新聞&本 VS ネット ?

  • 2010/05/05 16:57
  • Category: 雑記
ゴールデンウィークで日本から遊びに来たお客様のひとりが、415日の読売新聞のコピーをくれた。なぜ415日かというと、この日の新聞に読売新聞入社式での渡辺恒雄・グループ本社会長・主筆のあいさつと、老川東京本社社長のあいさつが載っているからである。このお客様は自分でもある業界紙の発刊を目指しているので「新聞はまだまだ信頼されている。新聞は生き残る」という渡辺・老川両氏の主張が載っている部分をコピーしてきたのである。

同社の言うことを信用するなら、読売新聞は発行部数
1000万部を誇る世界最大の新聞である。で、そこの主筆は言う。「新聞も本も読まず、ネットの世界にのみ没入している若者は、将来日本を支える指導力、知性、生産力、倫理観等を身につけることが出来ず、国民の文化や民度の劣化を招くものと心配している」

一瞬「はあ」と納得しかけるのだけれど、よく考えると変だ。だって今は新聞も本もネット上にあるんだから、「新聞&本」
VS「ネット」という図式は成り立たない。(ま、本はまだ数が多いとは言えないけど)わたしなんて日本の新聞はもちろん、地元紙の“South China”だって購読しているのは電子版(有料)だ。つまりネットの世界に没入して新聞を読んでいるわけで、こういう私みたいなのは、渡辺主筆の図式では入るところがない。

思うに渡辺主筆の頭の中にある「ネット」というのは、彼が挨拶の前段で言う「責任不明の発信者による無責任な言論、他人の名誉に対する毀損行為、流言飛語、猥雑で反社会的な情報の流布、思想体系のない断片的言説」が横行する無法地帯で、まともな知性の持ち主ならば一顧だにしない情報ヘドロの海、といった位置づけなのだろうが、ネット常用者ならよーくわかっているとおり、そんなのはネットの海の中のほんの一部であって、海の一部が汚いからといって、海全部が汚いと決め付けられるのは心外だ。

第一、この文章だってネット上に書いているのだ。他にどうやって、外地にいる私が日本にいる人とコミュニケイトできるというのだ? 日本語でなくネット界の共通語、英語で書けば、それこそ世界中の人とコミュニケイトできる。ネットの世界でのコミュニケイトは底が浅いというのも、間違いだ。立派な書き手のサイトを見ればわかるとおり、まっとうな文章にはまっとうな反応、コメントが入っている。

ただネット上で個人が書いている文章には編集者や検閲者の手が入らないから、紙媒体よりも文章と情報の質が低くなりがちという傾向があることは私も認める。何しろちょっちょとキーボードを叩けば、ネット上に情報が流れるのだから誹謗中傷も簡単だ。しかし、それなら新聞・雑誌の情報はすべて信用できるのかといえば、そんなはずないのは言うまでもないことで、それぞれ大株主や広告主のご機嫌を損ねるのはできれば避けたいところであるし、政府の意向に背いた報道をするのも剣呑だ。自然、報道される情報、内容は「安全」なものに偏向する。つまりどっちもどっちだ。だからこそメディア・リテラシーが必要なのだし、情報の正確性、信憑性、必要性は、読み手自身が判断、取捨選択するしかないのだ。

『将来日本を支える指導力、知性、生産力、倫理観等を身につける』のに肝心なのは、どういう情報を基に思考するかであって、その情報をどこから取ったかではないと思う。問題なのは媒体ではなく、情報そのものだ。先賢の思索は、石に刻まれていようと、紙に印刷されていようと、ネット上の電子情報だろうと、その価値に変わりはないだろう。

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ドロシー・L・セイヤーズ、ローリー・R・キング、P.D.ジェイムズ、ディック・フランシス、水村美苗、高村薫、戸塚真弓、ヘレン・ミレン、シャーロット・ランプリング、ソフィ・マルソー(40代以降に限る)、ヘレナ・ボナム・カーター、アンジェリーナ・ジョリー、三代目金馬、小さん、枝雀、エンヤ、クイーン、ドゥルス・ポンテス、マドレデウス、J・S・バッハ、ちあきなおみ、トケイ・ピノ・グリ、アール・グレイ、自転車(冬季を除く)、あらゆる犬と猫
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