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ガラパゴスの老人

  • 2018/08/29 08:32
  • Category: 雑記
とうとうケータイを買った。
こちらに引っ越して以来、電話は家の固定電話1本で、雪だるまも私もケータイというものを持たずに過ごしてきたのだが、ほんの時々だが車で遠出をするようになり、万一人里離れた田舎道で不測の事態に見舞われた場合、連絡手段が全くないのでは不便だろうと、ケータイを買うことにしたのである。

もっとも、買おうと決心したのは去年の夏の話で、実際に買ったのは本日であるから、決心を実行に移すまでに1年以上、かかったわけである。カメどころか、あんまり動かないので身体に苔が生えるというナマケモノ並みののろさだが、私達の欲しかった機種は、いつ行っても店頭に在庫がなかったのだから仕方がない。

いや別に、超人気で品薄の最新モデルのスマホを買おうとしていたのではない。その逆で、通話以外何の機能もついていない、昔懐かしい2つ折り型の“携帯電話”を買おうとしていたのである。しかもプリペイドの。冒頭から“スマホ”と書かず、“ケータイ”と表記していたのはそれゆえで、そしてそういう時代遅れの、人気のない型だから、いつ行っても注文用のカードがあるだけで、在庫がなかったのである。たぶん、今時こんな機種を買う人は、この老人ばかりの田舎町でもほとんどいないのだろう。あたりを見回してみれば、お散歩や編み物仲間のマダムたち(60~70代)だってスマホだし、失業中で金欠の義弟ジェリーや、この手のものにはとことんうといと見受けられるフランスですら、使っているのはスマホである。況や彼らより若い世代においてをや。

が、それでも私たちはスマホは欲しくなかった。雪だるまはジムと週1の買い出し以外、外に出ることはほとんどないし、私はまあお散歩会に行ったり、編み物会に行ったり、雪だるまよりは外に出るが、携帯電話がなくて不便と思ったことは、過去7年間、たぶん1度もない。そもそも家の固定電話すら、私達はほとんど使わないのである。今回買った携帯も、たぶん大部分の時間、電源を切られたまま、居間の棚に置かれることになるだろう。

であるから、私たちには高額でしかも月々固定料金のかかるスマホなど必要ないのである。第一、雪だるまなど携帯電話をもったのは、今回が初めて。買ってはみたものの「これ、どうやって使うの?」という感じで、旧式携帯の使い方すら知らないのだから、スマホなど使いこなせるはずがない。私も、仕事時代はやむを得ず携帯を持っていたが、仕事を辞めたとたんポイ。以来、一度も触っていないので、最近の多機能携帯電話のことなど、何も知らない。よってスマホなど、私達には猫に小判、豚に真珠。投資するだけ、無駄。

私も雪だるまもSNS系の繋がり方が嫌いで、だからFBのアカウントを持つ気など全くないし、ツイートもしない。今回、携帯は買ったが、たぶん使うことはほとんどないだろうし、ははは、こうして私たちは時流に乗り遅れていくのである。まあ、いいさ。
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うろうろ歩ければ、それでいい

  • 2018/08/24 23:24
  • Category: 雑記
6月、突然、雪だるまが「アイスランドへ行こう」と言い出した。「なぜ、アイスランド?」とは思ったが、面白そうなので賛成し、飛行機を予約し、レンタカーを予約した。行くのは来月、9月である。

が、何しろ人が言い出したことなので、どうも今一つ準備に身が入らないというか、緊張感に欠けるというか、あの行きたくて、見たくて仕方がないところへ行く時の、期待に高鳴る胸のうずうずがない。

アイスランドは間欠泉、熱水泉、数々の滝、氷河など、他では見られない自然が見られるところで、しかも人口が少なく、観光客も(ごく有名な少数の場所を除いて)ものすごく多いとは言えないから、その特異で美しい自然を心静かに堪能できる。
だからこそ雪だるまが行きたがるのだろうが、私はここ1、2年、自然よりは人工物、街というものに惹かれていて、特に建物も道も塀も広場も何もかも石を積み上げて作られたような、街全体が無限に続く大小の石の連続、どこまで行っても、見えるのは人の手で積み重ねられた石の構造物ばかりというような石造りの街に、曰く言い難い魅力を感じている。その摩滅した石の中に染み込んだ長い、長い年月が、私を惹き付けるのかもしれない。

