うれしい気持ち

異常に暖かかった日々が終わって、気温が元に戻った。
ただ今、12月30日(火)朝7時半の外気温はマイナス19.7℃。日中の最高気温はマイナス14℃だそうである。雪がなくなってむき出しになったデッキの床も、木の表面の水分が凍るのだろうか、霜でも降りたように白っぽく光っている。たぶん歩くと、寒いとき特有のきしきしした音を立てるのだろうと思う。

ところで今年のクリスマス、お義父さんからはデジカメを頂戴した。キャノンのパワーショットSX700HSというやつである。以前、自分で買ったデジカメはすでに齢10年。購入当初に比べ色がきれいに出ない、AFなのにピントが今ひとつなど老化の兆候を見せ始めていたので、そろそろ新しいのを買おうと色々サイトを見ていたところだった。なので、お義父さんから渡された四角い箱からデジカメが出てきた時には、正直大変うれしかった。

しかも光学30倍ズーム、Wi-Fi機能など、私が買おうかと考えていた機種よりはるかにスペックがよく、カメラにも写真にもおよそ詳しくない私には勿体ないような高機能。試しに庭にカメラを向けてみると、以前のカメラだったら点にしか見えないような距離にいる鳥でさえ、まるでカメラのすぐ先にいるような大きさに捉えることができ、しかも画像は鮮明。庭に来るリスや鳥を撮っては喜んでいる私のために、いろいろ考えて選んでくれたお義父さんの心遣いを、心から有難く思った。

で、問題はここからだ。私はカメラを貰ってすごく嬉しかったし、お義父さんに対して感謝の気持ちでいっぱいだったのだが、それをお義父さんにわかってもらうためには、言葉と態度にして表現しなければならない。私としては過剰なほどの言葉と態度で、表現しなければならない。控えめな言葉で感謝を表すのが床しいというような文化はここにはないし、まして言わぬが花、以心伝心なんかあり得ない。気持ちは、言わなければわからないのだ。

ところが、私は昔から嬉しい気持ちを表現するのが苦手である。子どもの頃から、母によく言われた。「お前は何かを買ってやっても、ちっとも嬉しそうな顔をしない。妹とは違って、まったくモノを買ってやりがいのない子だ」と。それは長じても変わらず、香港で働いていた頃も、モノを渡された後の私の顔を見た同僚(日本人)から「あ、要らなかったのなら正直にそう言ってね」と言われた。私はかなり嬉しく思っていたのだが、それが顔に全く現れていなかったらしい。冷静沈着といえば聞こえがよいが、こと喜びと謝意を表すべき場面では、実に損な性分である。

なのでこちらに来てお義父さん始め、雪だるまの家族と接するようになってからは、努めて過剰に感情を表現するよう努力してきた。謝意を表すなら、当然、ハグとキスつき。言語障壁により洗練された言葉づかいで謝意を表現できない分、プリミティブな言葉と身体表現でその不足を補うのである。今回のカメラも、クリスマス後の日曜日、ウチに遊びに来たお義父さんに、さっそく新しいカメラで撮った写真を見せ、ソフトをダウンロードしてWi-Fi機能が使えるようになった旨話し、と、「カメラを貰ってうれしい」気持ちを、種々の方法で伝えるべく努力した。そして今日はこれから某さんの誕生会で家族で集まるのだが、そこにもカメラを持って行って写真を撮る予定である。そのくらいしなくては、嬉しく思っている私の気持ちは伝わらない。というか、そこまでやっても、ジェリーなどは私の感情表現を“reserved(控えめ)”だと言うのである。じゃあ一体どこまでやれば“標準”になるのだ?と聞きたいくらいだが、聞いたところで私がその水準に達せるとは思えないので、聞くだけ無駄か。いずれにせよ、ここでは謝意の表現はオーバー過ぎるくらいで調度よい。私から見ると“白々しくも嘘嘘しい”ような感情表現でも、誰もそうは言わないのだから、およそ基準が違うのである。基準が違うところでは、その違う基準に合わせて事を行わなければならない。そうしないと真意が伝わらない。たとえ表現は嘘嘘しかろうと、「うれしい私の気持ち」は本当なのだから、それは是非とも伝えなくてはならないのだ。お義父さん、ありがとう。と、ここで言っても、伝わらないが。
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ブラウニー

