『緋牡丹博徒』 お竜さんは観音菩薩である

  • 2017/01/05 21:24
  • Category: 映画
年明け早々、任侠映画の話というのもなんだが
昨年末に見た藤純子さんの「緋牡丹博徒」シリーズが
意外に面白かったので、ちょっと書いてみたくなった。

このシリーズ、1968年の1本目『緋牡丹博徒』から
尾上菊五郎さんとの結婚により藤さんが引退される
72年の『緋牡丹博徒 仁義通します』まで計8本制作され、
当時大ヒットしたので、現在50歳以上の方なら、実際に映画を見たことはなくとも
「緋牡丹のお竜」の名くらいは、ご存知のことと思う。
あるいは子供の頃、街角でかっこいいお竜さんのポスターを
ちらり見かけた記憶がおありかもしれない。

お話の筋は簡単だ。
時は明治中頃、九州は熊本、五木の親分、矢野組の一人娘に生まれたお竜さんが
渡世修行の過程で行き遭うさまざまな事件の中で、
侠客としての、そして人間としての仁義を通し、
弱きを助け、強きをくじき、悪党どもを成敗していくというのが8本すべてに共通する大枠。
まあ要するに、“古い”タイプのヤクザを主人公にした任侠映画
定番の筋立ての主人公が「緋牡丹のお竜」という女になっただけなのだが、
しかしこの緋牡丹のお竜さん、はなからヤクザ人生を歩むつもりだったわけではない。
地元の大親分の娘とは言え、幼い頃は普通の家の娘同様、大事に大事に育てられ
女学校も出、一通りの作法も身につけて、晴れてカタギの大店にお嫁入り
というその矢先、親分である父が辻斬りに殺され、
それを契機に組はつぶされ子分は散り散り、嫁入り話もご破算になって
蝶よ花よのお嬢様から一転、父の仇を討つために背中に緋牡丹の刺青を背負う
“緋牡丹のお竜”として渡世することになるのである。


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だからこのお竜さん、まんま“うぶな小娘”といった体の第1作はもとより
貫禄の第8作になっても、どこか“お嬢さん”らしさが漂う。
藤さんのきりりとした中にも柔らかさのある(この人は微笑うと片えくぼがよる)、
品のある顔立ちのせいかもしれないし、踊りの所作のようなすっきりとした物腰、
常に無地に近い着物に博多帯という地味な出立のせいかもしれないが
(第一、主題歌にしてからが、「娘盛りを渡世に賭けて・・・」であって
「女盛りを渡世に賭けて・・・」ではないのだ)
銀幕に登場するお竜さんには、博打で人生を送っているようなすさみの影、
日陰者のねじくれた暗さがなく、緋牡丹というより池の中の白睡蓮のように清々しい。
その清らかさは、「聖女」と「娼婦」というお馴染みの(男の側から見た)女の分け方に従えば
明らかに「聖女」側。もっと言えば聖「女」というより聖「母」のキャラだ。

「背中に緋牡丹を背負った女ヤクザが、なんで聖母でありえようか」
と思われる方もいらっしゃるかもしれないが
しかし彼女の聖母性は映画を見れば一目瞭然。
映画の中のお竜さんは、一貫して性的対象外の女として描かれているのである。
だから「聖母」。あるいは、「聖母」という言葉があまりに西洋/基督教的過ぎるなら、
「慈母観音」と言い換えてもいい。
彼女は衆生済度の慈母観音菩薩として、周囲の恵まれない者たちに
惜しみない愛を注き、その悲運に熱い涙を流すが、
しかし「母」であり「観音」であるから、男は抱かない。男に抱かれることもない。
彼女が胸に抱きしめるのは、両/片親を失くした子ども、苦海の女、
死んでいく子分等々、つまり自身が「母」の立場に立ちうる対象だけだ。
他の親分方や同輩の男など、自身が「母」ではなく「女」になってしまう対象は、
決して抱かない。


oryu2.jpg


だからシリーズには、高倉健、鶴田浩二、菅原文太といった
当時の錚々たる任侠映画のスターたちが相手役として登場するが
お竜さんは彼らと恋仲になるどころか、終始一貫、義理に厚く、筋を通した生き方を貫く
敬すべき同業者としてのみ遇し、礼儀正しい他人行儀さを崩さない。
菅原文太との有名な今戸橋の場面でさえ、手がふれ合うのは
落ちた蜜柑を拾って渡す、その一瞬だけである。

