『男流文学論』

  • 2015/11/04 12:27
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『ナショナリズムとジェンダー』と並行して、『男流文学論』を読んでいるのだけれど、これがどうもよくわからない。上野千鶴子さん、小倉千加子さん、富岡多恵子さん、お三方の鼎談を起こしたものであるから、難解な術語が出て来るわけではないし、持って回ったような文章で書かれているわけでもないのだが、語られている内容がよく理解できないのである。

ひとつには、ここで取り上げられている作家および作品が、ほとんど全部わたしの興味対象外で、したがって昔々読んだことはあっても、ただ“読んだ”というだけで何一つ覚えておらず、よって何を言われても、反論もない代わり同意もない傍観者の立場に終始してしまい、忽然悟入するところがない→つまり「わからない」

もうひとつは、この本では、たとえば吉行淳之介が、島尾敏雄が、いかに“女”をわかっていないか、“女”を自分とは全く違う生物と見ているかが、その文章を通して分析されているが、私はそこで執拗に繰り返される“男”は“女”がわからず、“女”は“男”がわからないということがわからなくて、「ええっ? ある人間が理解できるかできないかは、性別とは関係ないんじゃないの。なんでここで性別でくくるかな?」と、しばらく頭の中を?でいっぱいにしていたのだが、昨日になってようやく、私は大前提の文脈をひとつ見逃していたのだということに気が付いた。

上の“男”は“女”が、“女”は“男”が・・・というのは、性愛の中に置ける男女の相互理解の不可能性の話だったのだ。私はその“性愛(恋愛でもいいが)の中に置ける”という前提をすっぽり見落としていたから、「でも私、雪だるまの考えてることわかるしぃ・・・」とか、かつての上司、同僚、友人の誰彼を思い浮かべて「男だから考えてることがわからないってことはないよなあ」とか考えては首をひねり、どうしてお三方はこうも執拗にこの問題を論じるのだろう? 相手を理解できるか否かは、性別の問題じゃないと思うが・・・などと考えていた。大まぬけ・・・

ただ、では上記の大前提に気が付いたら話が理解できるようになったかというと、それがそうは問屋がおろさず、性愛/恋愛の中に置ける男女の関係というのもまた、私にはよくわからないことのひとつなのだった。男女の関係というのをやらなかったわけではなく、あれこれ色恋の沙汰に励み、ひとのものを盗ったこともあるし、二股かけたこともあるし、なんだかんだ色々やったが、それで♪男と女の間には深くて暗い川がある(←古すぎ)と絶望的に思ったことがあるかというと、これが全然ないのだ。私は感情が浅すぎるか、実は相手を見ていなかったか、あるいはわかっていないということに気づいていなかったのかもしれない。

それに、性愛/恋愛関係の中における相互理解の不可能性というなら、別に異性間でなくても同じではないか。たとえば同性愛者だったら、性愛/恋愛関係において問題なく相手を理解できるかというとそんなことはありそうもなく、同性同士だってやっぱり相手が何を考えているかわからなくてやきもきしていそうだ。
うーん、なんかますますわからなくなってきた。
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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
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