Pack rat

  • 2017/01/30 11:59
  • Category: 雑記
しばらく前から世の中は断捨離流行りで、
人々は捨てること、モノを持たないことに熱心になっているようだが、
私は逆にこちらに来てから、モノを溜め込むようになった。
一見、ゴミとしか思えないような反故でも古布でも
壊れた道具でも、とりあえず捨てずに取っておく。
衣類ならなおさら。たぶんもう二度と袖を通すことはないと思っても
着用可能なものは、後生大事に箪笥に眠らせておく。
理由は簡単。反故や古布はメモや掃除などで使い道があるし
洋服に至っては、処分したが最後、同じようなものを手に入れるのは
相当に困難とわかっているからである。

「相当に困難」というのはつまり、退職して収入ゼロの身だから
いったん捨ててしまった後で、何らかの理由で再度そのモノが必要になったとしても
再び同じものを購入できるだけの資金力がない、
というのもあるが、それだけではない。
「入手可能性」の問題も無視できないくらい大きいのだ。
この田舎では、私が気軽に行ける範囲にある店の数には限りがあり、
その中で、Tシャツなどのカジュアルなものはともかく
ジャケット、スーツなどで気に入ったものが見つかる可能性はかなり低い。

かてて加えてサイズの問題もある。
肩幅の割に腕の短い私は、アジア人サイズの日本や香港でさえ
こうした衣類にはお直しが必要だった。
況や北米人サイズの当地に於いてをや。
袖丈その他、直さずに着られるジャケットなどあろうはずがない。
となると、何らかの理由でこうした衣類が必要になった場合、
たとえあちこちさんざん探し回って気に入ったものが見つかったとしても
それからさらに、どこかのクチュリエに持って行って
身体に合うように直してもらわなければならない。
服そのものの上代に加え、安くもないお直し料+探し回ったり、
クチュリエに持って行ったりする手間暇を考えると
これはもう、場所塞ぎでも、資源の無駄でも
万一のためには「取っておいた方がよほど簡単・・・」となるのである。

だからわたしのクロゼットには過去5年間一度も手を通していない
お仕事時代のスーツやジャケットがいまだにぶらさがり
これらの衣類のお供をしていたヒールのある靴やサンダルなどが
その下に並んで、出番のないまま永の眠りについている。
今後も、かなり改まった形式の葬式でもない限り
こうした衣類を着なければならない機会はないだろうが
私としては処分するつもりはない。
この家を売り、老人用アパートにでも引っ越すことになったら
その時はどこかの団体に寄付するかもしれないが
それまではこの机の隣のクロゼットで、静かに眠っていてもらうつもりである。

そして捨てずに取ってあるのは衣類だけではないから
階下の戸棚の中では、同様に柄の取れた鍋やヒビの入ったティーポット、
チョコが入っていた空き箱などが眠り、物置の中では発泡スチロールの梱包材や
内装の残りの板切れなどが眠っている。
ぱっと見、ゴミとしか見えないし、実際、何かに使わない限りはゴミなのだが
私としては捨てるつもりはない。しまう場所がある限り、しまって取っておく。
いつか何かの役に立つかもしれないから。

もっとも、モノを捨てないことに熱心とは言っても
この家を汚屋敷にするつもりはないし、
もともと視覚的過負荷には耐えられない人間なので
整理整頓はせっせとやっている。
幸い、子どもの頃から、掃除には不熱心でもお片付けは得意なのだ。
よって溜め込みを続けても、ご近所から市役所に苦情が行き、
強制清掃という事態には、(たぶん)ならないだろうと思う。
私は pack rat は pack rat でも、こんまり系の pack rat なのだ。


溜め込み上手の pack rat くん

packrat.jpeg

スポンサーサイト

精緻な仕事は美しい

物事は面倒くさいより簡便な方がよい。
機械でも家電でも、あるいはまた人間関係でも
あれこれ入り組んで複雑怪奇なのより、
すっきり簡単、シンプルな方が
使いやすくて、あるいは気楽で、ストレスが少なくてよろしい。
簡単、簡便、大いに結構!
開発者殿、なるべく楽ちんなのを作ってね!
てなもんだが、しかし、何から何まで、面倒<楽ちんであるかというと
そういうわけのものでもない。

たとえば、手仕事系。
最近、アマ〇ンとかで手芸本コーナーを見ていると
「かんたん」とか「やさしい」とか、「誰でもできる」とかが
タイトルに入った本がやたら目につくが
そして、それらの表紙にはいかにも簡単にできそうな
しかしそこそこかわいらしい小物などが配されているが
みんなそんなに“簡単”な手芸が好きなのだろうか?