  • 2014/12/28 22:24
  • Category: 動物
12月なのに、雪ではなく雨が降っている。
氷雨に近い、冷たい雨だが、それでも雨は雨。
驚くばかり。

実はイブの日も雪ではなく雨が降るなど、
クリスマス前から異常に暖かい日が続いていて
おかげでそれまで積もっていた雪が融け始めた。

今では物置の屋根の雪は、ほんの小さな塊を残す程度
(去年は雪が積もり過ぎ、重みで屋根を支える梁が一本、曲がってしまったくらいだったのに)
デッキからは完全に雪が消え、庭は一部芝生すら見え始めた。
この時期に庭の芝生が見えるなんて、ほんと通常では考えられない。

そんな暖かさにつられたわけでもないだろうが
このところずっと、茶リスがデッキに現れている。
10日ほど前だろうか、最初にデッキに姿を見せた時に
可愛がってピーナツをあげたら、その後毎日来るようになった。
朝、日が昇ると、するするっとどこかからかやって来る。
黒リスに比べ身体は小さいが、目が大きくて実に可愛らしい。

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かりかりとピーナツを齧っているところ



IMG_0005.jpg

後姿。


ただしこの茶リス君、可愛らしい顔立ちには似ず、性格はかなり攻撃的。
彼がデッキにいる時に、黒リスでも現れようものなら
自分より1.5倍くらいは大きいと思われる黒リスに猛然と向かっていき
出ていけとばかりに庭中を追い回す。
ウィキか何かを読んだ雪だるまによれば、茶リスは縄張り意識が非常に強く
他者が自分の縄張りに入って来ることを許さないのだそうである。

おかげで黒リスは彼と鉢合わせするたびに、庭のメープルの木や
裏の林に逃げ込んでいる。身体は大きいのに、哀れである。

ついでに、昨日気づいたのだが、茶リス君はどうやら2匹いるらしい。
よく見ると、尻尾の長さが微妙に違うのである。
上の2枚の写真も、実は撮影日が違っていて、だから違う個体かもしれない。
そう思ってみると、上の写真の子の方が尻尾が長いような気がするのだが、どうだろうか。
ちなみにこの茶リス君、私たちは“ブラウニー”と呼んでいる。
黒リスが“ブラッキー”だから、茶リスは“ブラウニー”。
安直な名づけなり。





日本茶で一服

クリスマスイブ、クリスマスデイと御馳走攻めで疲労困憊。胃がぐったりと重くて、コーヒーはもちろん、紅茶すら飲む気がしない。何かもっとまろやかな飲み物はなかったかと考えて、そうだ戸棚の奥に日本茶があったはずだと思い至った。

環境が環境なので普段日本茶はほとんど飲まず、だから2年前日本に行った時買ったこの『特選玉露』もすでに賞味期限が切れており、いまさら『特選』も何もあったものではないのだが、それでも玉露は玉露。このカナダの田舎のスーパーで売っているティーバッグの“Green tea”よりはましだろう。

それに急須は引っ越し前後のごたごたで日本茶専用のを割ってしまったので、今は工夫茶用の小さいものしかないが、湯冷ましはお友達から戴いたすてきなのがあるのだ。よって、ちゃんとお湯を冷ますことができる。私が淹れて、私が飲むだけなので、湯が冷めるまでじいっと一人、湯冷ましを睨みつつ待つのはしんどいが、紅茶と違い、玉露は熱い湯は嫌いなのだから仕方がない。

どうせなら急須もちゃんと日本茶用のが欲しいところだが、これはまあ、この次日本か香港に行った時、仕入れて来るしかないだろう。実のところ、どういうわけだかウチの近所には盆栽屋があり、そこでは見事な盆栽だけでなく、鋏、鉢などの盆栽用品から日本/中国の陶器や小物まで扱っており、急須も売ってはいるのだが、そこはそれ西洋人の脳裏にある“Japan”や“Zen”のイメージに沿った品揃えなので、普通の日本人から見るとやや気恥ずかしいというか、「いやちょっと勘弁してくださいよ」なデザインのものが多いのである。ウチの場合、急須は室内装飾用ではなく、実際にお茶を淹れるのに使うものなので、それでは困る。

さて、湯もほどよく冷めたので、ちょっと一服。

ふむ、賞味期限が切れていても、さすがに玉露。腐っても鯛、というわけか、2年前の茶葉でもほのかな甘みが舌にのる。大変結構。

JOYEUSES FÊTES !