が、観光写真で見る限り、アイスランドにはそういう街はありそうもなく、海岸線沿いに集まった小さな町々に並ぶのは、白や赤の四角い箱の上に三角屋根をのせた、積み木の家のようにこざっぱりした家ばかり。簡素な清潔感はあるが、じっとりこちらを包み込むような情緒はない。

でもまあ、それもいいかもしれない。特に予定はない旅だから、足の向くまま、気の向くまま。ゆっくり車を走らせて、気に入ったところがあれば停まり、うろうろと歩き、疲れたらどこかに泊まる。一応調べはしたが、本当のところ観光名所などは、どうでもいい。

知らない場所、異国でやりたいのは、何でもない小さい町、集落をあてもなく歩き、店屋があったら、そこでパンでも買い、それを食べながらまた歩くことだけだ。他にやりたいことはない。

びくびく

  • 2018/08/21 10:43
  • Category: 言葉
昨日は私が属する極小カルチャーセンターの portes ouvertes(自由見学会)で、私も秋の日本語講座の案内を用意して、アシスタントをお願いしているGちゃんと共に、会場に出かけた。

そして朝10時から夕方4時まで会場に詰めていたわけだが、隣のテーブルの「英語/ドイツ語講座」や上の階の「スペイン語講座」の盛況ぶりに比べると、我が日本語講座の人気は今ひとつどころか今よっつくらいで、みな日本語講座と聞くと、目の前で手をプルプルと振りながら「いやいや、とてもとても」と逃げていってしまうのであった。みなさん余程「日本語は難しい」と思い込んでいらっしゃるらしい。

それにもちろん、この北米の田舎町では日本語の使い道など万に一つもあるはずはなく、同じ勉強するなら仕事や遊びにすぐに役立つ英語、あるいは語彙、文法が似ていてとっつきやすいスペイン語の方がよいと思うその気持ちはよくわかるし、予想もしていたので、別に特にがっかりしたりはしなかった。

それでも、前回の日本語講座に参加してくれた生徒さんは大部分顔を出してくれ、その他新しい参加希望者もちらほらいたので、少なくとも初級2の方は開講することになりそうである。教科書はGちゃんたちの意見も聞いて「みんなの日本語」にしたが、週1回2時間の授業でどこまでやれるか甚だ心許なく、いったいどうやって教えたらいいものかと、考えるとどっと気持ちが暗くなるのだが、「勉強したい」と言っている人たちがいる以上、なんとか出来るだけのことはしなければならない。

まあ、語学は最終的には本人の努力次第で、いくらいい教材があっても、優れた教師がいても、本人が勉強しなければモノにはならないし、逆に教科書、CDだけの独学でも、本人が日々こつこつと勉強を続ければ、日常会話くらいは難なくこなせるようになる。以前、うちに日本語会話の練習に来ていたV君など、友達からもらった「みん日」と、あとはネットを使っての独学で、日本語学校に行ったわけでも、先生について勉強したわけでもなかったが、感心するほど上手な日本語を話した。

だから本当のところ、私のようなへっぽこ教師は「百害あって一利なし」で、いない方がいいのかもしれないが、週1回、みんなで集まって日本語をつつくことで、日本語を勉強する意欲が持続するという面もなくはないと思うので(仕事から疲れて帰った後で、ひとり家で勉強を続けるには相当の意志の力が必要だ)、我が性格とは真反対の授業、“明るく、楽しい”授業を心がけ、生徒が心楽しく勉強を続けられるよう、ほんの少しでも手助けができればいいなあと思うのだが、その思い通りに事が運ぶとは限らないので、私は常にびくびく。授業のことを考えると、不安の黒雲が脳裏に広がり、胃がずうんと重くなる。