そりゃ今まで針も糸も手にしたことのない、全くの初心者が
そうした本を手に取るのはわかる。
表編みも裏編みもわからない人が、最初の作品として
複雑なアラン模様が全面に入ったセーターを編もうとするのは
些か無謀というものだし、
ステムステッチも満足に刺せない人が、さまざまな技法を駆使する
クルーエル刺しゅうやスタンプワークに一足飛びに挑戦!するのも
ま、ちょっと無理がある。
だから、手始め、手ほどき、最初の取っかかり用として
そういう本に需要があるのはわかるのだが
手軽に手に入るのがそういう本ばかりになってしまっては、面白くない。

人間、ひとつのことを繰り返しやっていれば
(ふつうは)だんだん上手になる。手慣れてくる。
そしてそのうち同じことの繰り返しに飽きてきて
違うこと、新しいこと、ちょっと手の込んだことがしてみたくなる。
“簡単”が喜ばしいのは最初のうちだけ。
その段階を過ぎてしまえば、“簡単”は“退屈”と同義である。
“退屈”な手仕事など、誰がやりたいものか。

それに、簡単なものばかり作っていては、技術が進歩しない。
効率的に同じ結果を得るために、より簡便な方法を考案するのは
技術の進歩に貢献するだろうが、
楽をすることを目的に、手順を省くのは単なる手抜き。
結果は同じにはならない。
手仕事の場合、ひと手間かけるのと、ひと手間省くのとでは
出来上がりが明らかに違うのだ。
チープな仕事は、チープな結果しか生まない。

と、まあ、さんざん偉そうに書いたが、
人間、意気込みが結果と正比例しないことは、ままある。
私など、高すぎる目標に技術が追い付かず、あえなく撃沈・・・は、しょっちゅうだ。
それでもやっぱり、簡単すぎることはつまらない。
技術のなさを「手作りの味」などと胡麻化すのも嫌いだ。
感性が勝負の芸術系はともかく、
技術系には「下手うま」は存在しないと思う。
身も蓋もない言い方だが、下手なものは単に下手なだけ。
そこに味などない。
(作り手に対し特別な感情があったりすると、そこにありもしない味が
感じられることがあるかもしれないが、それは作り手に対する感情が
見せる幻影である。第三者の目には、その幻影は見えない。
が、見えないからと言って、そのモノの価値が当事者にとっても下がることは
意味しない。作り手に対する感情がある限り、モノの価値は不動である。
例:彼女が僕のために編んでくれたマフラー)

現代の、時間に追われる生活の中では、
面倒なもの、手間のかかるものは自然億劫になり、
手仕事にせよ、文学にせよ、音楽にせよ、
より簡単なもの、わかりやすいものへと嗜好が向かうのは
仕方のないことなのかもしれないが、
私は精緻な仕事の方が好きだ。
そこに至るまでの研鑽、かけられた年月、情熱を思うと
素直に頭が下がるし、確かな技術は明らかに美しい。


secret-garden-MC.jpg

画像は、Mary Corbet さんの The Secret Garden

米朝さん

  • 2017/01/16 12:00
  • Category: 雑記
このブログの左上に「私を幸せにしてくれる方々」として、
小さん、三代目金馬、枝雀の3人の落語家さんを挙げているが
最近これに米朝さんが加わった。
なんたって、この方のやわらかな上方弁で語られる落語を聞いていると、
すいすいと編み物が進み、大変に具合がいいのだ。
これが、そう言っては何だが、下手な落語家さんや
こちらの神経に障る話し方、声の落語家さんでは
いらいらして目数を間違えたり、編まなくてもいいところまで編んでしまったりして
被害甚大、ということになるので、
編み物のBGM選びには、細心の注意が必要なのである。