  • 2014/12/25 10:18
  • Category: 言葉
日本、香港ではすでに25日、クリスマス当日だが、こちらはまだ24日。
ただ今、夜7時。réveillon 前の軽い夕食を終え、ちょっと一休み中である。
réveillon のためにお義父さんたちが来るのは夜10時過ぎなので
オードブルの準備を始めるのは8時半過ぎ、
定番メニューであるミートパイ(tourtière)をオーブンに入れるのは、9時半過ぎでよい。
あまり早くからオーブンに入れては、時間が余ってパイが焦げてしまう。

それもこれも、「クリスマスプレゼントを開ける」という本日最大の行事が
夜中の12時に控えているため。
大人しかいない雪だるま家でも、このために12時まで
ひたすら食べて、飲んで、談笑して、ヒマをつぶすのである。

ふだん11時には寝てしまう私にとって、10時過ぎてから何かを胃に入れ、
わいわい騒ぎ、深夜1時、2時まで起きて談笑するのはきついのだが
これも伝統、家族の行事とあれば致し方なし。
コーヒーでも飲んでぱっちりと目を覚まし、雄々しく任務を敢行するしかない。

ところで、クリスマスの挨拶といえば古来“Merry Christmas!”が定番であったが
この頃、この挨拶事情に変化が出てきたようである。
キリスト教色の強い“Merry Christmas”ではなく、
より中立的で宗教色のない“Happy holidays”を使う人が増えて来たのである。

かつてはカソリック教会の力が強く、道を歩けば教会に当たるというくらい
あっちにもこっちにも教会があるケベックでも事情は同じで
最近では“Joyeux Noël”ではなく、“Joyeuses Fêtes”を聞くことの方が多くなった。
移民で成り立つカナダであるから、学校でも会社でもキリスト教徒ばかりとは限らず
イスラム教徒やユダヤ教徒、仏教徒であるかもしれない人に向かって“Joyeux Noël!”と言うよりも
“Joyeuses Fêtes!”と言った方が、当たり障りがなくてよろしいということだろう。

ただしこの動き、米国の熱心なキリスト教徒の間では評判が悪いようである。
まああの国は清教徒がつくった国だから、神様なしでは生きていけないのだろう。

しかし、わたしは神のいない人なので、心置きなく
JOYEUSES FÊTES !
どうぞみなさま、楽しい休日をお過ごしくださいますように

クッキーの大きさ

学校は先週の金曜で終わったのだが、クリスマス準備に入り、なにやかやと忙しい。たとえば昨日、日曜はクッキーを2種焼き、うち1種は十分冷めてからアイシングがけ。今日はこれからジムに行き、その後、週一のお決まりの買い物。帰ってきたらまたクッキー焼き。明日は掃除とクリスマスイブの夜の食事(Réveillon)の下準備、という具合である。

クリスマス前になるとせっせとクッキーを焼くのは、クリスマス期間に食べるからという目的ももちろんあるが、もうひとつ、クリスマスギフトとして人に届ける予定もあるからである。感謝の気持ちを表したいが品物を贈るのは少々大げさという時、自家製の(少々いびつな)クッキーは、相手に負担をかけず、しかし貰うと結構うれしいということで、何かと便利なのである。が、贈る際、1種類ではつまらないので、少しずつ何種類か詰め合わせる。ついでに毎年同じでは芸がないので、定番ジンジャーブレッドクッキーは別として、他は毎年少しずつ変える。ために手間がかかる。毎日2、3種ずつ、3、4日続けて焼くのはそのためである。

ところで昨日焼いたクッキー2種だが、実は生地は学校で作った。ジョジアンが11日からキューバにバカンスに行ってしまい、代わりにマーク・アンドレという以前フランス語教室を担当したことがある人が代わりに来たのだが、彼がなぜか授業の一環としてクッキー作りを実施したのである。まあレシピはフランス語だし、材料を買いに行く時も使うのはフランス語だから、これもフランス語の勉強にはなり、ついでにみんなでわいわいとクッキーを焼くのは、クリスマス前のうきうきしたお祝い気分に拍車をかけてくれて、なかなか楽しいクラスではあった。