堂々と自信たっぷりの英/独語講座のマダムNや、余裕の貫禄のスペイン語講座のマダムAが、心底羨ましい。

チベットスナギツネの砂岡さん

  • 2018/08/17 10:46
  • Category:
一昨日の夜、突然ピンタレスト画面に現れ、私の心を奪った
チベットスナギツネの砂岡さん

寡黙で、眉間に皺を寄せたにこりともしない表情が一見恐そうだけど
実は限りなく心優しく、部下を気遣い、隣人を気遣い、上司のセクハラに対抗し、
そして、そして、一人娘の砂奈子ちゃんを、何物にも代え難い宝物のように大切にしている。

キューライスさんの4コマ漫画。
砂岡さんの優しさと、砂奈子ちゃんのやんちゃな可愛さを、ご堪能ください。

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キューライスさんのサイト 

眼鏡を新調してはみたが

ここしばらく目の見えがよかったので内心ほくほくしていたら、今日はまたちょっと元に戻ってしまって字がぶれている。ちぇ、残念。

まあこの歳になって今さら視力が上がるはずもないから、結局のところ見える、見えないはその日の調子、前日、あるいはその日一日何をしたか、どのくらい目を使ったかによるのだろう。日がな一日、庭仕事などして目を酷使しなければ、夜になっても視界はぶれない。本が読める。が、ちょっと根を詰めて編み物などしてしまったり、パソコン画面を見過ぎたりすると、てきめん字が読めなくなる。目を使う作業は、ほどほどにせよ、ということらしい。

もっとも私の場合、字が読めなくなるとは言っても、すべての字が読めなくなるわけではない。日本語は文庫、新書などの小さめの活字でも、まだ読める。漢字など細部がはっきり見えなくても、字面と文の前後関係でだいたい間違いなく読み取れるのだ。母語として50年以上読み続けているのだから、当たり前といえば当たり前だが。

困るのは英語とフランス語だ。アルファベットがびっしり並ぶので、はっきり見えないと簡単に読み間違える。小文字のlとcがくっついてkになってしまったり、lとiが並んでいると互い重なり合ってlが2つ、あるいはiが2つあるように見えたり、はたまた綴りの似ている別の単語と読み間違えたりなど、しょっちゅうだ。しかも母語でない悲しさで、読み間違えてもなかなか気が付かない。

実は、あまりに字がぶれるので、この春、読書用メガネを新調したのだが、ちゃんとoptometrist(検眼士)に検査してもらい、その処方で作ったにも関わらず、やはり見え方は今一つで、「眼鏡を作り直せば、字がはっきり見えるようになるかも」と期待していた私は、かなりがっかりしたのだった。

もっとも、私の視力を検査したあと、私が持ち込んだ古い方の眼鏡も検査した検眼士殿が、「この眼鏡でもまだ十分見えるはずですが」と言った時点で、そうなりそうな予感はしていた。もしかしたら作り直しても無駄かも、と。それでもあえて作り直したのは、たとえほんの少しでもぶれが改善されれば、読書の際のストレスが減ると思ったからだ。結果は期待通りとはいかなかったが、仕方がない。

左目がおかしくなって以来、私はずっと思っているのだが、あの視力検査というやつは、「見え」の実情を反映していない。日本でも香港でも当地でも、視力検査というとあの大きさの違うアルファベットまたは数字を順番に読んでいくというのが主流だが、実生活では文字はあんな風にスポットライトを浴びて、単独で登場したりはしない。大は店屋の看板から、小は薬の説明書きまで、文字は常に他の文字といっしょに列になって、あるいは前後左右を他の文字にびっしり囲まれてこちらの前に現れる。そして互いに干渉しあう。単独でなら識別できても、他の文字と一緒に並ぶと、右から左から、まるでインクが滲むように文字同士が重なり合って、識別不能になる。私のように像がぶれる目を持った者はなおさらだ。

が、専門医でない医者はスポットライトを浴びた単独の字の「見え」で問題ないと言い、検眼士はスポットライトを浴びた単独の字の「見え」を基に、眼鏡を処方する。像のぶれない人ならともかく、像のぶれる人が、そうして作った眼鏡で、本などの“一塊になった文字”を、はっきり見られるようになるわけがない。

若い頃に戻りたいとは思わないが、身体の回復力と視力だけは、10代の頃に戻れたらなあ、と思う。あの何時間でも何時間でも読み続けられた体力と視力!