米朝さんの落語の何がいいのか、つらつら考えてみると
まずこの方の落語には過剰なところがない。
一部の若手落語家さんのように、むやみに大声を上げたり、
過度に色を付けた口調で語ることもないし、
大仰な身振りも、受け狙いのギャグもない。
だから地味といえば地味なのかもしれないが
その代り、いつでも、どんな噺でも、勘どころを押さえて、丁寧に語る。
その風貌と相まって、実に端正、上品であるが
しかし、きっちりし過ぎて窮屈、といったところは微塵もない。
ほどよく力の抜けた、余裕のある語り口は、
十ある力を十出し切ったような、目いっぱいの力演と違い
聞くこちらの方も、ゆったりとした気分にしてくれる。

それに米朝さんの落語には、ハズレがない。
何しろ暇なもので、YouTu〇e にアップされているのはほとんど全部聞いたが
「これはちょっとな」というのがひとつもない。
艶笑噺ですら、ほんのりと上品である。
これは人柄の故か、それとも芸か。

そのくらいだから、小さんさんの「首提灯」や金馬さんの「池田大助」
枝雀さんの「貧乏神」と「口入屋」のように
「米朝さんだったら、これ!」というようなお気に入りの噺というのは特にないが
しかし最近聞いた狐の小咄は、別格的に気に入った。
あんまり気に入ったので、米朝さんが語るそのままを
文章に起こしてみたのだが、これが全然おもしろくない。
上方弁は正確に表記しづらいという問題もあるが
それより何より、語りをそのまま文にしたものは、単なるあらすじに過ぎず
骨組みを素描しただけといった体で、味もそっけもないのだ。
人が(米朝さんが)語って初めて、何とも言えないおかしみが出るのだと
つくづく思い知った。

ご興味がおありの方は、こちらからどうぞ。3:30くらいから始まります。


ペン

  • 2017/01/12 00:50
  • Category: 雑記
2、3年前にまとめ買いしたコレトの替芯が最後の1本になったので、
また台湾の業者に注文を出した。
ただし今度はコレトではなく、パイロットはパイロットでもハイテックC。
05年発売の比較的新しいモデル(それでもすでに10年経っているが)から
94年発売の古~いモデルに戻ったわけだ。

理由は簡単。コレトのコスパが悪すぎるからだ。
コレトは書きやすいし、いろんな色があって楽しいのだが
何しろ持たない。
1本の芯にどのくらいのインクが入っているのか知らないが
毎日2行程度しか書かない日々のメモに使って、1か月しか持たない。
学生さんの中には、1本を1日で使い切ってしまう方もいるようで
「1日100円は痛い!」と悲鳴を上げていらした。
確かに毎日の講義でせっせとノートを取っていれば、そうなるだろう。
私のメモで1か月。2行×30日=60行しか書けないのだから。
この「持たない」感は万人共通のようで、コレトのレビューの中には
「大量に書く人にコレトの芯は全く向きません。
ボールペンの中でもトップクラスのインクの量の少なさです」というのがあって
大いに笑った。

一方、ハイテックCの方は、かなり長く書ける。
今新品が手元にないので、「××行書ける」というデータを示すことはできないが
過去の記憶をたぐって考えると、少なくともコレトの2~3倍は書けそうな気がする。
それに、このハイテックC、日本のパイロットさんのサイトでは
「替え芯はご用意しておりません」となっているが
香港、台湾などでは、替え芯を売っている。
黒、青、赤、たまに深藍(ブルーブラック)くらいと色数は少ないが
ちゃんと売っている。だから eBay にも出ている。
値段は、替え芯6本で7.5米ドル(送料込み)くらいから。
つまり1本あたりの単価は約1.25米ドルと、
コレトの替え芯の値段と、ほとんど変わらない。
値段がほぼ同じで、持ちが2~3倍なら、これはハイテックCを買うしかないではないか。

それに1本約1.25米ドルというのは、ゲルインクボールペンの値段としては
破格に安い。
実のところハイテックCは、「G-Tec-C」の名で当地でも売られているが、
お値段 3~5カナダドル。
しかもバラ売りでは黒、青、赤の基本色しかなく、他の色が欲しければ
5色とか10色とかのセットで購入するしかない。
ブルーブラックだけ10本とか、茶色だけ5本とかの買い方はできないのである。
基本色以外の色が好きな私にとっては、大いに不便な仕組みである。