ただし、“協力してクッキーを焼く際、フランス語でコミュニケートする”というのは、実際に作り始め、粉やスパイスや砂糖が飛び交って調理室が戦場の様相を呈してくると、コトは危急を要す、フランス語などまだるっこしくて使ってられるか!ということで、それぞれ互いに最も楽な言語でやりとりを始めてしまい、調理室はアラビア語、スペイン語、中国語、英語、たまにマーク・アンドレが叫ぶフランス語、と各国語が入り乱れることとなった。

それでも生地はおおむねちゃんと出来た。オーブンの大きさと時間の都合で、それぞれ天板1枚分だけ焼いて残りは持ち帰った。レシピは例のRicardoさんのを使ったが、北米のレシピは量が多いので、家で焼いてみると、合計天板3枚分以上あった。

ちなみに作ったのはジンジャーブレッドクッキー(Biscuits au pain d'épice)とクランベリー入りアイスボックスクッキー(Biscuits aux canneberges réfrigérateur)だったが、そのジンジャーブレッドクッキーを型抜きする際、マーク・アンドレが持ってきたクッキー型と、私が去年買ったクッキー型を比べて、思わず溜息が出た。彼の型は、私の型の10倍くらいの大きさだったのである。雪だるまに言わせると彼の型の方が標準で、私が買った型は“一口サイズ”のミニミニクッキー用だそうだが、私に言わせれば北米標準は大き過ぎ。こんな大きさのクッキーをむしゃむしゃ食っているから、北米人はでぶになるのである。摂取カロリー削減のため、北米クッキー協会は、よろしくクッキー型を2回りくらい小型化すべきである。ついでにクッキーに使う砂糖と油脂の量も削減すれば、なおよろしい。もっとも砂糖と油脂が少ないクッキーは、「おいしくない」と北米人には評判が悪いだろうが。

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     マーク・アンドレの型(左)と、私の型(右)
     この差ですよ、みなさん!


『7 cajas』

  • 2014/12/14 23:03
  • Category: 映画
パラグアイの映画『7 cajas』(英題 7 boxes)を見た。たとえ悪事を働くにしても、最低限の頭と知識は必要だと、つくづく感じた。それくらい、この映画に出てくる人物たちは、どれもこれもため息が出るくらい間抜けだった。あまりにも救い難く抜けているので、途中で見ているのが嫌になって、半分程で席を立ち、台所でもやしの髭取りを始めたくらいである。雪だるまは見続けていたが、私は見続けることが出来なかった。

途中までしか見ていないからはっきりとは言えないが、話の大筋は、ある男が仲間2人と共に身代金目的の誘拐を企てる。誘拐の対象は自身の妻である。妻の父は金持ちなのだ。しかし、いざ誘拐してみたら、妻は恐怖のためかショックでか、誘拐の途中で頓死してしまった。困ったのは男3人である。死体を持て余し、とりあえずは仲間の一人である肉屋の巨大冷蔵庫に隠してみたが、どうやって始末したらいいのかわからない。どたばたしているうちに、別件で警察が肉屋に来たりして、慌てふためいた肉屋は符牒を取り違え、金を7つに分けろと言われたのを、死体を7つに分けろと言われたのだと勘違いして、死体を切り刻んでしまう。(なにしろ肉屋だから、この辺はお手のものだ)また、死体を入れた箱の始末を頼まれた別の男は、箱を渡すべきではない相手に渡してしまい、ためにもともと箱を受け取ることになっていた男は「仕事を取られた」と頭に来て、その箱を受け取った相手(荷物運びを仕事にしている少年)を追い回す。少年は逃げ回る。その途中で、箱の中身は金だと勘違いした男は、街のチンピラグループを雇って少年を追わせる。少年、ますます逃げる。というようなドタバタが、掘立小屋のような店屋が立ち並ぶパラグアイの市場を舞台に繰り広げられるのである。しかもこれだけ馬鹿馬鹿しいドタバタでありながら、コメディではないのだ。登場人物みな真剣に追い駆け、真剣に逃げ回り、なけなしの頭で策を弄し、それぞれがそれぞれの相手から請け負った仕事を完了させて約束された金(そう、目的は常に金だ)を受け取ろうと、必死に動き回るのである。

