
このところ何をしていたかというと、日本語を聴いていた。日本語の補給である。自分が喋る日本語以外、日本語を聞けなくなって久しく、語彙も言い回しも錆びつく一方だったからだ。

聴いていたのは藤沢周平さんや平岩弓枝さん、池波正太郎さん。時代小説に傾いたのは好みの問題もあるが、もうひとつ、この方たちの日本語が昭和の日本語だからという理由もある。昭和の半ばに生まれた私は、昭和の日本語の中で育った。日常生活の中で聞き、話し、読み、書きしたのは昭和の日本語で、それが私の文章のもと、語彙、言い回し、表記の仕方を形作った。もちろん読書として明治の日本語も読んだし、平安や江戸の日本語も授業の中で読みはしたが、それらは昭和の日本語というベースの上に乗っかった飾りであって、血肉とはならなかった。

一方、今の、平成の日本語は、私には馴染みがない。平成5年半ばに日本を出、その後20年余を外地で過ごしてしまった私は、その間に流行った言葉、表現、事象を、ほとんど知らない。ネットで新聞や雑誌記事を読んではいたが、日本で毎日を過ごしていた人たちに比べれば、その間に浴び、取り込んだ日本語の量は圧倒的に少なく、平成の日本語は私の中に十分入り込んでいない。それを証拠に、最近作られた日本映画を見ていると、登場人物たちの会話、受け答えに、微妙な違和感を覚えることがよくある。何でもない場面の、何でもない会話なのだが、私が覚えている日本語とは、微妙に言い回し、イントネーションが違う。それが耳に引っかかる。そして、そういえば先日、日本から遊びに来ていた高校生、Mちゃんもそんな話し方をしていたなあ、これが最近の日本語なのかもしれないなあ、と思い当たる。いずれにせよ、ここがこう違うとはっきり指摘はできないものの、それは私の日本語ではないし、真似もできない。よって、私は馴染んだ古巣、昭和の日本語に戻るしかないのである。

で、その結果がまあ、藤沢周平さんであり平岩弓枝さんであるわけなのだが、聴いていてしみじみ楽しいのは何と言っても藤沢周平さんである。彼が描くのは時代を画する英雄や傑物ではなく、何でもない市井の人々、武士なら小藩の下級武士あたり。武士とは言っても内職をしなければ食べていけないような、貧しく、名もない人たちである。映画で有名になった『たそがれ清兵衛』にせよ『祝い人助八』にせよ(ちなみに、映画『たそがれ清兵衛』のストーリーは上記2編と『竹光始末』を合わせたもので、同名小説とはかなり筋が異なる)、絵に描いたような貧乏侍。普段は身なりに構う余裕もなく病妻の世話に明け暮れていたり、勝気な妻の尻に敷かれて汲々としていたりする。達人級の剣の腕はあっても、それを使うことは考えていない。意気地がないというより、それで成り上がろうという野心がないのである。(このあたり、ほとんど平成の“草食系男子”のようだが、この使い方は正しいか?) たとえば『たそがれ清兵衛』の清兵衛など、上意討ちの討っ手を引き受ける褒美として願うのが、自身の役替えでも加増でもなく、病妻のためのよい医者と湯治費用の工面で、聞いた家老があっけにとられる始末。それでも清兵衛は「他にこれといった望みはない」のである。

何事か成したいという大志や野心を持つ人にとっては、こうした小さな幸せに満足し、淡々と日々を送るだけの人生は甲斐ないものと映るだろうが、清兵衛同様、大志も野心もなく、田舎で庭仕事と編み物をしながら何事も成さない日々を送っている私は、それで十分じゃないか、と思う。何も全員が偉人、傑物にならなくてもよいのである。小市民、大いに結構、と思う。

水遣り

さて、芝を敷いたからには水遣りをせねばならぬ。
前回の写真でおわかりの通り、芝(sod)は表土の上にカーペットのように乗っているだけで、根は土まで届いていない。
水遣りをせねば、あっという間に枯れる。

というわけで表土剥がしの済んだ翌日火曜、町役場へ行って水撒きの許可を貰って来た。
当町の規則では、芝生へのスプリンクラーによる散水は週2回、3時間ずつに限られているが
敷きたての芝生は、この散水量では全然足りない。
よって「新たに芝を植えて毎日の散水が必要な人は、別に許可を取ってください」となっているのである。

それがこれである。

IMG_4425-2.jpg


黒で消したところには、雪だるまの名前と住所が書いてあり
その他、許可番号、散水開始日、終了日なども記載されている。
これを散水する芝の近くの見えるところに貼っておきなさい、ということである。
でウチは、ドライブウェイそばの窓に貼った。
別に大きいものではなく、ふつうのレターサイズなので、道からでは記載内容は見えないが
用紙いっぱいの水色の枠の中に水色の斜線が引かれ、見る人が見れば何の許可証だか一目瞭然にわかるので
それでいいのである。

ちなみに毎日3時間ずつ、10日間の特別散水のお代は30ドルだった。
それでウン千ドルかけた芝生が生き延びるなら、安いものである。
おまけに上記の1日3時間までの散水制限は、スプリンクラーによる自動散水に対してであって
人がホースを持ってやる散水なら、いつ何時間やってもいいのである。
(と言っても、都会の猫の額のような庭ならいざ知らず、この田舎で、人が手動で散水して
何とかなるような庭は多くないだろうけれど)

でウチも、芝が敷かれた火曜の夜から、さっそく散水を始めた。
毎日3時間散水していいとは言っても、時間は決められている。
朝4時-7時、または夜7時-10時のどちらかである。
タイマー付きの完全自動スプリンクラーならいざしらず、
ウチのスプリンクラーはホースに繋いで蛇口をひねる半自動。
朝4時起きは辛過ぎるので、散水は夜、実施することにした。

庭の蛇口は東西に2つ、ガレージのと合わせて3つ。
それぞれにホースをつなぎ、スプリンクラーを繋ぐのだが、スプリンクラーの水が届く範囲は限られている。
一か所に置きっぱなしでは庭全体をカバーしきれないので、3時間を45分ずつに区切り、
スプリンクラーを移動させる。
それでもカバーできない部分は、翌日、ホースで散水する。

2、3日やってみてわかったが、これは結構大変である。
スプリンクラーは、蛇口をどのくらい開けるかによって水の届く範囲が変わるから、
そのつど微妙な調整が必要だし(開け過ぎて隣の家のドライブウェイや道路を水浸しにしては近所迷惑だし、
かといって開け方が小さ過ぎては、庭をカバーしきれない)
45分ごとにその時やっていることを中断して長靴履いて庭に出て、
水を浴びそうになりながらスプリンクラーを移動させるのも結構ホネだ。
ことに撒き始めの7時は明るいからまだよいが、8時を過ぎると庭は暗くて
水がどこまで届いているのか、今ひとつよくわからないし。

本当は2、3日、雨が降ってくれれば一番良いのだ。
雨なら庭の隅から隅までカバーしてくれる。
降り方にもよるが、スプリンクラーによる45分の散水なんかより、水の量もずっと多い。
自然の雨なら、町の水道という資源の無駄遣いにもならない。

天気予報によれば昨日も今日も雨のはずなのだが
しかし、これがなかなか降らない。
今も空はどんよりと曇り、湿度90%以上で今にも降り出しそうな様子のくせに、降り出さない。
雨乞い踊りでもしたい心境である。






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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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