色といえば、ハイテックCは昔、「和色」とでもいうのか、
ちょっとくすんだような微妙な色合いのカラーペンを、
「うすずみ」「さくら」「べんがら」などの美しい名前で出していて
私はただもうその名前と色合いにうっとりして、
何に使うという当てもないのに、伊東屋でわさわさ買い込んだりしたが、
どうも当地にはそうした大人がうっとり手に取るような文房具がない。
いや、都会のセレクトショップなどに行けばあるのかもしれないが
少なくともこの田舎にはない。
財布にはやさしいが、文房具屋に行って、きらきらと胸ときめくことがないのは
さみしいことである。



消防車が来た

  • 2017/01/08 06:05
  • Category: 雑記
昨夜は消防車が3台、うちに来た。
日本で見慣れた赤いのではなく、銀色に輝く巨大な消防車で
それが3台も、冬の夜空に赤色灯をきらめかせてウチを取り囲んだのには
正直、「ちょ、ちょっと、確かに異常を知らせたのはウチですが
これはいくら何でも些かおおげさでは?」と、どっと引きそうになった。

コトの起こりは、昨夜10時過ぎ。
普段あまり会えない従弟や叔父さん、叔母さんを呼んでのパーティがお開きになり
玄関先で客人にコートを着せかけたりして、見送りに外に出ようとしたところ
ドアを開けたとたんに、つんと鼻を打つ何かが焦げたような臭い。
「え?」と思って従弟たちと上を見上げれば、玄関灯の下から周囲にかけて白くたなびく薄煙。

実はうちは以前に一度、1階のサーモスタットが故障してヒーターが異常過熱
焦げくさい臭いがあたり一面に漂ったことがある。
その時はヒーターの元電源を切り、電気屋さんに来てもらって
サーモスタットを消費電力に見合ったものに換えて一件落着したが
今回はどこが原因かわからない。
仮に玄関灯(左右と真ん中と計3つ付いている)への配線が何らかの理由で劣化し
漏電でもしているのだとすれば、素人の私たちの手には負えない。

「いったい煙はどこから出ているのだ?」と従弟や叔父さん、義弟たちと
地下から1階、2階と見回ってみたが、家の中には煙はなく、鼻を衝く臭いもない。
しかし外に出ると、何かが焦げている臭いは依然強くあたりに漂っている。
心配した叔父さんたちが「とにかく911に電話しろ」と言うので、雪だるま、電話。
「いや、煙と臭いだけで火は出ていません。玄関灯の配線かもしれません」
と言ったのであるが、結果は冒頭に書いた通り、大型消防車3台、
銀色の防火服に身を包んだ消防隊員約10名という物々しい騒ぎになってしまった。
サイレンを鳴らして来なかった分、ご近所さんにとってはまし、と言うべきか。

消防士さんたちは親切に、はしごをかけて玄関灯を調べ、家の内外を見て回り
あれこれ問題がありそうなところを調べてくださったが、結果は異状なし。
煙と見えたのは、玄関を開けた際、内部の熱気が外に出て白い水蒸気になったもの、
焦げ臭いにおいについては近所の家からも通報があったとかで
どこか近くで何かを燃やしているのではないか、とのことだったが
うちのあるあたり、確かにちょっと行くと工業団地があるにはあるが
金曜の夜の10時過ぎに何かを燃やしている工場なんてあるかしらん?
と些か疑問。

「いや、お騒がせして済みませんでした」という雪だるまの言葉に
消防士さんたちは「何事もなくて幸い。逆に何かあったのに通報が遅れるより
ずっといいです」と言って、にこにこお帰りになったが、
当方、パーティの後にこの騒ぎで、正直ぐったり。
しかも電話をした際、消防署の担当者に「(火事だとすれば)危険なので
家から出ていてください」と言われ、パーティ用の服装にダウンジャケットだけ引っかけて
外に出たので、寒くてガタガタ。
「こんな格好では5分と持たない。危険だろうと何だろうと
いったん家に入ってもっと着てくる!」と、2階に駆け上がり
ダウンの下にフリースを着、スノーパンツ履いて帽子かぶって外に出直したが
そうでもしなければ、雪が降り積もったマイナス19度の戸外になど、いられたものではない。
カナダの冬は、避難するにも一苦労だ。