画面からでさえ、パラグアイの貧しさと貧富の差、良いとは言えなそうな治安などはありありと伝わってくるのだから、この映画を見ての感想が「悪事を働くにも、最低限の頭と知識は必要だ」であるというのは間違っているとは思うのだが、しかし本当にそれしか頭に浮かばないほど、登場人物たちは目先1メートルのものしか見ておらず、不確かな情報から誤った結論を出し、先のことを考えずに行動を起こして、ますます事態を悪化させていくのだ。見ていて絶望的になる。

学校で習うような知識など、無くても世の中を渡って行くことはできるし、立派に生きている人たちもたくさんいるだろうが、どうも私は知識重視、論理および理性重視の世界で生きてきたせいか、知識はないよりある方がいい、教育(知識を得ることと考える訓練)はないよりある方がいい、と思えてならず、その双方が欠けた状態は悲惨(misère)と思えてならないが、そんな風に考えるのは知識偏重にして傲岸不遜な教養主義に過ぎないのだろうか。しかしそうは言っても、欧米や日本のような俗に“先進国”と言われる国でも、またこの映画の舞台であるパラグアイのような“発展途上”と言われる国でも、知識の多寡、考える能力の高低は、その人の人生を左右するように思えてならないのだが。どこか別の映画でも言っていた「(移民が)現在の境遇から抜け出すには、教育を受けるしかない」と。教育だけで(現在の悲惨な)境遇から抜け出せるとは限らないが、教育が脱出の第一歩であることは確かで、というか、とっかかりはそれしかないのだ。何も知らない、何もできないでは、どこにも行き着かないのだから。

辞書と文法書は必須です

  • 2014/12/11 21:12
  • Category: 言葉
この頃とみに不思議に思っているのは、フランス語教室に来る生徒のうち半分くらいが辞書を持って来ていないことである。何しろ初級クラスなのだから、辞書なしで何でもすらすらわかります!なんてレベルの人は一人もおらず、中には本当にABCから始めたばかりで、出会う単語の9割は新出単語という人もいるのに、それでも辞書を持っていない。

では何を使っているのかというと、スマホである。スマホにダウンロードした辞書アプリ、またはGoogle Translate あたりを使って、わからない単語に出会う度に、ちらちら確認しているのだ。しかしこのスマホ辞書、隣に座っているJちゃん(中国人)が使っているので私も画面を見たことがあるが、ただちょっと意味を知りたいだけの時ならともかく、外国語を学習する際の辞書としては全く十分でない。だって、わからない単語を入力した時、画面に出てくるのはその単語の訳として適当と思われる2、3の訳語だけ。単語の詳しい説明やその単語を使った文例はないし、文法上の注意事項も載っていない。とりあえず最も一般的と思われる意味がわかるだけの、本当に一時の間に合わせなのだ。これでは、外国語の“学習”には全く役に立たない。

なぜかというと、言語Aにおけるある語と、言語Bにおけるその訳語は、大体の場合、下図のようにその意味の一部が重なるだけで、その意味・使い方が完璧に重なることはまずなく、学習にあたっては、まずどこが重なってどこが重ならないのか、それをはっきりさせることが肝要だからだ。これをせずに簡便な辞書の訳語を鵜呑みにしてA=Bなどと丸暗記すると、あとでとんでもないことになる。

en1.png

たとえば、卑近過ぎる例で恐縮だが、トイレに当たるフランス語が知りたくて辞書を引いたら、“toilettes(toiletteの複数形)”と出ていたとする。そこで複数と単数の違いにあまり注意を払わず(日本語や中国語のように、語の単複の区別にやかましくない言語を母語とする人は、ついこれをやりがちである)、toilette(←いつのまにか単数になっている)=トイレと覚え込むと、後々、別の文章の中で、たとえば“…elle aimait la toilette…”というような文章に出会った時に、「彼女はトイレに行くのが好きだった」というような、とんでもない解釈をして、周囲を爆笑の渦に巻き込むことなる。笑いを取るのは楽しいが、それも程度問題。爆笑が失笑にならないうちに、なんとかせねばならない。(ちなみに、上記の文は“彼女はおしゃれをするのが好きだった”という意味である。toiletteの最も一般的な意味は、洗面、身じまい、装い、身なりといったところで、複数のtoilettesになって初めて用を足す場所、トイレになるのである)

