日本語を聴く

  • 2014/09/07 01:32
  • Category: 言葉
このところ何をしていたかというと、日本語を聴いていた。日本語の補給である。自分が喋る日本語以外、日本語を聞けなくなって久しく、語彙も言い回しも錆びつく一方だったからだ。

聴いていたのは藤沢周平さんや平岩弓枝さん、池波正太郎さん。時代小説に傾いたのは好みの問題もあるが、もうひとつ、この方たちの日本語が昭和の日本語だからという理由もある。昭和の半ばに生まれた私は、昭和の日本語の中で育った。日常生活の中で聞き、話し、読み、書きしたのは昭和の日本語で、それが私の文章のもと、語彙、言い回し、表記の仕方を形作った。もちろん読書として明治の日本語も読んだし、平安や江戸の日本語も授業の中で読みはしたが、それらは昭和の日本語というベースの上に乗っかった飾りであって、血肉とはならなかった。

一方、今の、平成の日本語は、私には馴染みがない。平成5年半ばに日本を出、その後20年余を外地で過ごしてしまった私は、その間に流行った言葉、表現、事象を、ほとんど知らない。ネットで新聞や雑誌記事を読んではいたが、日本で毎日を過ごしていた人たちに比べれば、その間に浴び、取り込んだ日本語の量は圧倒的に少なく、平成の日本語は私の中に十分入り込んでいない。それを証拠に、最近作られた日本映画を見ていると、登場人物たちの会話、受け答えに、微妙な違和感を覚えることがよくある。何でもない場面の、何でもない会話なのだが、私が覚えている日本語とは、微妙に言い回し、イントネーションが違う。それが耳に引っかかる。そして、そういえば先日、日本から遊びに来ていた高校生、Mちゃんもそんな話し方をしていたなあ、これが最近の日本語なのかもしれないなあ、と思い当たる。いずれにせよ、ここがこう違うとはっきり指摘はできないものの、それは私の日本語ではないし、真似もできない。よって、私は馴染んだ古巣、昭和の日本語に戻るしかないのである。

で、その結果がまあ、藤沢周平さんであり平岩弓枝さんであるわけなのだが、聴いていてしみじみ楽しいのは何と言っても藤沢周平さんである。彼が描くのは時代を画する英雄や傑物ではなく、何でもない市井の人々、武士なら小藩の下級武士あたり。武士とは言っても内職をしなければ食べていけないような、貧しく、名もない人たちである。映画で有名になった『たそがれ清兵衛』にせよ『祝い人助八』にせよ(ちなみに、映画『たそがれ清兵衛』のストーリーは上記2編と『竹光始末』を合わせたもので、同名小説とはかなり筋が異なる)、絵に描いたような貧乏侍。普段は身なりに構う余裕もなく病妻の世話に明け暮れていたり、勝気な妻の尻に敷かれて汲々としていたりする。達人級の剣の腕はあっても、それを使うことは考えていない。意気地がないというより、それで成り上がろうという野心がないのである。(このあたり、ほとんど平成の“草食系男子”のようだが、この使い方は正しいか?) たとえば『たそがれ清兵衛』の清兵衛など、上意討ちの討っ手を引き受ける褒美として願うのが、自身の役替えでも加増でもなく、病妻のためのよい医者と湯治費用の工面で、聞いた家老があっけにとられる始末。それでも清兵衛は「他にこれといった望みはない」のである。

何事か成したいという大志や野心を持つ人にとっては、こうした小さな幸せに満足し、淡々と日々を送るだけの人生は甲斐ないものと映るだろうが、清兵衛同様、大志も野心もなく、田舎で庭仕事と編み物をしながら何事も成さない日々を送っている私は、それで十分じゃないか、と思う。何も全員が偉人、傑物にならなくてもよいのである。小市民、大いに結構、と思う。
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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
以上、私を幸せにしてくれる方々(敬称略)

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