それにしても今回は何事もなかったからよいが
仮に本当に火事になったとしたら、一番に持って逃げるべきは何だろう?
ぱっと引っ掴んでしまいそうなのはパソコンだが、
やっぱり各種身分証の入った財布の方を優先すべきだろうか。
現金そのものは、ほぼ空っぽだとしても・・・

『緋牡丹博徒』 お竜さんは観音菩薩である

  • 2017/01/05 21:24
  • Category: 映画
年明け早々、任侠映画の話というのもなんだが
昨年末に見た藤純子さんの「緋牡丹博徒」シリーズが
意外に面白かったので、ちょっと書いてみたくなった。

このシリーズ、1968年の1本目『緋牡丹博徒』から
尾上菊五郎さんとの結婚により藤さんが引退される
72年の『緋牡丹博徒 仁義通します』まで計8本制作され、
当時大ヒットしたので、現在50歳以上の方なら、実際に映画を見たことはなくとも
「緋牡丹のお竜」の名くらいは、ご存知のことと思う。
あるいは子供の頃、街角でかっこいいお竜さんのポスターを
ちらり見かけた記憶がおありかもしれない。

お話の筋は簡単だ。
時は明治中頃、九州は熊本、五木の親分、矢野組の一人娘に生まれたお竜さんが
渡世修行の過程で行き遭うさまざまな事件の中で、
侠客としての、そして人間としての仁義を通し、
弱きを助け、強きをくじき、悪党どもを成敗していくというのが8本すべてに共通する大枠。
まあ要するに、“古い”タイプのヤクザを主人公にした任侠映画
定番の筋立ての主人公が「緋牡丹のお竜」という女になっただけなのだが、
しかしこの緋牡丹のお竜さん、はなからヤクザ人生を歩むつもりだったわけではない。
地元の大親分の娘とは言え、幼い頃は普通の家の娘同様、大事に大事に育てられ
女学校も出、一通りの作法も身につけて、晴れてカタギの大店にお嫁入り
というその矢先、親分である父が辻斬りに殺され、
それを契機に組はつぶされ子分は散り散り、嫁入り話もご破算になって
蝶よ花よのお嬢様から一転、父の仇を討つために背中に緋牡丹の刺青を背負う
“緋牡丹のお竜”として渡世することになるのである。


oryu1.jpeg


だからこのお竜さん、まんま“うぶな小娘”といった体の第1作はもとより
貫禄の第8作になっても、どこか“お嬢さん”らしさが漂う。
藤さんのきりりとした中にも柔らかさのある(この人は微笑うと片えくぼがよる)、
品のある顔立ちのせいかもしれないし、踊りの所作のようなすっきりとした物腰、
常に無地に近い着物に博多帯という地味な出立のせいかもしれないが
(第一、主題歌にしてからが、「娘盛りを渡世に賭けて・・・」であって
「女盛りを渡世に賭けて・・・」ではないのだ)
銀幕に登場するお竜さんには、博打で人生を送っているようなすさみの影、
日陰者のねじくれた暗さがなく、緋牡丹というより池の中の白睡蓮のように清々しい。
その清らかさは、「聖女」と「娼婦」というお馴染みの(男の側から見た)女の分け方に従えば
明らかに「聖女」側。もっと言えば聖「女」というより聖「母」のキャラだ。

「背中に緋牡丹を背負った女ヤクザが、なんで聖母でありえようか」
と思われる方もいらっしゃるかもしれないが
しかし彼女の聖母性は映画を見れば一目瞭然。
映画の中のお竜さんは、一貫して性的対象外の女として描かれているのである。
だから「聖母」。あるいは、「聖母」という言葉があまりに西洋/基督教的過ぎるなら、
「慈母観音」と言い換えてもいい。
彼女は衆生済度の慈母観音菩薩として、周囲の恵まれない者たちに
惜しみない愛を注き、その悲運に熱い涙を流すが、
しかし「母」であり「観音」であるから、男は抱かない。男に抱かれることもない。
彼女が胸に抱きしめるのは、両/片親を失くした子ども、苦海の女、
死んでいく子分等々、つまり自身が「母」の立場に立ちうる対象だけだ。
他の親分方や同輩の男など、自身が「母」ではなく「女」になってしまう対象は、
決して抱かない。


oryu2.jpg


だからシリーズには、高倉健、鶴田浩二、菅原文太といった
当時の錚々たる任侠映画のスターたちが相手役として登場するが
お竜さんは彼らと恋仲になるどころか、終始一貫、義理に厚く、筋を通した生き方を貫く
敬すべき同業者としてのみ遇し、礼儀正しい他人行儀さを崩さない。
菅原文太との有名な今戸橋の場面でさえ、手がふれ合うのは
落ちた蜜柑を拾って渡す、その一瞬だけである。