というような例が多々あるから、外国語の学習に当たっては辞書は不可欠。本気で勉強する気なら、まず辞書と文法書の一冊くらいは用意しないことには話にならないと思うのだが、冒頭にも書いたようにクラスの半分くらいは辞書を持って来ない。

確かに現在一番簡便な電子辞書は、だいたいどの国でも米ドル換算で200~300ドルくらいするから、おいそれとは手が出せないというのはわかる。しかし従来の紙の辞書なら、その1/10くらいの値段で手に入るはずである。携帯するにはちょっと重いし、引くのに手間はかかるが、引いた語の前後を読んで楽しむということもできるし、引こうと思ったら電池切れなんてこともない。古来、人々が使ってきた形の辞書なのだから、役に立たないはずはないのである。次回、故国に里帰りした際には、ぜひ1冊仕入れて来ていただきたいものである。ついでに文法書なども購入すれば、なおよろしい。当地でも西仏/仏西あたりなら辞書は手に入るだろうが、それはフランス語話者がスペイン語を勉強するための辞書。スペイン語話者がフランス語を勉強するための辞書ではない。どちらが母語かによって、わからない点、解説が必要な点は全く違うのだから、「西仏ならどれも同じだろう」なんて思うのは、大きな間違いである。いわんや、アラビア語/フランス語の辞書など、この田舎町では影すら見えない。故国に帰った時に、買って来るしかないのである。

辞書も文法書もなしに外国語を勉強しようなんて、海図と羅針盤どころか、櫂すらなしに海に漕ぎ出すようなもの。何年水の上にいようと一向に先に進めず、海岸線から10m位のところで波に揺られているだけになってしまうのは、当たり前である。かく言う私なぞ、海図と羅針盤は立派なものを持っているが、櫂が(つまり耳と舌と頭が)すこぶる貧相なもので、なかなか先に進めない。ついでに船自体も老朽化しているので、どっかに着く前に壊れるかもしれない。健闘虚しく、あえなく沈没である。まあ築60年近い老朽船なのだから、それも仕方なし、というところか。

赤紫、ピンク、水色

クラスメートの一人から「カーディガンを編んで」と頼まれ、「いいよー」と安請け合いしたのはよいが、しばらくして彼女が持ってきた毛糸を見て、当方しばし絶句。毛糸が1玉400gもあるアクリル100%の大玉で、それが3つ、袋の中でごろごろしているのはよいとして、その3つが3つとも違う色。私だったら100年経っても思いつかない、くすんだ赤紫、ベビーピンク、水色という組み合わせである。どうやら彼女の家の近所ではろくな毛糸を売っておらず、その狭い狭い選択肢の中で、やっと選んだのがこの3色ということだったらしい。

彼女の希望を聞いてこちらが考えていたパターンは、これだったのだが



正直、この3色でこのカーディを編んだら一体どういうことになるのか、私はかなり不安である。1玉が400g、640ヤードなので、1玉ではカーディは編めない。必ず2色(あるいは彼女の希望では3色)使わなければ糸長が足りないが、糸の太さがバルキー(超極太)なので、普通の編み込み模様はちと無理がある。やってやれないことはないが、裏に糸が渡っている部分が地厚になって、かなりごろごろするだろう。Intarsia(裏で糸を渡さない嵌め込みの編み込み)という手もあるが、その場合、いったい何の模様を入れるのか? カウチンみたいにヘラジカの模様?

一番ふつうに糸長を稼げるのは縞模様だが、このカーディを赤紫と水色+ピンクの縞にするのは、私の想像力を超える。…ああ、どうしたらいいのだ?

バナナクレープ

今朝、朝のミルク紅茶を飲みながら、ふと外を見たら、フィーダーに集まっているチッキディーたちが、ぷくぷくに身体を膨らませている。あれ?と思って寒暖計を見ると、マイナス17度。鳥たちが身体を膨らませるはずである。

天気予報によると、今日はかなり冷え込んで午後の最高気温でもマイナス10度までしか行かないようだが、明日明後日は少しはましなようす。と言ってもケベックの12月。気温が0度以上になることはあまりないようだが。