その1ミリが命取り

ブログを更新しなかった3か月、何をしていたかというと、編みぐるみを作っていた。例のボランティアグループ「アルバトロス」のためだ。冬の間はせっせと帽子やマフラー、春先には注文により室内履きを編んでいたのだが、夏も近づいてくると、いくら寒いカナダでも帽子やマフラーはもう売れない。そこで編みぐるみ。

最初は頭、身体、手足などのパーツを、細々編んでくっつけるという作業が面倒くさくて、なるべくパーツの少ないデザインを選んで編んでいたのだが、いくつか作るうちにだんだん面白くなり、かつまたよく売れるので、注文に追われるように編んでいるうちに、あっという間に2か月が過ぎた。よく編んだのは、こんなのや、


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こんなので、

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あれこれ合わせて、たぶん50個以上は編んだと思う。

で、編んでみて思ったのだが、編みぐるみは編み自体は難しくない。かぎ針での編みぐるみの場合、頭も胴も手足も細編みでらせん状に編んでいくものがほとんどだから、細編みが編めて、増し目、減らし目ができれば、編みぐるみは編める。問題は、その後だ。そのくるくる編んだ頭や胴体や手足を互いに縫い付けて、クマならクマ、猫なら猫らしい形にしなければならないのだが、これがけっこう難しい。手足や耳など、縫い付ける位置は決まっているようなものだが、しかし実際に縫い付けてみると、どうも微妙に位置がずれてしまって、それらしく見えなかったり右腕と左腕で肩の高さが違ったり(らせん状に編んでいるから、同じ段でも右側と左側では微妙なずれがある。単純に「首から5段目、いち、に、さん・・・」なんて数えてくっつけると、えらい目にあう) 、あるいは高さは合っていても、深さというか、正面から見た時、右足はやや腹寄り、左足はやや背中寄りといった感じになってしまっていたりして、いくら待ち針を打ち、「ここだ!」と見定めて慎重に縫い付けてみても、なかなかきっちり左右対称になってくれない。出来上がった手足がややびっこのクマやキツネを見やり、我が造形力のなさというか、立体把握能力の低さに「とほほ・・・」となるのはこんな時である。

それから顔を作るのも、なかなか一筋縄ではいかない。編み図によっては「目は編み始めからX段目、左右の間隔X目で付ける」などと指示があるものもあるが、そんなものはごく少数なので、たいていは出来上がり写真を見て、それらしい位置に目鼻を付ける、あるいは刺しゅうすることになる。が、これがまた実にトリッキーというか、素人泣かせというか、なかなか思うような顔になってくれない。手足の縫い付け同様、ほんのちょっとの差が大きく表情の出来不出来を左右し、一目どころか半目の差でかわいくなったり、不細工になったり、まさに「その1ミリが命取り」。今つくっているウサギなど、いったい何回、目鼻の刺しゅうをやり直したことか。

それでもあれこれ編んでいるのは、糸が形になるのがおもしろいから。ことにここ数日は、人がデザインしたものではなく、自分の頭の中にあるイメージを形にしようとあれこれ試しているので、よけい楽しい。

そして編みぐるみではないが、今、Mr. Finch さんのテキスタイルアートや、Annie Montgomerie さんのちょっと不気味な人形に、うっとりと心奪われている。名前はわからないが、ロシアにも面白いものを作る作家さんが、たくさんいる。人を制作に駆り立てる、この衝動はどこからくるのだろう。

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Mr. Finch のうさぎ

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Annie Montgomerie のひつじの女の子とうさぎの女の子


Mr. Finch インスタグラム    

Annie Montgomerie インスタグラム 

「おかえりなさい」

  • 2018/08/10 00:44
  • Category: 日本
そう言えば、もうひとつ。水林さんは「おかえりなさい」についても書いている。成田の、あの入国審査から手荷物受取所に至る途中に掲げられている、大きな「おかえりなさい」の看板のことだ。

