怒涛の春

あいや、10日以上もブログをさぼってしまった。
怠けていたわけではないのだが、春はどうもやることが多くていけない。
ことに庭仕事。
ブログをさぼっていた間に、恒例の芝掻きをし、
冬の間物置にしまってあった雨水桶を出してきて、新たに組み直した土台の上に乗せ
(去年、目見当で適当に土台を組んだら、左右がびっこで具合が悪かったので、
今年はちゃんと水平器を使って少し前傾気味に、しかし左右は同じ高さになるよう調整)
畑を掘り返してコンポストを入れてエンドウと人参の種蒔きをし、
ついでに畑の豊かな土に惹かれたのか、芝生がだいぶ畑の方に入り込んで来ていたので
芝生との境に芝止めを埋め込んで侵入を阻止し、
前庭に植えてあるボーダーリリーが、4年目ともなると株が増えて窮屈になってきたので
ちょっと芝をはがして芝止めを移動させ、ボーダーの幅を広げて楽に根が張れるようにし、
そうこうするうちにだいぶ暖かくなってきたので、少しずつマリーゴールドとパンジーの定植を始め、
家の側面にずらり植えられているアジサイの葉っぱが出始めていたので、芝にかからないよう柵を立て、
ユリの葉っぱを食い荒らして穴だらけにする小さい赤い甲虫と
アジサイの葉っぱを食い荒らす葉巻虫退治に毎日ユリとアジサイの株を巡回し、
5月も下旬になったので、そろそろだいじょうぶだろうと
苗屋に行ってミニトマト4株(赤、黄、オレンジ、黒)、キュウリ2株の苗を買ってきて畑に植え、
玄関先の花鉢4つに牡丹色と白のペチュニアを植え、余ったペチュニアで花籠を作り、etc. etc...

ことほど左様に、春は庭仕事が多いのである。
が、この時期を過ぎてしまえば、後は花がら摘みと定期的な施肥、水遣りくらいしかないので、楽ちん。
夏の日射しの下、元気よく咲いている花を、ぼおっと眺めて楽しんでいればよい。
ちなみに今花盛りなのは、ムスカリ。


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去年の生き残りのパンジーも、何株か咲いている。

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チューリップも咲いたのだが、ある晩、突風が吹いて、だいぶ首が折れた。
ことにアントワネットチューリップは全滅。
だいたいこれは名前が悪かったのかもしれない。
なんたってアントワネットだから、首が落ちるのも道理かも。

首折れを集めて、花瓶に生けてみた

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怒涛と言えば、この時期はサン・モーリス川も怒涛の勢い。
雪解け水を集め、岩をも砕くような勢いで流れていく。

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『Hidden Figures』

  • 2017/05/11 03:20
  • Category: 映画
こうしてケベックの田舎に住んでいると、
自分がマイノリティであることは、常に頭のどこかにある。
白、黒、黄色取り交ぜて、様々な国からの移民が通りを歩いているモントリオールや
すでに非白人の方が多数になったトロントのような大都会ならいざ知らず
この人口5万の田舎町では、住民の9割以上がフランス語をしゃべる白人で
そんな中で、黄色っぽい皮膚と平面的な顔立ちをもった東アジア系は
どう頑張っても“ビジュアル・マイノリティ”であることは免れず、
“マジョリティ”=一般住民の中に紛れ込むことはできないからだ。
喋りさえしなければ、地元民のふりをして雑踏に紛れ込めた香港
(だって何しろ同じような顔、身体つきなのだ)とは、この点、大きく違う。

もっとも、21世紀の現在では、紛れ込めないからと言って
すぐすぐ不都合が起こるわけではない。
法や建前の上では、移民だろうが、マイノリティだろうが権利は平等、
対等な立ち位置が保障されている。
学校や職場といった集団の場では、陰に陽に差別や不平等があるにしても
その差別や不平等はあくまで日陰の植物的な隠されたものであり、
白日の下に晒して、その正当性を主張できるようなものではない。

だからと言って“ビジュアル・マイノリティ”の意識の中から
自身が少数者であるという認識が消えるわけではないが、
(市民権を得ようと、数の上では多数になろうと
マイノリティはマイノリティ、その皮膚の色が、外貌がある限り
ある日突然、“差別”あるいは“区別”される対象となる可能性があるということ、
それがどんなに不当で理不尽で不合理なものであっても
青天の霹靂のように起こりうる可能性があることを
頭の隅の隅、奥の奥で、わかっているから)
少なくとも、差別を不当だと言える根拠があるだけましだ。

が、この映画『Hidden Figures』の主人公たちが生きた時代(60年代初頭の米国)は、
そんな不当な差別を、不当だという根拠すらなかった時代。
差別することが合法で、平等を要求することが違法だった時代だ。
主人公たち3人、キャサリン、ドロシー、メリーは、他の多くの黒人女性たちと共に
NASAで専門職として働いているが、黒人で、しかも女性であるため、
賃金は白人たちより低く、役職には就けないなど、
あらゆる面で区別、差別されている。