さて、お題の「バナナクレープ」だが、これは日曜の合同お誕生日会用に作ったデザートである。懐かしヤマ○キの×××みたいなデザートにしたのは、その前のお買い物で「バナナ1袋99セント!」なんていうお買い得品を見つけてしまったからである。見切り品なので、もちろんきれいに黄色く形の整ったバナナばかりではなく、少々茶色の点々が出始めたのも混じってはいるのだが、なにしろ1袋に10本以上入っている。冷凍バナナにしたり、バナナブレッドなどの菓子にするにはうってつけ、と、2袋も買ってきてしまった。

で大量のバナナの山を前にして雪だるまと二人、「いっそ、お誕生日会のデザートもバナナにしようか?」と考えたのだが、バナナブレッドでは華に欠けるし、タルト型の中にチョコレートクリームを詰めバナナの薄切りを乗っけたソニア・リキエル風は、見栄えはよろしいが手間が面倒。間を取って「じゃあ、バナナクレープ(Crêpes aux bananes)」となったのである。

ただクレープなど焼くのは久しぶりなので、とりあえず前日、試しにいくつか焼いてみた。レシピは、ケベック(およびカナダ)で一番人気の料理研究家リカルド(Ricardo Larrivée)さん提供のをお借りした。( ←ここです。英語の方がよろしい場合は、右上のEnglishをクリックすると、英語になります) デザート用ではなく朝ごはん用のだが、まあいいのだ。

で焼いたクレープに、泡立てたクリームとバナナの薄切りを乗っけてくるくると巻き、はい一丁上がりとなったのだが、食べた雪だるまは「これは今ひとつだ」と言う。そしてもう一味こくを出すために、マッシュしたバナナをクリームに加えてはどうかと言うのである。

私は聞いたとたん、どろどろにつぶされたバナナが脳裏に浮かび、そのあまり美しいとは言えない形状と色合い、食感から「えー、それは美味しくないと思うよ」と言ったのだが、雪だるまは譲らない。「絶対その方が美味しい!」と主張する。目に強い光を宿して主張する。

なので、私としては「大いに疑わしい」「どろどろバナナがおいしいはずはない」「茶色いどろどろは××みたい」と思いつつも、翌日はバナナをマッシュした。そして「こういう風にするわけ?」と雪だるまのところに持って行くと、雪だるまは「いや、マッシュじゃなくて、もっと潰すのだ」と言い、私が難色を示すと自らバーミックスを取り出して、ういんういんと潰し始めた。そしてそれこそ離乳食みたいにどろどろにしたのを、「これをクリームに混ぜて」と私に渡した。

正直、より一層キタナラシイ形状になったバナナを前に、私は「これをクレープで巻くのか?」と大いに二の足を踏む気分ではあったのだが、合同お誕生日会は雪だるまとお父さんのお誕生日会で、雪だるまは言わば主役の一人であるので、千歩くらい譲って、それをクレープに乗っけた。ただし最後の抵抗として、そのどろどろバナナクリームの上に、さらに普通の泡立てクリープにバナナの薄切りを混ぜたものを乗っけて二色(香港的には鴛鴦?)にした。双方の主張を取り入れるという典型的妥協策である。

そしてその鴛鴦クリームクレープをラザーニャを作るような、大きな長方形のパイレックスの深皿に2層に並べ、上からさらにバナナの薄切りを散らし、メープルシロップとチョコレートソースをたらたらかけて、多少見栄えをよくした。

で食事の最後にお客さま方に供したのだが、これが大変な好評だった。叔父さんと伯母さん、フランスは1回、お義父さんは2回お代わりをし、口々に「美味しい!」と誉めそやした。お客様の言う「美味しい」は、まあだいたい話半分のお世辞であるのが普通だが、今回の場合は実際にお代わりをしているので、本当に美味しかったのであろうと思う。私も食べてみたが、雪だるまの言うとおり、どろどろバナナがほどよいこくとなって味に深みを出し、ただバナナの薄切りが入っただけのクリームより、ずっと美味しいのである。カロリーが許すなら私も2本くらい食べたかったが、最近体重増加気味なので、涙を呑んで半本で諦めた。

というわけで、(好みもありましょうが)バナナクレープはバナナ・ピュレを加えた方が、おいしいです。暇のある時、お試しください。

というようなことを書いて、たとえばニュースで香港の状況を見ると、自身が書いてることの脳天気さに忸怩となるわけだが、しかし今となっては私は“見ていること”しかできない。“見ていること”と“見て見ないふりをすること”とは、果たしてどのくらい違うのか。

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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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