一方、男の方もお竜さんを憎からず思い、危機となれば身体を張って
彼女を助けようとはするが、しかし自分の女にしようとはしない。
そりゃあそうだ、いくら美女でも、「母」、「観音様」に手を出す男がどこにいる?
唯一の例外は若山富三郎演じる四国道後の熊虎親分だが、彼にしたところで
お竜さんにぼうっとなって、妹を通じて結婚を申し込んだものの
お竜さんの方は「杯」を三々九度の、ではなく、兄弟分の杯だと勘違いして承知した
というコメディだから、勘定には入らない。

そして東映の任侠映画であるから、たまにはお色気場面もあるし
暴行場面もあるのだが、しかしそこで汚されるのは決まってお竜さん以外の女、
いかさま賽を振る女博徒であったり、女郎であったり、裏切り者の女であったり
つまりは、はなからその「聖女性」を否定された女である。
聖女性を否定された女=娼婦なのであるから、
そんな女はいかように汚そうと構わないのである。
そして逆にお竜さんは、穢れなき存在としてその聖女性を担保され、
「観音菩薩」として敬慕の対象となる代わりに
生身の女としては惚れた男の腕に抱かれることもなく、
独り光背背負って蓮の花の上に立つことになる。
その昔『山口百恵は菩薩である』という本があったが
実は緋牡丹お竜さんも菩薩であったのだ、ちょん。

それにしても、この女を「聖女」と「娼婦」に分ける構造は、
昭和40年代の任侠映画だからなのか、
それとも映画界という世界が圧倒的に男中心の世界で
(金を出すのも、メガホン取るのも、カメラ回すのも主要な役割は全部男)、
だから当然男の側から見た女ばかりが描かれることになるのか
いずれにせよ余りにわかりやすすぎて、いっそ可笑しい。

もっとも映画そのものは、そうした七面倒くさいことを抜きにして
娯楽映画として上出来に楽しいし、藤さんのすっきりと粋な着物姿や
回を追うごとにあでやかさを増していく美貌を眺めるためだけでも
全8本、鑑賞する価値はある。
そして賭場での藤さんも、惚れ惚れするほどかっこいい。
彼女がやるのはサイコロではなく手本引で、終始無言、無表情だが
すっと伸びた背筋、半肩に掛けた羽織、
目木を指し示すしなやかな指の動き等、ひとつひとつがきっちりと端正だ。

この手本引きは 『乾いた花』の加賀まりこさんもやっていたが
動きが静かなだけに、男がやるより女がやった方が
その所作の美しさが際立つ気がする。
ただし、賭け方は丁半博打よりだいぶ複雑で
私はいくら解説を読んでも、掛け金の置き方と倍率が覚えられない。
商売とは言え、瞬時に客のかけ金額と倍率を計算して
配当を渡せる合力のお兄さんたちは凄いと思う。

最後になったが、緋牡丹シリーズは藤さんのお相手の俳優さんたちもいい。
高倉健さん、鶴田浩二さん、菅原文太さんの3人が
とっかえひっかえ出てくるのだが、どなたもちょうど男盛りというか
油の乗ったところという感じで、みなそれぞれに渋くかっこいいのだ。
高倉健さんなんて、私はこのシリーズを見るまではどこがいいのかちっともわからなかったが
(『鉄道員』でも『あなたへ』でも、全く冴えなかった)
なるほど、若い頃の任侠映画の健さんは、登場するだけで舞台が締まる
圧倒的な存在感と、一徹を絵に描いたような容貌で
見るものを陶酔させる俳優だったのだなあと納得した。
そう思ってみれば『唐獅子牡丹』のポスターなど、痺れるほどかっこいい。
昭和残侠伝シリーズ、見てみたくなったが、まさか雪だるま、買わないだろうなあ。
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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
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