その一人、高等数学に天才的な才能を持つキャサリンは、
計算手(computer)としてスペース・タスク・グループに配属されるが
同じ職場の人間(ほとんど白人の男性)は彼女を同僚とは見ず、
ただ計算のためにそこにある機械として冷ややかに遇し
「これ今日中に」「これ昼までに」と、次から次へと複雑な計算業務を落とし続けるだけで
その計算をする彼女の労働環境がどれほど非人間的か気付きもしない。

たとえばSTGに配属された初日、彼女はトイレに行きたくなって
同じ職場の白人女性(彼女に仕事を振るところから見て
彼女よりは立場が上の人間)に「トイレはどこでしょう?」と尋ねるが
その女性の答えは「“あなたの”トイレがどこにあるか知らないわ
(I have no idea where your bathroom is)」
私はこの“your”に引っかかり、一瞬、NASAのトイレは
どこかの大企業の食堂のように、幹部用と一般職員用と分かれているのか?
と思いかけたが、次の瞬間、「あ」と気付いた。
キャサリンはもちろん「黒人用の女性トイレはどこか」と聞いたのであり
聞かれた白人女性の方は、(自分たち、白人女性用のトイレがどこかはもちろん知っているが)
「あなた方、黒人女性用のトイレがどこかは見当もつかないわ」と答えたのである。
で結局キャサリンは、高まる尿意を押さえつつ、
トイレを探して広大なNASAの敷地の中を走り回ることになる。
そして自分の職場からは1km近くも離れた、
黒人女性が多く働く建物の中に見つけるのだが
それから毎日、彼女はただトイレに行くためだけに
往復2㎞近い距離を、1日数回走ることになる。
しかも制服と定められた膝下丈のスカートとヒールで。 
万事如此。

場所や物は、すべて“colored”と“white”に分けられている。
初めは1つしかなかった職場のコーヒーポットは、
彼女がその同じポットからコーヒーを飲んでいるとわかったとたん
いつの間にか小さい“colored”用が加わり、しかしポットはほとんどいつも空。

“colored”用トイレのせっけんやペーパータオルは切れがちだし
バスでは“colored”用と定められた後部に座らなければならない。
公共図書館も “colored”のコーナーとそれ以外とに分かれており
“colored” は白人用コーナーの書籍を閲覧することはできない。
学校ももちろん分かれており、“colored”は“colored”の学校にしか行けない。

よくもまあ、ここまで分けたものだと感心するくらい
生活の細部にまでわたって、“colored”と“non-colored”は分けられ
“colored”は常に劣位に置かれている。
当時、建前としては“colored” “non-colored”は
「分離すれども平等(separate but equal)」とされていたが
何が平等なものか。
本当に平等なら分離する必要などないわけで
分離しようとの意図が頭に浮かぶ時点ですでに両者は平等ではあり得ず、
どちらかが優位に立ち、どちらかが劣位に置かれるのだ。
「分離すれども平等」なんてのは、まやかしに過ぎない。

そしてこの映画の中の徹底した差別の図式は今の日本人から見ると
白人による黒人差別の図式、つまり黒人対白人の対立の図式で
日本人はリングの外、自分とは関係ない国で、関係ない人たちの間に起きた
歴史上の出来事、のように見えるかもしれないが、なんのなんの。
普段あまり意識に上ることはないだろうが、
日本人を含む東アジア人は所謂黄色人種であり、
つまりは有色人種、“colored”なのだ。
厳密には同じ“colored”でも、黒人に対する差別と
アジア系に対する差別には微妙な違いがあったようだが
しかし“colored”か“non-colored”かと聞かれれば、
黄色い皮膚のアジア系は、明らかに“colored”。
この当時の米国南部に暮らしていたなら、
黒人やネイティブアメリカン同様、バスでは後部に座り、
“colored”用の切符売り場で列車の切符を買い、
“colored”用の水飲みから水を飲む人間。
NASAで働いていたなら、キャサリン同様、“colored”用のトイレを探して
走り回る側の人間なのだ。
対岸の火事など、とんでもない。

そう思ってみれば、他人事でなくなる分、この映画はより面白いのではないか。
一応実話を基にした話で(映画としてまとめる都合上、多少脚色した部分はあるようだが)
まったくの絵空事というわけではないし、俳優さんたちの演技も達者だ。

それにしても、私は普段、人間は科学技術の面では大きく進歩してきたが
徳性の面では一向に進歩していないと、
人間という生き物に対し悲観的な見方をしがちなのだが
こうして60年前と今とを比べてみると、とりあえず公民権法の成立(’64)以降、
米国では人種、宗教、性別等による差別はいけないという建前になったし
南アのアパルトヘイトもマンデラによって撤廃された(’94)し
本当に遅々たる歩みではあるが、少しはましになってきていると言えるのか。
現実には差別は一向になくならず、世界各地で常に新たな標的が生まれている
状態であっても、一応「差別は不当」と言えるようになったという点で。



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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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