一方、男の方もお竜さんを憎からず思い、危機となれば身体を張って
彼女を助けようとはするが、しかし自分の女にしようとはしない。
そりゃあそうだ、いくら美女でも、「母」、「観音様」に手を出す男がどこにいる?
唯一の例外は若山富三郎演じる四国道後の熊虎親分だが、彼にしたところで
お竜さんにぼうっとなって、妹を通じて結婚を申し込んだものの
お竜さんの方は「杯」を三々九度の、ではなく、兄弟分の杯だと勘違いして承知した
というコメディだから、勘定には入らない。

そして東映の任侠映画であるから、たまにはお色気場面もあるし
暴行場面もあるのだが、しかしそこで汚されるのは決まってお竜さん以外の女、
いかさま賽を振る女博徒であったり、女郎であったり、裏切り者の女であったり
つまりは、はなからその「聖女性」を否定された女である。
聖女性を否定された女=娼婦なのであるから、
そんな女はいかように汚そうと構わないのである。
そして逆にお竜さんは、穢れなき存在としてその聖女性を担保され、
「観音菩薩」として敬慕の対象となる代わりに
生身の女としては惚れた男の腕に抱かれることもなく、
独り光背背負って蓮の花の上に立つことになる。
その昔『山口百恵は菩薩である』という本があったが
実は緋牡丹お竜さんも菩薩であったのだ、ちょん。

それにしても、この女を「聖女」と「娼婦」に分ける構造は、
昭和40年代の任侠映画だからなのか、
それとも映画界という世界が圧倒的に男中心の世界で
(金を出すのも、メガホン取るのも、カメラ回すのも主要な役割は全部男)、
だから当然男の側から見た女ばかりが描かれることになるのか
いずれにせよ余りにわかりやすすぎて、いっそ可笑しい。

もっとも映画そのものは、そうした七面倒くさいことを抜きにして
娯楽映画として上出来に楽しいし、藤さんのすっきりと粋な着物姿や
回を追うごとにあでやかさを増していく美貌を眺めるためだけでも
全8本、鑑賞する価値はある。
そして賭場での藤さんも、惚れ惚れするほどかっこいい。
彼女がやるのはサイコロではなく手本引で、終始無言、無表情だが
すっと伸びた背筋、半肩に掛けた羽織、
目木を指し示すしなやかな指の動き等、ひとつひとつがきっちりと端正だ。

この手本引きは 『乾いた花』の加賀まりこさんもやっていたが
動きが静かなだけに、男がやるより女がやった方が
その所作の美しさが際立つ気がする。
ただし、賭け方は丁半博打よりだいぶ複雑で
私はいくら解説を読んでも、掛け金の置き方と倍率が覚えられない。
商売とは言え、瞬時に客のかけ金額と倍率を計算して
配当を渡せる合力のお兄さんたちは凄いと思う。

最後になったが、緋牡丹シリーズは藤さんのお相手の俳優さんたちもいい。
高倉健さん、鶴田浩二さん、菅原文太さんの3人が
とっかえひっかえ出てくるのだが、どなたもちょうど男盛りというか
油の乗ったところという感じで、みなそれぞれに渋くかっこいいのだ。
高倉健さんなんて、私はこのシリーズを見るまではどこがいいのかちっともわからなかったが
(『鉄道員』でも『あなたへ』でも、全く冴えなかった)
なるほど、若い頃の任侠映画の健さんは、登場するだけで舞台が締まる
圧倒的な存在感と、一徹を絵に描いたような容貌で
見るものを陶酔させる俳優だったのだなあと納得した。
そう思ってみれば『唐獅子牡丹』のポスターなど、痺れるほどかっこいい。
昭和残侠伝シリーズ、見てみたくなったが、まさか雪だるま、買わないだろうなあ。