過去20数年、私はあの看板を見るたびに、微妙な居心地の悪さに唇が引き攣れるのを、止めることが出来ないで来た。その微妙な居心地の悪さは、その間の私の日本行きが常に出張か、あるいは万やむを得ない家族の事情かによるもので、自ら好んで、楽しみのために行ったことはほとんどなかったこと、またそうして日本の土を踏んだところで、早ければ3日後、遅くとも2週間後には、また同じ成田に舞い戻って、異国にある自分の家(home)に帰って行くことがわかりきっていたこと、つまりは真に「おかえりなさい」の状況にあったわけではないという背景が引き起こしたのかもしれないが、しかしそれだけではない。私はたぶんこの看板に、水林さんが指摘する排他性を感じていたのだ。

入国審査から手荷物受取所に至る過程は、“外”から“内”への過程である。外国から日本へ入国する者たちは、この通路で「おかえりなさい」と「Welcome to Japan」の看板に迎えられる。アルファベットで書かれた「Welcome to Japan」の看板とは異なり、ひらがなで書かれた「おかえりなさい」は、日本人と(入国者全体の割合から見れば少数の)日本語学習者しか読むことができない。そして「おかえりなさい」という語が持つ性格上、日本語学習者(=非日本人)は、たとえその語を読むことができ、意味がわかったとしても、その語の対象とはなり得ないから、この「おかえりなさい」はひとり日本人にのみ向けられており、無言の圧力で「今、この語を見ているあなたは、日本人だ。あなたの祖国は、ここだ。あなたはこの国の一員なのだ」と、こちらに迫って来る。「おかえりなさい」という言葉は、一見あたたかく、やわらかく、やさしいが、こちらを包み込み、集団の中に絡め捕ろうとする力は、相当に強い。

私が無意識に感じ、嫌ったのは、これだ。国家による帰属意識の強要。傍目には成田は単なる空港で、飛行機に乗ったり、降りたりするための場所、どこかへ行くために利用する交通機関がある場所にすぎないが、しかし実のところ、ここは政府の管理下にある場所だ。空港公団から空港株式会社に変わり、民営化されたとは言っても、その株式のすべては政府により保有されている。だからあの建物は政府の建物。その建物の壁に掲げられている看板は、政府の看板だ。私は国から「おかえりなさい」という親密な言葉を、かけられたくない。

「おかえりなさい」という言葉そのものが、嫌なわけではない。フランス語圏に住み、英・日語で用を足す毎日であっても、雪だるまが出かける時にはなぜか日本語で「いってらしゃい」と言うし、帰ってくればこれまた日本語で「おかえりー」と言う。雪だるまも(気が向けば)同様に日本語で私に言う。この場合、“微妙な居心地の悪さ”など微塵も感じない。雪だるまと私の生活は、私的領域だ。そこでの「おかえりなさい」は、親しい者同士の私的な挨拶に過ぎない。

しかし国に言われるとなれば、話は別だ。それは私的な挨拶ではなく、公的な帰属の確認。公が、官がわたしの私的領域に入り込み、主人顔をして私に帰属を問うているのだ。

私は日本で日本人の両親から生まれ、日本で育ち、母語は日本語で、日本の文化、伝統、慣習は、それと意識できないほど、身体に精神に染みついている。今後、国籍を変えることがあったとしても、私は文化的には日本人でしかありえない。しかしそれでも、国に「日本人であること」を強要されるのは嫌だ。だから成田の「おかえりなさい」が嫌いなのだ。
これが成田という内と外を区別する場所、日本と非日本を区別する場所ではなく、たとえば地方都市の駅、関東圏で言うなら水戸、宇都宮、高崎などの駅に掲げられているのだったら、私は気軽に(たとえそこに家はなくとも)「はい、はい、ただいま」と呟くだろうし、あるいはもっと卑近に、かつて実家があった北関東の小さな町、私が生まれ育ったちっぽけな田舎町の、古びた駅舎の改札口あたりに、小さく「おかえりなさい」とあるのだったら、私はそれを見た瞬間、不覚にも目に涙を浮かべるかもしれないが、成田ではだめだ。国から言われるのではだめだ。ちらと看板を見やり、唇を引き結んで通り過ぎることしかできない。

