教育が進めば

  • 2014/06/30 11:57
  • Category: 雑記
遠くはイラク・シリア国境地帯やウクライナでのごたごた、お祭り騒ぎのW杯とそのしわ寄せを食う人々の問題から、近くはボートから湖に放尿している人たちに対しジョゼが「ここの水は飲料水になるのだから」と注意したら、逆ギレされて「ブルジョア!」(環境問題なんぞに関心を払うのはブルジョワジーの道楽という意味か)だの何だのさんざん罵声を浴びせられたという話まで、このところヒトという種の質的平均値の低さにつくづくとペシミスティックになり、未来というものに関心を失っている。

どうして平均値としての人間はこうも愚かなのか?と嘆く私に雪だるまは、問題の多くは教育の欠如が原因だ。紛争、貧困、政府の腐敗や社会の機能不全など、種々の問題を抱える国/地域の多くではまともな教育(たとえ制度的にどんなに完璧であろうと、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など絶対神への崇拝を根本においた教育を、雪だるまは“まともな教育”とは認めていない。よって中東の多くの国の教育は、雪だるまに言わせれば“まともな教育”ではないことになる。米国もまた然り)が行われていない。まともな教育が行われていなければ、そこの国民/住民は長じても正しい判断をすることができず、問題の解決に愚かな手段を選択したり、愚劣な指導者あるいは甘言を弄する指導者に簡単に扇動されたりする。そしてますます問題が拡大する、と言う。

確かに民主主義を機能させるために最も重要な基盤は教育であり、教育ある国民/住民無くして民主主義は成り立たないというのは常識だが、しかし人を教育することの、なんと難しいことか。

まずシステムの問題がある。人を一つの場所に集めて、一定の期間集団的に教育する学校という制度は、最も合理的かつ安上がりに均質な教育を施せる制度だろうが、何しろ常に“集団”なので、集団になった時のヒトの問題点が、さまざまな面で浮き彫りになる。ことに経済的に豊かで社会に余裕のある国においては、学校が教育機関としては十分機能しなくなり、むしろ集団生活の中でのいじめや登校拒否など、別の問題を生み出す場と成り果てている例が少なくない。

それにたとえ機能している学校であったとしても、そこにいる生徒が学んでいるとは限らない。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないという例え話の通り、人を学校に放り込むことはできても、何かを無理やり学ばせることはできない。学ぶか否かはまったくその人個人にかかっているのだ。資質の問題もある。いくら詰め込み教育といったところで、胃に無理やりエサを詰め込むフォアグラよろしく、生徒の頭をぱかりと開いて、そこに知識を詰め込めるわけではない。(そうできたらどんなにいいだろうと私などは思うが。ああ、フランス語の動詞活用表をぽこり頭に投げ込むことが出来たらどんなに楽か!) ある事象を同じ言葉、同じ表現で説明したとしても、人の記憶力、理解力はそれこそ千差万別。同じ結果にはならない。

ペシミストの私は上記のようなことをくどくどと述べたのだが、私と違ってどこかで楽天的な雪だるまは、それでも教育は重要だと言う。たとえ学校というシステムがうまく機能していなくても、そこで生徒が学んでいなくても、better than nothingだ。教育が進めば進むほど、社会はましになると楽観的見方を崩さない。私もそれくらい楽観的になれればいいのだが。
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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
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