恐怖

  • 2017/01/01 12:33
  • Category: 雑記
一年の終わりくらい役に立つことをしようかと、
久しぶりに頭も目も痛くないのを幸い
浴室の床磨きから始まって居間の床磨きに移り
いい気分で鼻歌まじりに仕上げのモップかけなどしていたら
最後に来てばしゃーん!!
モップを絞っていたバケツが倒れ、床一面水浸しになってしまった。

普通のお宅ならタイル張りの床に水がこぼれたくらい何程のこともなかろうが
我が家の床はいったいどういう施工になっているのか
床に水がこぼれると、下の階の天井につつつーと流れ込み
派手に漏水したうえ、天井板がはがれかけるという仕組みになっている。

前に一度、これは持ち上げたバケツの柄が外れ、
あっと思う間もなく床に水をぶちまけてしまった時も
水は瞬く間に一階の床から地下の天井に流れ込み
地下室の天井をぼこぼこにしてくれた。

そのぼこぼこは、「どうせ地下へは家人しかいかないから」と
そのまま2年ばかり放ってあったのだが、この秋、他の工事のついでに
一緒に直してもらって、やっと元通りのきれいな天井になったばかり。

それなのに、それから2か月も経たないうちにまたぼこぼこにしてしまっては
直った天井を見て喜んでいた雪だるまがどんなにがっかりすることか、
ついでに結構な金額だった工事代金も頭に浮かび、
あの金額をもう一回?と思ったら、普段は何事にも鈍感で、
およそパニくることなどない私も、この時ばかりは一瞬にして顔面真っ青、心臓ばくばく。
言葉にならない言葉を悲鳴のように口走って、わらわらと焦りまくり、
涙目になりかけながらモップと、途中で二階から調達してきた2枚の大判バスタオルとで
水の拭き取りにかかったのだが、あんまり焦っているものだから、
そばにあった大きなユッカの鉢植えを倒しかけたり、
コードをモップに引っかけてパソコンを水の中に落としそうになったり、もう散々。

それでも何とか床の上の水はふき取ったが、
さてどのくらいの水が床下(=天井)に潜り込んだのか、
私は心臓ばくばくのまま地下へ降りて、天井を見上げた。
が、水がこぼれた直後の天井は、まるで何事もなかったかのように平らなまま。
滴り落ちてくる水滴もなければ、水で天井板が膨らんでいる様子もない。

思い返してみれば、前回バケツの水をぶちまけてしまった時も
下の階の天井から水が滴り落ちたり、天井板がはがれかけたりしたのは
水をこぼしてからしばらく経ってからで、だから今大丈夫だからと言って安心はできない。
私は「今、水滴が落ちてくるか」「天井がたわみ始めるか」と戦々恐々。
それから何度も何度も、地下に降りては天井の具合を確かめ
生きた心地がしなかった。

「たかが水漏れくらいで何を大げさな・・・」と思われるかもしれないが
パニックの大きさは事態の重大さに正比例するわけではない。
私にとっては、車で接触事故に遭った時より、勤めていた会社が倒産した時より
その関連で香港の Inland Revenue(内国歳入庁?) から
億単位の税金の督促状が私個人あてに届いた時より
今回の“バケツの水ぶちまけ事故”の方が、よほど恐怖だったのである。

幸い、事故から24時間以上経った今でも、地下の天井は平穏無事、
水滴は落ちてきていないので、どうやら今回は「天井ぼこぼこ」は免れたようだが
(水がこぼれた場所がよかったのか、あるいは秋の工事の際、天井に水漏れ防止の
補強材でも張ってくれたのか)
パニくった私の心臓と神経の方は、まだ平常には戻っていないようで
今でも水がこぼれた場所や、バケツなどに目が行くと、心臓がどきどきする。
拭き取りに使ったバスタオルを見ても、同様である。
あげく、水がこぼれたそばにあっただけで事故とは何の関係もない手ぬぐいを見てさえ
胃がキーンとなるのには恐れ入った。

私は今までPTSDというのがよくわからなかったが、
仮に、今の私の状態を数十倍深刻にしたのがPTSDだとすれば
なるほど、これは笑い事ではない。

私はしばらく、怖くて水を使った掃除はできそうにない。
何ともしまらない年の暮れである。

Pagination

Utility

プロフィール

らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

カテゴリー+月別アーカイブ

 

FC2カウンター