『Petit éloge de l’errance』

  • 2018/08/08 01:31
  • Category:
今、音読している水林章さんの 『Petit éloge de l’errance』 。梨の木さんが3年ほど前に紹介され、面白そうだったのでその年のクリスマスに買ってもらったのだが、当時は文章が難しすぎて、まったく読めなかった。で、そのまま放っておいた。が、先日、叔母さんの1人が貸してくれたので、読まないわけにはいかなかった本を、1年近くかかってやっとこさ読了したので、「今なら読めるか?」と手に取ってみたら、何とかなりそうだったので、読み始めた。

ここ数年、私は世間に対する関心がますます薄れ、さまざまな国の様々な指導者たちがどのような発言をしようと、あるいは行動を取ろうと、テロや天災、未曽有の大事故が起ころうと、「ああ、そう・・・」という感想しか出て来なくなっている。感情が鈍磨したのか、倫理観がなくなったのか、見知らぬ他人がプレイしているテニスの試合をTVで眺めるように、世間のありさまを眺めている。本当は、私は観客とは言っても画面のこちら側ではなく、当の試合会場にいる観客、まかり間違えば打たれた球が飛んできて、頭にすこん!と当たる可能性がある観客で、世間の出来事は他人事ではなく、自分事(?)であるはずなのだけれど。

『Petit éloge de l’errance』の中でも何度か言及されている加藤周一はかつて、「特定の状況に対して怒ることのできる能力は、人間の能力の中でも大切なものの一つであろう」と書いた。私が最後に怒ったのは、一体いつだったろう。何が起こっても「ああ、またか」と、無責任な諦観で応じてしまうのは、怠惰以外のなにものでもない。そしてその怠惰の源には、水林氏の書く“異を唱えることを非とする日本社会”、“長いものには巻かれろ”の体制順応主義がある。美しい国・日本の伝統に、私も骨の髄まで染まっているのである。

その染まっていることを認識するために、かの国の美しさは、何度でも、何度でも指摘してもらった方がよい。水林氏の同書はフランス語なので、私には細部を全部すっ飛ばかし、大意を掴むといった程度の読み方しかできないが、その程度の読み方でも、思うところは多々ある。
3.11から7年経ち、ニュースサイトの見出しに「福島」の文字を見ることはほとんどなくなったが、「福島」は終わったわけではない。今も放射能は漏れ続け、被害は広がり続けている。しかしそういう報道はされない。政府の方針と相反し、福島の“復興”を妨げる情報の報道は、歓迎されないからである。が、報道されなければ、話題にならなければ、人は忘れる。すべて順調にいっているかのように、そのことには目を向けず、日常生活を送る。

憲法改正についても、安倍首相は昨年末、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と発言し、改憲に向かって粛々と前進するお気持ちのようだが、日本国民は本当にそんなことを望んでいるのか? 大多数は私同様、ただ怠惰なだけではないのか。異を唱え、人と違った行動を取るのは、エネルギーのいることだから。しかし怠惰がどういう結果を生むかは、過去を見れば明らかである。それを思い出すためにも“長いものに巻かれる”危うさは、何度でも指摘してもらった方がよい。

ところで、同書はそういう“思うところ多々”の他にも、楽しい記述があった。ひとつは冒頭のクロサワ映画の話である。有名過ぎて、黒沢明氏の映画や三船敏郎氏には関心がなかったのだが、水林氏が『用心棒』と『椿三十郎』に言及されているので、どんなものかと思って見てみた。そして「へえ」と思った。三船敏郎演ずる主人公の軽妙ないい加減ぶりが、なかなかに面白かったのである。『椿三十郎』の方は、家老の奥方の、とろいまでにおっとりした人柄というか、悟りを極めた禅僧かと一瞬錯覚するような天然ぼけの妙味も印象に残った。

その他、音楽における“声”と、ひとの意見としての“声”を対照するところも面白かった。残念ながら私は音楽に詳しくないので、水林氏が語るフィガロやコジ、ベートーヴェンの弦楽四重奏の美しさを自らの体験として「ああ、その通り」と納得して同意することはできないのだが、想像することは(かろうじて)できる。


『Petit éloge de l’errance』は、あと少しで読み終わる。次は、『Une langue venue d’ailleurs』を読みたいと思う。

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らうとら

Author:らうとら
ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、米朝、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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